第6話 隠された甘い秘密
エプロンのポケットの中で、重たい真鍮の鍵束がカチャリと鳴った。
その金属音は、私がこの屋敷の管理者であるという証だ。
財務権限を委譲されてから二週間。屋敷の環境改善は「劇的」という言葉では足りないほど進んでいた。
ハンスさんは新しいモップと増員されたパートタイマーのメイドたちへの指示出しに専念し、顔色が見違えるほど良くなった。
そしてクラウス様は――相変わらず激務だが、少なくとも死相は消えている。
(さて、今日のタスクは……)
私は執務室の窓を大きく開け放った。
爽やかな風が吹き込み、書類の角を揺らす。
クラウス様は王城へ出仕中で不在だ。この隙に、普段は手の届かない「聖域」の清掃を行う。
それは、執務机の引き出しの中だ。
「……埃だらけね」
一番下の引き出しを開けた瞬間、私は顔をしかめた。
重要書類が入っているかと思いきや、そこは文房具の墓場だった。使い切ったインク壺、折れた羽ペン、変色した羊皮紙の切れ端。
几帳面そうに見えて、彼は自分の足元の整理整頓が壊滅的だ。
私は手袋をはめ、テキパキと不用品をゴミ袋へと放り込んでいく。
その時。
引き出しの最奥、インク壺の陰に、丸められた小さな紙屑を見つけた。
銀紙だ。
「……?」
拾い上げて広げてみる。
甘い香りが微かに残っていた。内側には、茶色い染み。
これは、王都で人気の高級チョコレート店『ル・レーヴ』の包み紙だ。しかも、かなり最近のもの。
(クラウス様が、チョコを?)
私は首を傾げた。
彼は「氷の宰相」だ。食事は栄養補給と割り切り、嗜好品といえばコーヒー(ブラック)のみ。
以前ハンスさんに聞いたときも、「旦那様は軟弱な甘味を嫌っておられます」と言っていたはずだ。
私はもう一度、引き出しの奥をまさぐった。
出てくる、出てくる。
クッキーの欠片、キャンディの包装紙、そして半分溶けかけたキャラメル。
まるでリスの冬支度だ。
(……確定ね)
私はニヤリと笑った。
嫌いなのではない。隠れて食べているのだ。
それも、執務中にこっそりと糖分を摂取しなければならないほど、脳が悲鳴を上げている証拠だ。
「これは、見過ごせない『健康課題』だわ」
私は証拠品をポケットにしまい、掃除道具を片付けた。
彼が隠れてコソコソ食べる必要などない。
管理栄養士――ではないけれど、屋敷の管理者として、堂々と提供してあげるのが優しさというものだ。
◇
「エ、エレナ様!? クッキーを焼くのですか!?」
厨房で小麦粉を練る私を見て、ハンスさんが悲鳴を上げた。
「ええ。三時のコーヒーのお供に」
「お止めください! 以前、新入りのメイドが気を利かせてケーキを出した際、旦那様は『仕事の邪魔だ』と氷のような視線で退けられたのです! 甘いものは女子供の食べ物だと、先代様からの教えで……」
ハンスさんが青ざめている。
なるほど、原因は父親の教育か。
「男が甘いものを好むのは軟弱」という古い価値観。それが呪いのように彼を縛っているのだろう。
だからこそ、彼は公然とは食べられず、引き出しの奥でこっそりと楽しむしかなかったのだ。
(なんて不憫で……非効率な)
好きなものを好きと言えないストレスは、業務パフォーマンスを低下させる。
私はオーブンに天板を入れながら、きっぱりと言った。
「大丈夫よハンスさん。これはお菓子ではありません。『脳機能維持のためのブドウ糖補給食』です」
「は、はあ……?」
「名目が違えば、受け取り方も変わるものよ」
◇
夕刻。クラウス様が帰宅し、執務室での残業が始まった頃合いを見計らって、私はワゴンを押した。
コーヒーの芳醇な香り。
そしてその横には、焼き立てのクッキーを盛った皿。
あえて可愛らしい装飾はせず、無骨な四角い形に焼き上げた。ナッツを多めに入れ、見た目はあくまで「軽食」風に偽装してある。
「失礼します。コーヒーをお持ちしました」
「……ああ、そこに置いてくれ」
クラウス様は書類から目を離さずに言った。
私はカップを置き、その横にさりげなくクッキーの皿を滑り込ませた。
「こちらは?」
すぐに彼が反応した。眉間に皺が寄る。
想定通りの警戒反応だ。
「最近、閣下の集中力が午後になると低下傾向にあると分析しました。脳のエネルギー源であるブドウ糖が不足しているためです」
私は事務的な口調で捲し立てる。
「これは薬膳の一種とお考えください。ナッツによるミネラル補給と、即効性のある糖分を含んでいます。効率的な執務のために、摂取を推奨します」
「……薬膳、か」
クラウス様が眼鏡越しに皿を見た。
甘いバターの香りが、彼の鼻先をくすぐっているはずだ。
喉がゴクリと動くのが見えた。
「毒見は?」
「もちろん済ませてあります。……少々、焼きすぎて苦くなってしまったかもしれませんが」
これは嘘だ。本当は絶妙な焼き加減で、中はしっとり、外はサクサク。そして何より、彼が隠し持っていた高級チョコに負けないくらい、リッチな甘さに仕上げてある。
彼は「苦いなら問題ない」と言いたげに、一つ手に取った。
そして、疑い深く端を齧った。
「…………」
サクッ、という軽快な音。
その瞬間、クラウス様の動きが止まった。
鉄仮面のような無表情に、亀裂が入る。
見開かれた瞳。微かに赤らむ頬。
(……落ちた)
私は内心でガッツポーズをした。
彼は口元を片手で覆い、咀嚼した。そして、あっという間に一つ目を飲み込むと、無意識のうちに二つ目に手を伸ばしていた。
「……悪くない」
震える声で、彼は言った。
「確かに、脳が冴える気がする。……あくまで、効率のためだが」
「ええ、左様でございますとも」
私は表情筋を総動員して、ニヤつくのを堪えた。
可愛い。
「氷の宰相」が、リスのように頬を膨らませてクッキーを食べている。
その姿は、この屋敷の誰よりも人間らしく、無防備だった。
「エレナ」
不意に名前を呼ばれ、私は姿勢を正した。
「……この『補給食』は、明日も用意できるか?」
彼は皿に残った最後のクッキーを惜しむように見つめながら、上目遣いで私を見た。
それは命令というより、懇願に近かった。
「もちろんです。在庫管理はお任せください」
私が微笑むと、彼はバツが悪そうに咳払いをし、再び書類に向き直った。
だが、そのペンを走らせる手つきは、先ほどまでより明らかに軽快だった。
引き出しの奥のゴミはもう増えないだろう。
これからは堂々と、私の前で甘い顔を見せてもらおうじゃないか。
それは管理者である私だけに許された、ささやかな特権なのだから。




