第5話 給与交渉と福利厚生
完璧な抽出温度で淹れたコーヒーの香りが、私の記憶の中でまだ湯気を立てている。
あの一件以来、宰相クラウス様の態度は劇的に軟化した。少なくとも、私を「殺すべき不審者」から「有能なカフェイン供給源」へと格上げしたようだ。
だが、信頼関係が築かれつつある今だからこそ、メスを入れなければならない問題があった。
私はダイニングテーブルに広げた分厚い帳簿を睨みつけ、こめかみを指で押さえた。
ズキリと頭が痛む。
「……ハンスさん。この『氷室維持費』というのは?」
「は、はい。旦那様の魔力を抑えるための冷却魔道具の魔石代でございます」
控えていたハンスが、縮こまりながら答える。
私は電卓代わりの計算盤を弾いた。
「相場の三倍ね。しかも毎月定額払い。……これ、業者に見積もり取り直しました?」
「い、いえ、先代の頃からの付き合いでして……言われるがままに……」
ハンスの声が小さくなる。
私は大きなため息をついた。
食費、日用品、修繕費。すべての項目がザルだ。
クラウス様は「氷の宰相」として国政では辣腕を振るっているらしいが、自分の財布の紐に関しては、氷どころか水のように緩い。いや、単に無関心なのだ。
このままでは、私の給与どころか、いずれ屋敷が破綻する。
(労働環境の安定は、健全な財務から)
私はバタンと帳簿を閉じた。
立ち上がる拍子に、椅子が床を擦って決意の音を立てる。
「ハンスさん。ペンと紙を用意して。あと、私の印章も」
「え? 何をなさるおつもりで?」
「決まっているでしょう。労使交渉よ」
◇
執務室の扉をノックすると、すぐに「入れ」という声が返ってきた。
以前のような刺々しさは消えている。
入室すると、クラウス様は整頓された机で書類に向かっていた。
部屋の隅では、魔導ポットがシュンシュンと音を立て、適切な湿度が保たれている。私が導入した環境改善の成果だ。
「……コーヒーなら、まだ残っているが」
クラウス様が手を止めずに言う。
私はその正面に立ち、一枚の紙を突きつけた。
「本日はコーヒーのおかわりではなく、契約の更新に参りました」
「契約?」
怪訝そうに眉をひそめ、彼はようやく顔を上げた。
銀色の瞳が私を射抜く。
私は怯まず、持参した『業務改善提案書 兼 雇用契約書(案)』を彼の書類の上に重ねた。
「単刀直入に申し上げます。この屋敷の財務管理権限を、私に委譲してください」
「……は?」
クラウス様が眼鏡の位置を直した。
私は畳み掛ける。
「帳簿を拝見しましたが、無駄な支出が多すぎます。特に魔石の仕入れと食材ルート。これらは私のコネクションを使えば、コストを三割は圧縮可能です」
「金ならある。国からの歳費と、領地からの収入で十分に……」
「あるから使っていいという理屈は、経営では通用しません!」
私は机をバンと叩いた――寸前で止めた。
危ない。つい前世のクセで、クライアントの社長を叱り飛ばすところだった。
私はコホンと咳払いをして、努めて冷静なトーンに戻した。
「無駄なコストを削減し、その分を『環境整備』と『人件費』に回すべきです。具体的には、ハンスさんの治療費、新たな使用人の雇用予算、そして――」
私は自分の胸に手を当てた。
「私の給与です」
クラウス様が目を丸くした。
きょとん、としている。氷の宰相らしからぬ、間の抜けた表情だ。
「……君は、金が欲しいのか?」
「当然です。私は今、掃除、料理、秘書業務、そして財務管理を行っています。これだけの労働に対して、無報酬というのは奴隷契約に等しい。違いますか?」
対価に見合わない労働は、モチベーションを低下させ、品質を下げる。
これは私の譲れないポリシーだ。
クラウス様はしばらく私を見つめ、やがて低い声で笑った。
「くく……」
「何がおかしいのですか」
「いや……てっきり、宝石やドレスをねだられるものとばかり思っていたのでな。あるいは、王都への帰還か」
彼は椅子の背もたれに体を預け、面白そうに口角を上げた。
「元公爵令嬢が、労働の対価を要求するか。……いいだろう。君の働きには、それだけの価値がある」
彼はペンの尻でトントンと机を叩いた。
「財務の全権を君に任せる。給与も、君が適正だと思う額を書き込むがいい。承認する」
「ありがとうございます。では、ここにサインを」
私が契約書を差し出すと、彼はサラサラと署名をした。
そして、引き出しを開け、ジャラリと音を立てて何かを取り出した。
重厚な金属の束。
大きな真鍮の鍵だった。
「それと、これを持っておけ」
彼は鍵束を放り投げた。
私は慌てて両手でキャッチする。
ずしりとした重みが、手のひらに食い込む。
「これは?」
「屋敷のマスターキーだ。金庫、倉庫、地下室……すべての扉が開く。いちいちハンスや私に許可を取るのは非効率だろう?」
非効率。
私の大好きな言葉を使ってくるとは、彼も学習しているらしい。
だが、私はその鍵の意味を知っていた。
この国の貴族社会において、屋敷のすべての鍵を預けるということは、その家の「女主人(奥方)」として認めるのと同義だ。
たとえ彼がそれを「業務効率化ツール」として渡したのだとしても。
(……重い)
物理的な重量以上に、その鉄の冷たさが心臓に触れた気がした。
この人は、出会って一週間の、しかも「悪役令嬢」のレッテルを貼られた私に、自分の急所を預けたのだ。
無防備すぎる。
あるいは、それほどまでに私が作った環境――「居場所」を失いたくないのか。
「……承知いたしました。責任を持って管理します」
私は鍵束をエプロンのポケットにしまった。
カチャリ、という音が、契約成立の合図のように響く。
クラウス様は、どこか満足げに目を細めた。
「頼むぞ、管理人。……君がいないと、もう美味いコーヒーが飲めん」
その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも、私の職業意識を刺激した。
胃袋とカフェインで繋がった関係。
色気はないけれど、悪くない。
「お任せください。最高の職場環境をお約束します」
私は契約書を回収し、優雅にカーテシーを決めた。
ポケットの中の鍵が、歩くたびにカチャカチャと音を立てる。
それは、私がこの屋敷で生きるための、確かな錨の音のように聞こえた。
こうして私は、名実ともに宰相邸の「影の支配者」となったのである。




