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断罪されたので「業務改善」いたします!  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第4話 氷の宰相、コーヒーに敗北する

 目覚めた瞬間、私はある種の違和感に襲われた。

 頭が痛くない。

 万年続いていた、こめかみを締め付けるような鈍痛が消えている。

 身を起こすと、掛けられていた毛布が滑り落ちた。ソファで寝落ちしていたらしい。いつものことだ。だが、いつもと違うのは、喉の渇きも、胃の不快感もないことだった。


 視線を部屋に巡らせる。

 朝日が射し込む執務室は、不気味なほど整然としていた。

 かつて床を埋め尽くしていた書類の雪崩は消滅し、すべての文書は壁際の棚と、机上の三つの木箱――『今日中』『保留』『保管』――に収まっている。

 空気は澄み、インクと埃の澱んだ匂いの代わりに、微かな柑橘系の香りが漂っていた。


(……魔法か?)


 私は眉間を揉んだ。

 いや、魔法ではない。あの女――エレナ・フォン・ミューラーの仕業だ。

 三日前、王城から「廃棄物」として送りつけられてきた元公爵令嬢。

 泣き喚くでも、媚びるでもなく、私の執務室に夜食を持って押し入り、勝手に書類を整理し始めた変わり者。


 コンコン、と控えめなノック音が響いた。


「閣下、補佐官のルカスです。入室しても?」


「入れ」


 短く応じると、扉が開き、若い文官が入ってきた。

 彼は入室した途端、目を見開き、口を半開きにして立ち尽くした。


「……か、閣下? ここは……本当に閣下の執務室ですか?」


 ルカスの声が裏返った。

 無理もない。ここは三日前まで、足の踏み場もない魔窟だったのだから。


「掃除が入った。それより、今日の報告を」


「は、はい! ですが……まさか、ハンスさんが一人でこれを? 彼は腰を痛めていたはずでは……」


 ルカスは信じられないといった顔で、ピカピカに磨かれた床を見下ろしている。

 彼の困惑はもっともだ。ハンス一人では不可能だ。

 つまり、あの令嬢がやったということになる。


「……ミューラー嬢だ」


 私が渋々その名を口にすると、ルカスの表情が一変した。

 警戒と、嫌悪の色。


「あの『悪役令嬢』ですか? 閣下、お気をつけください。噂では、彼女は気に入らない相手を徹底的に陥れるとか。この掃除も、何か重要な書類を隠蔽するための工作かもしれません」


 ルカスの懸念は、官僚として正しい。

 私も最初はそう疑った。

 だが、机上の箱を見る。

 『今日中』の箱に入っているのは、確かに優先度の高い決裁案件ばかりだ。日付、重要度、関連部署。完璧に分類されている。こちらの業務フローを熟知していなければ不可能な芸当だった。


(工作にしては、あまりに私へのメリットが大きすぎる)


 思考を巡らせようとした時、再びノックの音がした。

 今度は、迷いのない、リズミカルな音。


「失礼いたします。モーニングコーヒーをお持ちしました」


 許可を待たずに扉が開いた。

 エレナが入ってくる。

 簡素なドレスに、白いエプロン。その姿は公爵令嬢というより、有能な秘書官のようだった。手には銀のトレイがあり、湯気を立てるカップが乗っている。


「……勝手に入るなと言ったはずだが」


 私は条件反射で文句を言った。

 しかし、エレナは涼しい顔で机に近づいてくる。


「ノックはしましたわ。それに、朝のカフェイン摂取が遅れると、閣下の機嫌が悪くなり、国政に支障が出ますので」


「なっ……」


 ルカスが絶句している。私に対してここまで平然と口を利く人間は、王城にもいない。

 エレナは私の前にカップを置いた。

 その瞬間、鼻腔をくすぐる香りに、私の思考が停止した。


(……なんだ、この香りは?)


 深みのある苦味と、華やかな酸味が混じり合った、芳醇な香り。

 いつもハンスが淹れていた、焦げ臭い泥水のようなコーヒーとは別物だ。


「毒見は済ませてあります。豆は市場で私が選定し、焙煎具合も指定しました。抽出温度は九十度。酸味が出すぎないように調整してあります」


 エレナは淡々と説明し、ルカスに向き直った。


「補佐官様も、いかがですか? 厨房に予備がございますが」


「い、いえ! 私は結構です! ……閣下、やはり毒の可能性も……」


 ルカスが小声で忠告してくる。

 だが、私の手はすでにカップへと伸びていた。

 本能が、その液体を求めていた。脳の奥が「それを寄越せ」と叫んでいる。

 私はカップを持ち上げ、一口、含んだ。


「…………」


 熱すぎず、ぬるすぎない。

 舌の上で滑らかな苦味が広がり、次いで豊かなコクが鼻に抜けていく。

 雑味がない。

 ただ純粋に、研ぎ澄まされた覚醒の味がした。


 ゴクリ、と喉が鳴る。

 一口飲んだだけで、血管が拡張し、脳細胞がパチパチと音を立ててクリアになっていく感覚。


「……っ」


 私は思わず息を吐いた。

 これは、美味い。

 悔しいが、認めざるを得ない。王宮の夜会で出される最高級品よりも、数段上の味だ。


「いかがですか?」


 エレナが小首を傾げる。その表情には「美味しいと言わせてみせる」という自信が満ちていた。

 私はカップをソーサーに戻す指先が、わずかに震えるのを自覚した。

 これは中毒になる。

 一度これを知ってしまったら、もうあの泥水には戻れない。


「……悪くない」


 精一杯の虚勢を張って、私は短く答えた。

 それ以上の称賛を口にすれば、彼女のペースに完全に飲み込まれる気がしたからだ。


「それは何よりです。では、カップが空になりましたらおかわりをお持ちします。……それと、補佐官様」


 エレナはルカスに視線を移した。


「先ほどの『書類の隠蔽』という懸念ですが、ご安心を。破棄した書類のリストと、その理由を記した台帳をハンスさんに預けてあります。後ほどご査収ください」


「え……あ、はい……」


 ルカスが気圧されて頷く。

 エレナは優雅に一礼すると、スカートを翻して退室していった。

 パタン、と扉が閉まる。

 残されたのは、完璧なコーヒーの香りと、呆然とする男二人。


「……閣下。あの令嬢、本当に『悪女』なのでしょうか?」


 ルカスがポツリと漏らした。

 私は残りのコーヒーを喉に流し込み、空になったカップを見つめた。


「さあな。だが……少なくとも、コーヒーを淹れる腕だけは、国一番かもしれん」


 私は無意識のうちに、ペンを走らせる速度を上げていた。

 頭が冴えている。

 目の前の書類が、まるで自分から整理されるのを待っているかのように見えた。

 認めよう。

 彼女が来てから、仕事がやりやすい。

 その事実だけは、氷のように冷たく、動かしようのない真実だった。


(……だが、調子に乗らせるわけにはいかんぞ)


 心のどこかで、小さな抗いをする。

 しかし、私の視線はすでに、彼女が次のおかわりを持ってくるタイミングを、時計で確認してしまっていた。

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