第3話 執事ハンスの陥落
窓から差し込む朝日の眩しさに、私は重い瞼を持ち上げた。
インクと古紙の匂いが鼻をくすぐる。背伸びをすると、固いソファの感触と引き換えに、全身の骨がバキバキと悲鳴を上げた。
昨夜――正確には今朝方まで続いた「書類選別」の戦場跡を見渡す。
床を埋め尽くしていた紙の海は消え、壁際には「今日中」「明日以降」「保管」と書かれた木箱が整然と積まれている。
(……悪くないわね)
首をコキリと鳴らし、私は満足げに息を吐いた。
視線を執務机に向ける。
そこには、まだ泥のように眠り続けるクラウス様の姿があった。銀色の髪が机に散らばり、眼鏡が少しずれている。
呼吸は深く、穏やかだ。どうやら過労死の危機は脱したらしい。
私は音を立てないように立ち上がり、執務室を後にした。
まずは顔を洗って、コーヒーでも淹れよう。
そう思って廊下に出た瞬間だった。
「ぐっ……うぅ……」
苦しげな呻き声が聞こえた。
私は足を止めた。声の主は、階段の踊り場にいた。
執事のハンスだ。
彼は雑巾を握りしめたまま、手すりにしがみつくようにして蹲っていた。顔色は土気色を通り越して、もはや石像のように灰色だ。
「ハンスさん?」
駆け寄ろうとした私に、彼は片手を上げて制止しようとした。
「も、申し訳……ございません……。少し、腰が……」
言い訳をしようとする口元が引きつっている。
私は瞬時に、彼の姿勢と、その足元にある水桶を見た。
冷たい水。屈まなければ絞れない雑巾。そして、この屋敷の広大すぎる階段。
(……労働災害確定ね)
私は眉をひそめた。
前世で幾度となく見てきた、現場崩壊の予兆だ。
ワンオペ育児ならぬ、ワンオペ屋敷管理。しかも高齢者に重労働。ブラック企業も裸足で逃げ出す環境である。
「動かないで。今、楽にしてあげるから」
「い、いえ! 朝の拭き掃除を……旦那様が起きる前に終わらせないと……」
ハンスが脂汗を浮かべながら立ち上がろうとする。
その悲壮な責任感に、私はため息をついた。
「それが非効率だと言っているのよ」
私は彼の手から雑巾を取り上げた。
冷たい。こんな冷水で、老体に鞭打って拭き掃除をしていたのか。
「ついてきて。厨房の裏口に、壊れかけの箒があったわよね?」
「は、はあ……ですが、あれはもう柄が折れて……」
「それがいいのよ」
私は困惑するハンスを半分引きずるようにして、一階へと降りた。
◇
十分後。
私は厨房の裏庭で、即席の「新兵器」を完成させていた。
折れた箒の柄と、使い古した雑巾、そして麻紐。それらを組み合わせ、先端に雑巾を固定しただけの、なんの変哲もない長い棒だ。
「エレナ様……それは?」
ハンスが痛む腰をさすりながら、怪訝な顔をする。
私はその棒――即席モップを彼に手渡した。
「立って掃除するための道具よ。雑巾がけは膝と腰を殺すわ。これなら、背筋を伸ばしたまま床を拭ける」
「しかし……床に膝をついて磨くのが、執事としての作法であり……誠意というもので……」
ハンスが躊躇う。
予想通りの反応だ。長年の慣習という呪いは、そう簡単には解けない。
私は腕組みをして、あえて冷たい声を出した。
「ハンスさん。誠意で腰痛が治るなら苦労はないわ」
「うっ……」
「あなたが倒れたら、誰がクラウス様の身の回りの世話をするの? 私にはまだ、彼の好みの茶葉も、平服の場所も分からないのよ」
これは事実だ。
私がどんなに業務改善できても、長年培われた「阿吽の呼吸」だけは代替できない。
ハンスはこの屋敷のデータベースであり、最重要リソースなのだ。
「あなたは、この屋敷の要なの。その要が、床掃除ごときで使い潰されるなんて、私が許さない」
私の言葉に、ハンスが目を見開いた。
その瞳が潤むのを見て、私は少し言いすぎたかと反省する。
だが、彼は震える手でモップを受け取った。
そして、恐る恐る床に滑らせた。
「……あ」
声が漏れた。
屈まなくていい。体重を乗せるだけで、スムーズに雑巾が床を滑る。
腰への負担が、嘘のように軽い。
「こ、これは……」
「それと、もう一つ業務命令」
私は感動に震えるハンスに、追い打ちをかけるように告げた。
「今後、二階の旦那様の部屋への出入りは、原則として私が担当します」
「えっ? しかし、それは私の仕事で……」
「あなたのその顔色の悪さは、単なる過労だけじゃないわね?」
私は彼の顔を指差した。
階段で見かけたときから気になっていた。彼の疲労感は、肉体的なもの以上に、精気を吸い取られたような異質さがあった。
「クラウス様の魔力よ。無意識に漏れ出ている冷気に、長い間当てられすぎたのね。普通の人間には毒に近いわ」
「……気づいて、おられましたか」
ハンスが苦笑した。図星だったようだ。
氷の宰相と呼ばれる男のそばにいるだけで、常人は体力を削られる。それを根性で耐えてきたのだろう。
「私は魔力耐性が高いみたいで、平気なの。だから、危険手当のつかない高リスク地帯(二階)は私が受け持つ。あなたは一階の管理と、私への指示出しに専念して」
適材適所。
リスク分散。
コンサルタントとして当たり前の提案だ。
しかし、ハンスにとっては違ったらしい。
彼はモップを握りしめたまま、その場に膝をついた。
いや、崩れ落ちたのではない。
跪いたのだ。
「……エレナ様」
ハンスの声が震えていた。
見上げられたその目には、大粒の涙が浮かんでいた。
「今まで……誰も、使用人の健康など気にかけてはくださいませんでした。辞めていく者たちを『根性がない』と罵る方ばかりで……」
「……ハンスさん」
「あなた様は、女神ですか」
「いいえ、ただの元社畜……いえ、効率化マニアよ」
私は慌てて否定したが、ハンスは聞く耳を持たなかった。
彼は涙を拭うのも忘れ、真っ直ぐに私を見つめた。そこには、昨日までの「監視者」としての警戒心は欠片もなかった。
あるのは、狂信に近いほどの忠誠心だけだ。
「このハンス、これより全霊を以て、エレナ様にお仕えいたします。旦那様よりも優先して、あなた様の指示に従いましょう!」
「い、いえ、旦那様を優先してあげて?」
「いいえ! あの方の健康を守るためにも、まずはエレナ様のご采配が必要です! さあ、次は何をいたしましょう!? 窓拭きですか? 庭の手入れですか!?」
腰の痛みが消えた反動か、ハンスがいきなり元気になった。
モップを聖剣か何かのように掲げる姿に、私は苦笑いするしかなかった。
(まあ、いいわ)
味方は一人でも多い方がいい。
特に、屋敷の裏事情を知り尽くしたベテラン執事ならば、百人力だ。
「じゃあ、まずは朝食にしましょう。まともな食材の調達ルート、知っているわよね?」
「ハッ! 隣町の市場に、私の顔なじみがおります!」
「完璧ね。じゃあ、買い出し部隊、出動よ」
私が指を鳴らすと、ハンスは「御意!」と軍人のような敬礼を返した。
厨房に差し込む朝日が、やけに明るく見えた。
こうして私は、この屋敷での最初の、そして最強の味方を手に入れたのだった。
……まあ、この後起きてきたクラウス様が、私とハンスの仲良さげな様子を見て、無言で不機嫌になるのは、また別の話である。




