第26話 氷の宰相、倒れる
王宮から屋敷までの馬車の記憶は、ほとんどない。
覚えているのは、隣で崩れ落ちたクラウス様の身体が、死体のように冷たかったことだけだ。
「ハンスさん! 手を貸して! クラウス様が!」
屋敷に到着するなり、私は御者台から飛び降りて叫んだ。
玄関の扉が開き、ハンスさんが飛び出してくる。
だが、馬車の扉を開けた瞬間、彼は「ひっ」と息を飲んで後ずさった。
車内から、猛吹雪のような冷気が噴き出したからだ。
「こ、これは……!」
「魔力の暴走です! 早く寝室へ! それとレオンさんを叩き起こして!」
私はハンスさんの制止も聞かず、クラウス様の腕を肩に回した。
重い。そして痛いほど冷たい。
『氷絹』のドレスと、左手の指輪が守ってくれているおかげで、私はかろうじて動けている。
だが、普通の人間なら触れた瞬間に心臓が麻痺するレベルだ。
「わ、私が持ちます!」
「無理よ! あなたじゃ凍ってしまうわ!」
私はハンスさんを怒鳴りつけ、歯を食いしばって歩き出した。
幸い、火事場の馬鹿力というやつか、今の私には彼を支えるだけの力があった。
廊下を進むたびに、パキパキと音を立てて壁が凍りついていく。
花瓶の水が瞬時に氷塊に変わり、窓ガラスに幾何学模様の霜が走る。
屋敷全体が、巨大な冷凍庫に変貌しつつあった。
◇
寝室のベッドにクラウス様を横たえる頃には、私の感覚も麻痺しかけていた。
布団を掛けるが、掛けたそばから布地が凍りつき、バリバリに硬化していく。
「……クソッ! なんて数値だ!」
ドタドタと足音を立てて、レオンが飛び込んできた。
彼は手にした魔力測定器を見て、顔面蒼白になっている。
白衣の上に、防寒用の毛皮を三枚も重ね着しているが、それでもガタガタと震えていた。
「レオンさん! 状況は!?」
「メルトダウンだ! 魔力回路が完全に焼き切れてやがる! 生成された魔力が体の中で行き場を失って、暴れまわってるんだよ!」
レオンはベッドの遠くから叫んだ。
近づけないのだ。
彼の高い魔力耐性をもってしても、今のクラウス様の半径三メートル以内は致死圏内らしい。
「治療法は!?」
「ねえよ! 今の閣下は、安全装置の外れた爆弾だ! うかつに触れば誘爆して、この領地ごと氷河期だぞ!」
レオンが絶望的な声を上げる。
入り口では、ハンスさんが涙を流しながら膝をついていた。
彼もまた、主人のそばに行くことさえできない。
「……そんな」
私はクラウス様の顔を覗き込んだ。
睫毛も、銀色の髪も、霜で白く染まっている。
唇は紫色で、呼吸は浅く、途切れがちだ。
一ヶ月?
冗談じゃない。
今夜が山だ。いや、数時間もつかどうか。
「……逃げろ」
かすかな声がした。
クラウス様の目が、うっすらと開かれている。
焦点は合っていない。
けれど、その唇は確かに言葉を紡いでいた。
「エレナ……逃げるんだ……。私は……もう……」
「嫌です」
私は即答し、彼の手を強く握った。
私の体温が、指輪を通じて彼に流れていくのを感じる。
「離れろ……! 君まで……死ぬぞ……!」
彼は最後の力を振り絞って、私の手を振り払おうとした。
その目には、恐怖が宿っていた。
自分の死への恐怖ではない。
私を巻き添えにしてしまうことへの、底知れぬ恐怖。
「死にません! あなたも、私も!」
私は彼の手を両手で包み込み、自分の頬に押し当てた。
冷たい。氷のように冷たい。
でも、その奥でドクン、ドクンと、心臓が必死に命を刻んでいるのが分かる。
「レオンさん! 諦めないで! 魔力が暴れているなら、抜けばいいんでしょう!?」
「だから、その抜き先がねえんだよ! これだけの質量を受け止められる器なんて、人間じゃありえねえ! 魔石だって一瞬で砕け散るぞ!」
レオンが髪を掻きむしる。
「……待って」
私の脳裏に、ある光景が閃いた。
この屋敷に来たばかりの頃。
レオンが言っていた言葉。
『閣下の魔力は、大気中のマナと共鳴しやすい』
『この土地の地下には、古い地脈が通っている』
人間がダメなら。
魔石がダメなら。
もっと巨大な器――「大地」ならどうだ?
「レオンさん。……この屋敷の地下に、古代の『地脈』が通っていると言いましたよね?」
「あ? ああ、言ったけど……それがどうした」
「そこに流すのよ」
私はベッドの上のクラウス様を見据えたまま、言った。
「クラウス様の魔力を、パイプを通して地下の地脈に接続し、放流する。……そうすれば、彼の身体は爆発せずに済むはず」
「はぁ!? 正気か!? 地脈に接続なんて、大工事だぞ! それに、接続した瞬間のバックドラフト(逆流)で、術者が消し飛ぶ!」
「やるのよ。他に方法がないなら、可能性に賭けるしかない」
私はクラウス様の額に口づけを落とした。
唇が張り付きそうなほど冷たい。
「……聞こえますか、クラウス様。私は絶対に諦めない。あなたが『効率的』に生き延びる方法を、私が必ず構築してみせます」
彼は何かを言おうとして、けれど力尽きたように瞼を閉じた。
意識が途切れたのだ。
残された時間は少ない。
「ハンスさん! 立てますか!?」
「は、はいっ! 旦那様のためなら、この命、とうに捨てております!」
ハンスさんが涙を拭い、立ち上がった。
「屋敷中の人手を集めて! つるはしでもスコップでも何でもいい、庭を掘り返すわよ! レオンさん、あなたは魔導ドリルを持ってきて!」
「……ちっ、マジかよ」
レオンは呆れたように、しかし口元に不敵な笑みを浮かべて眼鏡を直した。
「ブラック職場にも程があるぜ。……でもま、実験としちゃ最高にスリリングだ」
「ええ。成功すれば、ボーナス弾むわよ」
私は立ち上がった。
ドレスの裾をまくり上げ、戦闘態勢に入る。
泣いている暇はない。
嘆いている時間もない。
私の最愛のパートナーを救うためなら、大地だろうが運命だろうが、この手で掘り返してみせる。
「総員、配置につきなさい! オペレーション『温泉掘削』、開始よ!」
私の号令が、凍りついた屋敷に熱く響き渡った。




