第22話 氷の宰相、公衆の面前でデレる
「――凍れ」
クラウス様の唇から紡がれたのは、命令というより、宣告だった。
その瞬間。
世界の温度が消滅した。
キィィィィン……!
耳鳴りのような高い音と共に、大広間の床、壁、そして天井へと、白銀の霜が一瞬にして駆け抜ける。
それは爆発的な速度でありながら、恐ろしく静謐だった。
「ぎゃぁぁぁっ!?」
リリアの絶叫が、途中で凍りついた。
彼女の背中から噴き出し、鞭のように周囲を薙ぎ払おうとしていたドス黒い靄。
そのすべてが、氷の彫像へと変貌していた。
毒々しい黒色は、透明な氷の中に閉じ込められ、無害なオブジェとして固定されている。
「……っ、うぅ……」
リリア本人は凍っていない。
だが、四肢を氷の枷に拘束され、床に縫い付けられていた。
彼女だけではない。
リリアを守ろうと剣を抜こうとしていたオスカー殿下や、洗脳された護衛騎士たちの足元も、厚い氷で覆われ、身動きが取れなくなっている。
けれど、逃げ惑っていた一般の貴族たちには、氷の欠片ひとつ触れていなかった。
神業だ。
これほど広範囲を一瞬で制圧しながら、敵対者と保護対象を完璧に選別している。
「……これが、『氷の宰相』の本気……」
誰かが震える声で呟いた。
恐怖ではない。
圧倒的な力による救済を目の当たりにした、畏敬の念だ。
会場を支配していた不快な甘い匂いは、完全に消え失せていた。
冷たく、澄み切った空気が肺を満たす。
それは、いつも私が宰相邸で感じている、清潔で安心できる空気だった。
「……な、なんでぇ……?」
氷の枷に囚われたリリアが、ガチガチと歯を鳴らしながら顔を上げた。
その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、可憐な令嬢の面影はない。
「なんで……効かないのよぉ……! 私の香水は完璧だったのに……! 殿下も、騎士団長も、みんな私を好きになったのに……!」
彼女は血走った目でクラウス様を睨みつけた。
「どうしてあなただけ、私を見ないの!? 私がこんなに求めているのに! あんな地味で生意気な女の、どこがいいって言うのよぉ!!」
悲痛な叫びだった。
薬物に頼り、他人の心を操ることでしか自己肯定感を得られなかった少女の、最期の悪あがき。
会場中の視線が、クラウス様に集まる。
彼はゆっくりと歩みを進め、リリアを見下ろした。
その表情は、氷のように冷たく、そして鋼のように硬い。
「……簡単なことだ」
クラウス様の低い声が、静まり返った広間に響く。
「君がどんな香りを纏おうと、どんな魔術を使おうと、私には届かない。なぜなら」
彼はそこで言葉を切り、振り返った。
その視線の先には、私がいた。
「私の瞳には、最初からこの女性しか映っていないからだ」
「……え」
私の心臓が、大きく跳ねた。
クラウス様は私の方へ歩いてきた。
氷の床を踏みしめ、真っ直ぐに。
その瞳は、リリアを見ていた時の冷徹さとは別人のように、熱く、甘く、溶けている。
「世界中の女性が君のような甘い香りを纏って誘惑してこようとも、私には雑音にすぎない。……私が心地よいと感じる香りは、彼女が淹れてくれるコーヒーの香りだけだ」
彼は私の目の前で立ち止まり、そっと私の頬に触れた。
大きな手が、愛おしそうに輪郭をなぞる。
「彼女だけが、ゴミの中に埋もれていた私を見つけ出し、人間らしい生活を与えてくれた。彼女だけが、私の凍りついた孤独を溶かしてくれた」
それは、独白だった。
王族や貴族たちが聞いていることなど、忘れているかのような。
ただ私一人に向けられた、魂の告白。
「だから、魅了など効くはずがない。……私の心はとっくに、彼女の愛によって占領されているのだから」
「…………ッ」
顔から火が出そうだった。
愛、と言った。
この不器用で、言葉足らずな宰相様が。
公衆の面前で。
堂々と。
周囲から、ため息のような歓声が漏れる。
「まあ、なんて情熱的な……」
「氷の宰相が、あんな顔をするなんて」
「これこそ真実の愛だわ……」
貴婦人たちが頬を染め、うっとりと私たちを見つめている。
私の「銀雪」ブランド戦略――クールでミステリアスな夫婦――は、ここで完全に崩壊した。
代わりに爆誕したのは、「激重な愛を捧げる溺愛夫と、愛される妻」という、もっと強力なブランドだ。
「……あ、あぁ……」
リリアが絶望の呻きを上げた。
彼女の最大の武器であった「偽りの愛」が、「本物の愛」の前に粉々に砕かれた瞬間だった。
「……う、ううっ」
その時、氷漬けにされていたオスカー殿下が、呻き声を上げて頭を振った。
黒い靄が消え、正気を取り戻しつつあるようだ。
「な、私は……何を……。……寒い! なんだこの氷は!?」
「目が覚めましたか、殿下」
クラウス様が冷ややかに告げる。
「貴方は薬物によって操られ、国家の重要人物である私とその妻に対し、危害を加えようとしました。……その事実は、ここにいる全員が証人です」
「なっ……操られていた、だと? まさか……」
殿下は青ざめた顔でリリアを見た。
そして、自分の腕に絡みついていた黒い靄の残滓を見て、全てを悟ったようだった。
プライドの高い彼にとって、女に操られて道化を演じたことは、死ぬほどの屈辱だろう。
「……ええい! 衛兵! 何をボサッとしている! その女を捕らえろ!」
殿下は自分の失態をごまかすように、ヒステリックに叫んだ。
衛兵たちが慌ててリリアを取り押さえる。
もはや、誰も彼女を庇う者はいない。
「いやぁぁぁ! 離してぇ! 私は悪くない! 全部香水のせいよぉぉ!」
無様な悲鳴を残し、リリアは引きずられていった。
オスカー殿下もまた、王宮魔術師団によって「検査と事情聴取」のために連行されていく。
彼への処分は、後日、国王陛下が目覚めた後に下されることになるだろう。
◇
騒動が去り、会場には奇妙な連帯感が生まれていた。
恐怖を共有し、そこから救われた者同士の安堵感。
「ライヘンバッハ閣下! 素晴らしい御手前でした!」
「奥方様も、ご無事で何よりです!」
貴族たちが次々と駆け寄ってくる。
その目は、以前のような恐怖や侮蔑ではなく、称賛と好意に満ちていた。
「ありがとうございます。……ですが、主人は少々疲れが出たようですわ」
私はニッコリと微笑み、クラウス様の腕に身を寄せた。
実は、彼の手が小刻みに震えているのに気づいていたからだ。
魔力を使いすぎたせいではない。
あんな恥ずかしい台詞を大声で言ってしまったことに、今さら気づいて羞恥心が爆発しているのだ。
「皆様、申し訳ありませんが、私たちはこれにて失礼いたします。……愛する夫を、休ませてあげたいので」
「おお、それは当然ですとも!」
「お熱いことですなぁ!」
好意的な笑い声に送られ、私たちは会場を後にした。
◇
バルコニーの下、待機させていた馬車に乗り込む。
扉が閉まり、外の喧騒が遮断された瞬間。
「…………死にたい」
クラウス様が、長い長い溜息と共に、座席に突っ伏した。
耳どころか、首筋まで真っ赤だ。
「あら。死なれては困ります。せっかく最高のプロモーションが成功したのですから」
私はクスクスと笑い、彼の銀色の髪を撫でた。
「『私の心はとっくに占領されている』……でしたっけ? 名言でしたわ、クラウス様」
「……言うな。忘れてくれ」
「いいえ。議事録にしっかりと残させていただきます。……あとでレオンさんに、音声データが残っていないか確認しませんと」
「やめろ! それだけは……!」
彼が顔を上げ、私を睨む。
けれど、その瞳は潤んでいて、ちっとも怖くなかった。
私は彼の手を取り、自分の頬に寄せた。
冷たくて、大きな手。
「……嬉しかったです。クラウス様」
素直な気持ちを伝えると、彼は驚いたように目を見開き、やがて優しく微笑んだ。
「……君を守るためなら、私は道化にでも詩人にでもなろう。……だが、心臓に悪い」
「ふふ。では、帰ったら甘いものでも食べましょうか。『銀雪』のクッキー、まだ在庫がありましたよね?」
「……ああ。帰ろう、私たちの家に」
馬車が動き出す。
石畳を駆ける音は、行きの時よりもずっと軽やかに聞こえた。
窓の外では、雪のような白い月が輝いている。
私の左手にはまだ指輪はないけれど。
この隣にある温もりがあれば、それだけで十分満たされている気がした。
……まあ、それはそれとして。
しっかりと形にしていただくまでは、業務改善の手は緩めないつもりだけれど。




