第20話 エレナ、初めての嫉妬
バルコニーから大広間へ戻ると、会場の空気は妙に湿っぽくなっていた。
先ほどクラウス様に「臭い」と一刀両断されたリリア・ローズブレイド男爵令嬢。
彼女は退場したかと思いきや、まだそこにいた。
それどころか、オスカー殿下の腕にすがりつき、潤んだ瞳で周囲の貴族たちを見回している。
「……申し訳ございません。私、張り切りすぎてしまって……香水を、瓶ごと零してしまったのですぅ……」
リリアが鼻をすすり、ハンカチで目元を押さえる。
その仕草は、失敗をして落ち込む可憐な少女そのものだ。
「ううっ、リリア……可哀想に。誰にだって失敗はあるさ」
「そうだとも。宰相閣下の言い方はあんまりだ」
周囲の男性貴族たちが、同情の声を上げる。
魅了の影響下にある彼らにとって、リリアの涙は正義であり、彼女を泣かせたクラウス様こそが悪なのだ。
事実をねじ曲げ、被害者ポジションを確保する。
見事なリカバリーだ。
「……エレナ。無視して席に戻ろう」
クラウス様が私の腰に手を回し、誘導しようとする。
しかし、それを阻むようにオスカー殿下が立ちはだかった。
「待て、クラウス! リリアが謝りたいと言っている!」
殿下に背中を押され、リリアがおずおずと進み出てきた。
先ほどより距離は取っている。
五メートル。クラウス様が指定した「安全圏」のギリギリだ。
「ラ、ライヘンバッハ閣下……。先ほどは、不快な思いをさせてしまって、本当にごめんなさい……。私、閣下に少しでも良く思っていただきたくて……」
リリアは深く頭を下げ、震える声で紡いだ。
その姿は、健気で、いじらしい。
たとえそれが、計算され尽くした演技だと分かっていても、見る者の保護欲を刺激する完成度だ。
「……ふん」
クラウス様は無表情のまま、冷ややかに彼女を見下ろした。
「謝罪は受け取る。だが、二度と私の前に現れないでいただきたい。私の妻が不愉快がっている」
拒絶。
完璧な対応だ。
私が口を挟むまでもない。
……はずだった。
「はいぃ……。奥様にも、申し訳なくて……」
リリアが顔を上げ、チラリと私を見た。
その瞳の奥で、嘲るような光が一瞬だけ明滅したのを、私は見逃さなかった。
そして彼女は、よろめくように一歩、前に出た。
「でも、どうかこれだけは信じてください。私、閣下のことを尊敬しているんです。国のためのご尽力、素晴らしい魔法の才能……ずっと、お慕いしておりました」
「…………」
クラウス様が眉をひそめた。
嫌悪感を示している。
だが、会話は続いている。
彼女の言葉は、クラウス様の耳に届き、彼のリソースを消費させている。
その光景を見ていた私の胸の奥で、黒い澱のような感情が湧き上がった。
(……何?)
イライラする。
クラウス様が彼女と「会話」をしていること自体が、無性に腹立たしい。
たとえ拒絶の言葉であっても、彼が私以外の女性に意識を向け、言葉を返し、感情を動かしているという事実。
リリアのあの甘ったるい声。
媚びを含んだ視線。
それらがクラウス様に絡みつくのを見ているだけで、ドレスの温度調整機能が追いつかないほど身体が熱くなる。
「……もういいだろう。行くぞ」
クラウス様がリリアに背を向け、私を促した。
私は無言で彼に従ったが、胸のモヤモヤは消えなかった。
席に着いても、私の視線は無意識にリリアの方を追ってしまう。
彼女は遠巻きにこちらを見ながら、オスカー殿下や他の貴族たちと談笑している。
時折、こちらに流し目を送り、挑発的な笑みを浮かべる。
『あなたの旦那様、素敵ね』
『いつか私のものにしてあげる』
そんな声が聞こえてくるようだ。
「……エレナ? どうした、顔色が悪いぞ」
クラウス様が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
その手には、給仕から受け取った冷たいジュースが握られている。
「何か飲むか? それとも、もう帰るか?」
彼の優しさ。気遣い。
それは私に向けられたものだ。分かっている。
けれど、今はその優しさすら、素直に受け取れない自分がいた。
(……これは、リスク管理よ)
私は自分に言い聞かせた。
感情的になっているわけではない。
あんな危険な女を野放しにしておけば、いつかクラウス様が隙を突かれて籠絡されるかもしれない。
あるいは、オスカー殿下を使って、物理的な危害を加えてくるかもしれない。
だから、イライラしているのだ。
業務上の懸念だ。
そう、これは仕事。
「……クラウス様。少し席を外します」
私は立ち上がった。
「え? どこへ行くんだ」
「化粧室へ。……それと、少し確認したいことがありますので」
「確認?」
「はい。あの女の『成分』についてです」
私は努めて冷静な声で言ったつもりだったが、語尾が冷たくなってしまったかもしれない。
クラウス様が驚いたように目を丸くする。
「ま、待て。一人で行くのか? 危険だ、私もついていく」
「いけません。ここは女子禁制の場所ではありませんが、殿方が化粧室の前で待つのはマナー違反です」
私はピシャリと言い放った。
「それに、クラウス様が動けば目立ちます。リリアに警戒されますわ」
「し、しかし……」
「大丈夫です。すぐに戻りますから」
私は彼の手を振りほどくようにして、その場を離れた。
背後で、クラウス様が呆然と立ち尽くしている気配がした。
(……八つ当たりだわ)
歩きながら、自己嫌悪で唇を噛む。
彼は何も悪くない。
悪いのはリリアであり、彼女を連れてきたオスカー殿下だ。
それなのに、彼に冷たく当たってしまった。
「……らしくない」
呟きが漏れる。
業務改善コンサルタントとして、常に冷静沈着であることを是としてきた私が。
たかが小娘の挑発に乗って、パートナーとの連携を乱すなんて。
これが「嫉妬」だなんて、認めたくない。
認めてしまえば、私はただの「恋に溺れる女」になってしまう気がしたから。
◇
大広間を出て、人気のない回廊へ向かう。
そこには、事前に手配しておいた私の協力者が待機していた。
柱の影から、ボサボサ髪の青年がぬっと現れる。
レオンだ。
彼は不機嫌そうに、窮屈な正装の襟元を引っ張っていた。
「よお、雇い主。遅かったな」
「レオンさん。状況は?」
私は単刀直入に聞いた。
レオンは懐から、奇妙な機械――魔力測定器を取り出した。
針が振れている。
「ビンゴだ。会場内、特にあのピンクの女の周りで、異常な魔力波形が出てる」
レオンは眼鏡を押し上げ、ニヤリと笑った。
「成分分析も済んだぜ。あいつが撒き散らしてるのは、ただの香水じゃねえ。……『幻惑草』と『服従蘭』の抽出液だ」
「……!」
私は息を飲んだ。
どちらも、所持しているだけで重罪になるレベルの違法植物だ。
それを濃縮して、香水として使っているとは。
「確定ね」
「ああ。しかも、あいつ自身の魔力を触媒にして、効き目を増幅させてやがる。……男どもがイチコロなわけだ」
レオンが肩をすくめる。
私は扇子を閉じて、掌に打ち付けた。
証拠は揃った。
リリア・ローズブレイド。
あなたは一線を越えた。
「レオンさん。その測定データを証拠として保全できますか?」
「可視化できる魔道具を持ってきてる。……派手にやるつもりか?」
「ええ。徹底的にね」
私は冷たい笑みを浮かべた。
胸のモヤモヤは、明確な攻撃目標が定まったことで、鋭い闘志へと変わっていた。
私の大切な職場を荒らし、私の上司に色目を使った罪。
法と、物理と、社会的な制裁で償ってもらう。
「準備をして。タイミングは私が指示します」
「了解。……へへっ、面白くなってきやがった」
レオンが闇に消える。
私は深呼吸をして、表情を「完璧な宰相夫人」のものへと戻した。
さあ、戻りましょう。
クラウス様の隣へ。
あそこは私の席だ。誰にも指一本触れさせない。
私はドレスの裾を翻し、戦場である大広間へと足を踏み入れた。




