第2話 初夜の攻防戦
玄関ホールに、私のお腹の虫の音が虚しく響き渡った。
ピカピカに磨き上げた大理石の床を見下ろしながら、私は空腹と疲労で少しだけ眩暈を覚える。
家主であるクラウス様は、私を一瞥すらせずに階段を上って消えてしまった。挨拶も、部屋の案内も、そして何より夕食の案内もなしに。
「……ハンスさん」
私は背後の執事を振り返った。
彼は幽霊のように青白い顔で、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「台所へ案内してください。自分の食事くらい、自分で作りますから」
◇
案内された厨房は、予想通りというべきか、期待を裏切らない荒れようだった。
流し台には乾いた皿。魔導冷蔵庫の中はほぼ空っぽ。
私は腕まくりをして、保存庫の奥から化石のように硬い干し肉と、しなびた根菜類を発掘した。
「……これだけ?」
「面目次第もございません。買い出しに行く時間も気力もなく……」
ハンスの消え入りそうな声を聞き、私はため息を飲み込んだ。
責めても腹は膨れない。
私はナイフを手に取った。柄を握る感触に、コンサルタント時代の激務の夜食作りを思い出す。
干し肉を薄く削ぎ切りにし、根菜を細かく刻む。鍋に水を張り、それらを放り込んで火にかけた。調味料棚の隅にあった岩塩と乾燥ハーブをひとつまみ。
コトコトと煮える音だけが、静まり返った厨房に響く。
やがて、質素だが温かい肉の香りが立ち上り始めた。
「いい匂いです……」
ハンスがゴクリと喉を鳴らす音が聞こえた。
私は味見をして頷く。絶品とは言えないが、弱った胃腸にはこれくらいが丁度いい。
お玉でスープを二つのボウルに注ぎ分ける。
そして、残りのすべてを大きな木製のトレイに乗せた。
「え? エレナ様、それは……」
「旦那様の分です」
私は当然のように告げた。
ハンスの顔色が、青から白へ、そして灰色へと変わる。
「お、お待ちください! 仕事中の旦那様の部屋に入るなど、自殺行為です! 過去に何人のメイドが、書類を届けようとして氷漬けにされかけたか……!」
ハンスが私の前に立ちふさがる。その手は本気で震えていた。
よほどのトラウマなのだろう。
けれど、私はトレイを持ち上げ、その重みを確かめるように一度あごを引いた。
「ハンスさん。空腹は判断力を鈍らせ、ミスを誘発します。あの顔色の悪い上司をこのまま放置したら、いずれ屋敷ごと倒れるわ」
「し、しかし……」
「それに、これは『業務改善』の一環よ。最高責任者が機能不全じゃ、私の平穏な生活も守れないもの」
私はハンスの脇をすり抜け、厨房を出た。
背後で「ああ、あんなにお若くて美しいのに……」という縁起でもない呟きが聞こえたが、無視する。
◇
二階の廊下は、重苦しい静寂に包まれていた。
最奥にある重厚な扉。そこから漏れ出る冷気が、肌をチリチリと刺す。
噂に聞く「氷の宰相」の魔力だ。
感情のコントロールが効かなくなるほど消耗している証拠だろう。
(……寒い)
私は一度だけ深呼吸をし、スープが冷めないうちにノックをした。
「……入るな」
中から聞こえたのは、地を這うような低い声だった。拒絶の意思が物理的な圧となって扉越しに伝わってくる。
普通の令嬢なら、ここで泣いて逃げ出すところだ。
だが、私は空腹だった。そして何より、非効率な状況が大嫌いだった。
「失礼します、夜食をお持ちしました」
私は返事を待たずにドアノブを回した。
鍵はかかっていない。
重い扉を開けると、そこは雪山――ではなく、紙の山だった。
広い執務室の床、棚、そしてソファに至るまで、書類、書類、書類。
インクと紙の乾いた匂いが充満している。
その中心にある執務机に、彼はいた。
書類の塔に埋もれるようにして、羽ペンを走らせている。
「……出て行けと言ったはずだ」
クラウス様が顔を上げた。
銀色の髪が乱れ、眼鏡の奥の瞳は充血し、目の下には隈が張り付いている。
その視線が私を捉えた瞬間、室内の温度がさらに下がった気がした。
「君にかまっている時間はない。……殺されたいのか?」
殺気。明確な敵意。
私の膝が微かに震える。
これは比喩ではなく、生物としての本能的な恐怖だ。
それでも、私は一歩足を踏み出した。
「殺すのは結構ですが、まずはこれを召し上がってからにしてください。死体に食事はさせられませんから」
私は努めて冷静な声で言い、書類の山を慎重に避けながら机に近づいた。
トレイを置くスペースすらない。
私は無言で、机の端にあった「読み終わったと思われる書類の束」をどけ、強引にスペースを作った。
「なっ……何をする!」
クラウス様が立ち上がろうとして、よろめいた。
その隙に、私はトレイをドンと置く。
湯気を立てるスープ。
香草と肉の香りが、インク臭い部屋にふわりと広がった。
クラウス様の鼻が、小さく動く。
視線が私の顔から、スープへと吸い寄せられる。
喉仏が上下したのを、私は見逃さなかった。
(……仮説通りね。ただの低血糖だわ)
私は一歩下がって、彼に逃げ道を作った。
「毒見は私が済ませました。毒など入れる暇も予算もありませんでしたので」
「……誰が、食べるなどと……」
彼は言いかけて、ふらりと椅子に座り込んだ。
手が震えている。ペンの持ちすぎか、空腹か。
彼は忌々しげに私を睨み、それからスプーンを手に取った。
観念したように、一口。
「…………」
沈黙。
彼の眉間の皺が、ほんの少しだけ緩んだ。
身体のこわばりが溶けていくのが見て取れる。温かい液体が内臓に染み渡り、止まっていた機能を再起動させていく。
「……悪く、ない」
消え入りそうな声で呟くと、彼は猛然とスプーンを動かし始めた。
咀嚼する余裕すらないのか、流し込むように食べている。
私はその姿を見ながら、部屋の中を見渡した。
(さて、彼が食べている間に……)
これだけの書類量。一人で処理するには限界がある。
だが、よく見れば「緊急」「重要だが急ぎではない」「不要」が混在しているのが分かった。
私は部屋の隅にあった空の木箱を三つ引きずってきた。
ペンで即席のラベルを書く。
『今日中』『明日以降』『保管』。
カチャリ、とスプーンが皿に当たる音がした。
振り返ると、クラウス様が空になったボウルを見つめていた。
少しだけ血色が戻った顔で、彼は私を見た。
「……おかわりは」
「ありません。急に食べ過ぎると胃が驚きます」
私がぴしゃりと言うと、彼は残念そうに、しかしどこか満足げに息を吐いた。
そして、私の足元の木箱に気づく。
「……それはなんだ」
「トリアージ用の箱です。旦那様、食事の後は少し眠ってください。その間に、私がこの床の上の惨状を、最低限歩けるレベルまで仕分けておきます」
「は? 何を言って……これらは国家機密も含む……部外者が触れていいものでは……」
抗議しようとする彼の声には、先ほどまでの鋭い殺気はなかった。満腹感と、急激に押し寄せた眠気に勝てないのだ。
私はニッコリと微笑んだ。
悪役令嬢らしく、不敵に。
「国家機密だろうと何だろうと、床に散らばっている時点でただの紙くずです。機密扱いされたければ、まずは棚に収まる量に減らすことですわ」
「き、君は……」
クラウス様は何か言い返そうとしたが、大きなあくびがそれを遮った。
彼は眼鏡を外し、机に突っ伏すようにして腕を組んだ。
「……勝手にしろ。ただし、一枚でも紛失したら……即刻、処刑……だ……」
最後の方は寝息に変わっていた。
数秒もしないうちに、規則正しい寝息が聞こえ始める。
よほど限界だったのだろう。
私は彼の肩に、近くにあったブランケットをそっと掛けた。
銀色の髪が、月明かりに照らされて綺麗だった。寝顔だけなら、噂通りの美丈夫だ。
(やれやれ。手のかかる上司だこと)
私は空の食器をトレイに戻し、小さくガッツポーズをした。
第一関門突破。
胃袋は掴んだ。あとは、この部屋を機能的なオフィスに作り変えるだけだ。
私は『今日中』の箱を手に取り、静かに作業を開始した。
窓の外では、夜明け前の空が白み始めていた。
私の長い「初夜」は、まだ終わらない。




