第19話 魅了の香水と宰相の鉄壁
「ねえ、お姉様? その席、私に譲ってくださらない?」
リリア・ローズブレイド男爵令嬢は、甘ったるい声でそう囁いた。
その瞳は、獲物を狙う肉食獣のように濡れている。
私は扇子を持つ手に力を込めた。
「席」とは、物理的な立ち位置のことではない。
クラウス様の隣――つまり、宰相夫人の座のことだ。
「……あいにくですが、この席は予約済みですわ」
私は冷ややかに返した。
だが、リリアは私の言葉など聞こえていないかのように無視し、ターゲットであるクラウス様へと歩み寄った。
一歩近づくたびに、あの濃厚な香水の匂いが強まる。
熟れすぎた果実と、ムスクを混ぜたような、鼻の奥に粘りつく香り。
「うっ……」
周囲にいた護衛の騎士たちが、陶然とした表情でふらついた。
オスカー殿下でさえ、ぼんやりとした目でリリアの背中を見つめている。
(……異常だわ)
私は呼吸を浅くして、香りを吸い込まないように警戒した。
これはただの香水ではない。
精神に作用する何かが含まれている。
リリアはクラウス様の目の前、あと数歩の距離まで迫った。
そして。
「あっ……!」
わざとらしい声を上げ、彼女の足がもつれた。
バランスを崩し、か弱い小鳥のように、クラウス様の広い胸へと倒れ込んでいく。
完璧なタイミングだ。
普通の男性なら、反射的に支えてしまうだろう。
そして一度触れてしまえば、あの強烈な匂いと、柔らかい感触で籠絡される。
それが彼女の勝ちパターンなのだ。
だが。
彼女が選んだ相手は、普通ではなかった。
「……ッ!」
クラウス様が眉を吊り上げ、半歩下がった。
同時に、彼の周囲の空気が爆発的に凍りついた。
パキンッ!
乾いた音が響く。
リリアの身体が、見えない壁に弾かれたように止まった。
クラウス様が瞬時に展開した、高密度の魔力結界だ。
物理的な接触を拒絶する、氷の盾。
「きゃっ!?」
支えられるはずだった腕を失い、さらに氷の壁に阻まれたリリアは、無様に尻餅をついた。
ドサッ、と重い音がレッドカーペットに響く。
ピンク色のドレスの裾が乱れ、可愛らしいポーズが台無しになる。
会場が静まり返った。
レディが転んだのだ。
本来なら、すぐに誰かが手を差し伸べる場面だ。
しかし、クラウス様は冷ややかな瞳で見下ろしたまま、ハンカチを取り出して口元を覆った。
そして、信じられない一言を放った。
「……臭いな」
「え……?」
リリアが目を見開き、凍りついた。
「君は、風呂に入っていないのか?」
クラウス様は真顔だった。
侮辱でも皮肉でもなく、純粋な疑問として尋ねている。
「腐った果物のような悪臭がする。私の嗅覚がおかしくなる前に、半径五メートル以内には近づかないでもらいたい」
「ぶっ……」
どこかで誰かが吹き出す音がした。
私も、扇子で口元を隠していなければ、笑いを堪えきれなかっただろう。
潔癖症で、魔力過多により五感が鋭敏すぎるクラウス様にとって、人工的な香料は「騒音」や「悪臭」と同義だ。
ましてや、精神干渉系の薬物など、彼の本能が最も嫌う不純物である。
リリアの「最強の武器」は、彼にとっては「生ゴミ」扱いだったのだ。
「ひ、ひどい……!」
リリアの顔が、羞恥で真っ赤に染まった。
涙目に変貌する。今度は演技ではない。
公衆の面前で、憧れの男性に「臭い」と言われたショックは計り知れないだろう。
「クラウス! 貴様、なんてことを言うんだ!」
ようやく我に返ったオスカー殿下が、リリアを助け起こそうと駆け寄った。
しかし、その足取りはおぼつかない。
リリアに近づくと、またあの匂いに当てられ、怒りの表情がどこか緩んでいく。
「リリアは……いい香りがするじゃないか……。と、とても魅力的な……」
「殿下。鼻が麻痺しておられるのでは?」
クラウス様は冷淡に言い放ち、私の方へ向き直った。
「エレナ、行こう。ここは空気が悪い。バルコニーで風に当たりたい」
「ええ、そうですわね。私も少し、頭が痛くなってきましたもの」
私は彼の腕を取り、リリアに一瞥もくれずに背を向けた。
これ以上、あの毒気に当てられるのは御免だ。
すれ違いざま。
リリアが顔を上げた。
その瞳には、先ほどまでの「無垢な少女」の面影は微塵もなかった。
そこにあったのは、ドス黒く濁った、明確な殺意。
(……睨んでる、睨んでる)
背中に突き刺さるような視線を感じながら、私は冷静に分析した。
プライドをへし折られた女の恨みは深い。
彼女は必ず、報復に来る。
「……あの女、タダモノではないな」
バルコニーへの扉を抜け、夜風に当たると、クラウス様が深く息を吐き出した。
魔力結界を解き、ハンカチをしまう。
「魔力をごまかすために香水を使っているようだが……あれは『魅了』の類だ。違法薬物の気配がする」
「やはり、そうですか」
私は頷いた。
やはり、私の勘違いではなかった。
オスカー殿下の異常な執着も、周囲の騎士たちの腑抜けた態度も、すべて薬物の影響下にあると考えれば辻褄が合う。
「オスカー殿下は、完全に取り込まれているようですね」
「ああ。……哀れなものだ。自分の意志で選んだつもりで、薬に操られているとは」
クラウス様は皮肉げに笑ったが、その目は笑っていなかった。
一国の王太子が、正体不明の女に操られている。
これは「痴話喧嘩」で済む問題ではない。
国家の安全保障に関わる重大事案だ。
「エレナ。君も気をつけろ。あの女の標的は、私だけではない」
「ええ、分かっています」
私に向けられたあの殺意。
彼女にとって、私は「邪魔な壁」であり、排除すべき障害物だ。
「でも、ご安心ください」
私は夜空を見上げ、ニッコリと微笑んだ。
ドレスの『氷絹』が、月明かりを受けて青白く発光する。
「害虫駆除は、管理人の仕事ですから。……そろそろ、証拠を押さえて『掃除』をする準備を始めましょうか」
私の言葉に、クラウス様は頼もしげに頷き、私の肩を抱いた。
彼の体温と、清浄な魔力の膜が、私を包み込む。
その鉄壁の守りがある限り、どんな魅了も私には届かない。
バルコニーの下では、王宮の庭園が闇に沈んでいる。
その闇の中で、リリアという名の毒花が、次の策を練っている気配がした。
負けない。
私の大切な場所を、あんな安っぽい匂いで汚されてたまるものですか。




