第10話 新しい契約と朝の光
カーテンの隙間から差し込む光が、私の瞼を優しく叩いた。
目覚めた瞬間、ここが王都の実家の自室でも、冷たい馬車の中でもないことを認識する。
天井の少し古びた、けれど丁寧に磨かれた梁。
窓の外から聞こえる小鳥のさえずりと、厨房から漂ってくるスープの香り。
宰相邸の客間。
いいえ、もう「客」ではない。
私はベッドの中で小さく伸びをして、昨日の夕暮れ時の会話を反芻した。
『撤回する。君を王都には帰さない』
耳の奥に蘇る、震える低い声。
握りしめられた手の熱さ。
思い出して、枕に顔を埋めたくなる衝動を抑える。
私たちは「契約更新」をしたのだ。
私がここで働き、彼がそれを必要とする。需要と供給が一致した、きわめて合理的な結論。
……だというのに、胸の高鳴りが収まらないのは、きっと寝起きで血圧が上がっているせいだ。そう定義しておくことにする。
私はベッドから抜け出し、身支度を整えた。
鏡に映る自分に向かって、パンと両頬を叩く。
「よし。今日も業務改善、始めますか」
◇
執務室に向かう廊下で、ハンスさんと鉢合わせた。
彼は洗濯したてのリネンを抱え、私の顔を見るなり、花が咲くような笑顔を向けた。
「おはようございます、エレナ様! 昨夜は……よくお眠りになれましたか?」
その含みのある言い方に、私は苦笑する。
この敏腕執事には、昨日のやり取りなど筒抜けなのだろう。
「ええ、ぐっすりと。ハンスさんの腰の具合はどうですか?」
「おかげさまで絶好調です! これもすべてエレナ様のおかげ。……あ、旦那様ならすでに執務室におられますよ。なにやら早朝から、ゴトゴトと力仕事をなさっていましたが」
「力仕事?」
首を傾げる私に、ハンスさんは「行ってのお楽しみです」とウインクしてみせた。
私は執務室の前に立ち、いつものようにノックをした。
以前なら緊張していた重厚な扉も、今では愛着すら湧いている。
「……入れ」
声が返ってくる。
扉を開けると、そこには予想外の光景が広がっていた。
「……これは」
部屋のレイアウトが変わっていた。
いままでは部屋の中央にクラウス様の巨大な執務机が鎮座し、私は来客用のローテーブルで作業をしていたのだが。
今は、クラウス様の机の真横――手を伸ばせば届く距離に、もう一つ、立派な机が並べられていた。
材質はクラウス様のものと同じ、最高級のマホガニー材。
艶やかに磨かれた天板の上には、真新しい羽ペンとインク壺、そして計算盤が置かれている。
クラウス様が、書類から顔を上げた。
いつもの不機嫌そうな顔はない。少しだけ気恥ずかしそうに、眼鏡の位置を直している。
「……以前、君が言っていたな。『いちいち書類を持って移動するのが非効率だ』と」
彼は咳払いを一つした。
「倉庫に眠っていた予備の机だ。これなら、動線は最小限で済む。……座ってみろ」
私はゆっくりと、その新しい机に歩み寄った。
予備だなんて嘘だ。天板には傷一つなく、丁寧にワックスがかけられている。
椅子も、私の体格に合わせて調整されていた。
これは、彼なりの「贈り物」だ。
ドレスでも宝石でもなく、私が一番欲しかった「仕事をするための場所」。
椅子に腰を下ろしてみる。
視界が変わった。
隣を見れば、クラウス様の横顔がある。
彼と同じ目線で、同じ方向を向いて仕事ができる場所。
「……いかがかな」
彼が自信なさげに尋ねてくる。
私は机の縁を撫で、胸いっぱいに広がる充足感を噛み締めた。
「最高です。動線設計、完璧ですね」
私がニッコリと答えると、クラウス様は安堵したように息を吐き、口元を緩めた。
その、氷が解けたような柔らかな表情を、こんな至近距離で見られるなんて。
これこそが、この席の最大の特権かもしれない。
「では、仕事の前に朝食にしよう。ハンスが張り切って準備していた」
「はい!」
◇
ダイニングルームには、朝日が降り注いでいた。
テーブルには、湯気を立てる野菜スープ、焼きたてのパン、新鮮なサラダ、そしてもちろん、私が淹れた食後のコーヒー。
数週間前、私がここに来た初日には、埃とカビの匂いしかしなかった場所だとは信じられない。
「いただきます」
三人で食卓を囲む。
主従の壁を越えて、同じテーブルで食事をするのが、この屋敷の新しいルール(業務改善)だ。
ハンスさんがパンをちぎりながら、しみじみと呟いた。
「ああ……賑やかな食卓というのは、いいものですな。屋敷が生き返ったようです」
「そうだな。……以前は、食事などただの燃料補給だと思っていたが」
クラウス様がスープを一口飲み、私を見た。
「誰と食べるかで、味も変わるらしい」
その言葉に、私はスプーンを落としそうになった。
なんてことない顔で、すごい殺し文句を言ってくる。この人は無自覚な天然タラシなのかもしれない。
熱くなる頬をごまかすように、私はコーヒーカップを持ち上げた。
「……それは、私の『環境改善』の成果が出ている証拠ですね」
「ああ。評価Aを与えよう」
クラウス様が悪戯っぽく笑う。
その笑顔を見て、私は確信した。
私の選択は間違っていなかった。
王太子に婚約破棄され、悪役令嬢と呼ばれ、ここまで流されてきたけれど。
そのすべてが、この朝を迎えるための伏線だったのだと思える。
「さて、食べ終わったら忙しくなりますよ、管理人さん」
私はカップを置き、彼に向かって宣言した。
「領地経営の赤字解消、使用人の採用面接、それに屋根の修繕計画。山積みですから」
「……手厳しいな。だが、望むところだ」
クラウス様が立ち上がり、私に手を差し出した。
私はその大きな手を取り、しっかりと握り返した。
手のひらから伝わる温もりは、もう冷たくない。
ここには、私の仕事がある。
守るべき人がいる。
そして、帰ってくるべき場所がある。
私は窓の外に広がる澄み渡った青空を見上げ、心の中で小さく呟いた。
――ざまぁみろ、元婚約者殿。
私は今、世界で一番、忙しくて幸せな「悪役令嬢」ですわ。
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