第1話 断罪のち、ブラック職場行き
石畳を叩く馬車の車輪の音が、私の頭の中で響く「婚約破棄」という言葉のリズムと奇妙に重なっていた。
窓枠に肘をつき、流れていく王都の景色を眺める。夕焼けに染まる街並みは美しいけれど、私の現状はまったくもって美しくない。
数時間前の王城での出来事を思い出すだけで、胃のあたりがキリキリと痛んだ。
「エレナ・フォン・ミューラー! 貴様のような冷酷な女に、王太子の婚約者は務まらない!」
大広間に響き渡った王太子の声。
隣で震えるふりをする男爵令嬢。
そして突きつけられたのは、身に覚えのないいじめの証拠と、国外追放――ではなく、国内での「奉仕活動」という名の体好いい厄介払いだった。
行き先は、国の北東に屋敷を構える宰相、クラウス・フォン・ライヘンバッハ辺境伯の元。
通称、「氷の宰相」。
血も涙もない冷徹な仕事人間で、気に入らない部下は視線だけで凍りつかせ、彼の屋敷に入った使用人は三日と持たずに逃げ出すという。そんな魔窟へ、「悪女」のレッテルを貼られた私を放り込み、惨たらしく使い潰させようという王太子の魂胆が見え透いていた。
私は大きく息を吐き出し、膝の上で握りしめていた拳をゆっくりと開く。
手のひらに爪の跡が白く残っていた。悔しくないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に――。
(やっと、あの非効率極まりない王妃教育から解放された……!)
正直なところ、安堵の方が大きかった。
前世、日本の企業で業務改善コンサルタントとして死ぬほど働いていた私にとって、非論理的なマナーや、生産性のないお茶会は拷問でしかなかったからだ。
馬車が速度を落とす。
重厚な鉄柵の向こうに、古めかしいが立派な石造りの屋敷が見えてきた。
ここが、私の新しい職場――いいえ、流刑地だ。
「到着いたしました、エレナ様」
御者が怯えたような声で告げる。
私はドレスの裾をさばいて馬車を降りた。
ひんやりとした風が頬を撫でる。王都の中心部より気温が低い気がするのは、「氷の宰相」の住処だからだろうか。
門の前には、一人の初老の男性が立っていた。
燕尾服を着ているが、その背中は丸まり、顔色は土気色で、目の下には深いクマがある。まるで幽霊だ。
「……お待ちしておりました。エレナ・フォン・ミューラー様でございますね」
男性の声は、枯れ木が擦れるように乾いていた。
私は背筋を伸ばし、努めて明るい声を出す。
「ええ。今日からお世話になります。あなたが、宰相閣下の執事?」
「左様でございます。ハンスと申します。……もっとも、いつまで『お世話』できるかは分かりませんが」
ハンスは自嘲気味に口角を上げた。
その言葉に含まれた不穏な響きに、私のコンサルタントとしてのアンテナが微かに反応する。
視線を彼の背後、屋敷の玄関へと向けた。
重厚な扉が開かれる。
「どうぞ、中へ。旦那様はお仕事で不在ですが、お部屋へ案内いたします」
ハンスに促され、私は一歩足を踏み入れた。
その瞬間。
むっとした澱んだ空気が、鼻腔を突き刺した。
「……っ」
思わず眉間に皺が寄る。
これは、埃とカビ、それに古紙の匂いだ。
薄暗いエントランスホールを見渡し、私は絶句した。
広いホールの床が見えない。
あちこちに積み上げられた書類の山。
脱ぎ捨てられた上着。
いつのまにかの食器。
そして、シャンデリアに積もった雪のような埃。
ここは屋敷ではない。巨大なゴミ箱だ。
「……ひどい」
口から漏れたのは、令嬢らしからぬ低い声だった。
ハンスが申し訳なさそうに背をさらに丸める。
「お見苦しいところを……。人手が足りず、掃除まで手が回らないのです。旦那様は公務でお忙しく、使用人は皆、旦那様の魔力と激務に耐えきれず辞めてしまいまして……今は私一人で屋敷を回しております」
「一人で? この広さを?」
私は目を見開いた。
ハンスの顔色を見る。過労死寸前の顔だ。前世の同僚たちを思い出して、背筋が寒くなる。
これは、ただの汚部屋問題ではない。
明らかなマネジメント不全だ。
「……エレナ様のお部屋は二階に用意しております。そこだけは、なんとか片付けておきましたので。食事は……申し訳ありませんが、パンと干し肉程度しか……」
ハンスの声には、諦めと疲労が滲んでいた。
公爵令嬢である私に対して、「どうせすぐに逃げ出すだろう」という侮りよりも、「もう何もかもどうでもいい」という虚無感が勝っているようだった。
私の指先が、無意識にピクリと震えた。
ドレスの裾をギュッと握る。
怒りではない。
これは、武者震いだ。
(……燃える)
目の前に広がる惨状。それは私にとって、解決すべき「課題」の山だった。
非効率な動線、劣悪な衛生環境、崩壊寸前の人的リソース。
すべてが、私の介入を待っている。
私はハンスに向き直り、ニッコリと微笑んだ。
「ハンスさん」
「は、はい?」
「案内は結構です。それより、掃除用具はどこにありますか?」
「……は?」
ハンスがぽかんと口を開けた。
貴族の令嬢から発せられる単語としては、あまりに場違いだったのだろう。
私は畳み掛けるように続ける。
「箒、雑巾、バケツ。あと、換気のために窓を開けます。この空気の中にいたら、健康な人間でも病気になりますわ」
「い、いえ、しかし! エレナ様は公爵令嬢でしょう!? そのような下働きをさせるわけには……それに、あなた様のような華奢な方に何ができると……」
ハンスが慌てて手を振る。
その反応は正しい。普通の令嬢なら、悲鳴を上げて気絶するか、回れ右して帰るところだ。
だが、あいにく私は「普通」ではない。
私は近くにあったカーテンを一気に引き開けた。
錆びついたレールが悲鳴を上げ、夕日が埃の舞うホールに射し込む。
「ハンスさん。私はここに『奉仕活動』に来たのです。つまり、働くために来たの」
私はドレスの袖をまくり上げた。
白い腕があらわになることに躊躇いはない。
ハンスは眩しいものを見るように目を細めた。
「それにね、私、散らかっている場所を見ると、イライラして眠れない質なんです」
これは半分本音で、半分は方便だ。
本当は、この惨状を前にして、前世の血が騒いで止まらないだけ。
私は近くの山積みになった書類――明らかに数ヶ月前の決裁済みのものだ――を手に取り、手際よく分類を始めた。
「これは保管庫行き。これは破棄。これは……あら、未決裁のが混じってるじゃない。危ないわね」
独り言を呟きながら、私は次々と床の面積を広げていく。
ハンスは止めるのも忘れて、ただ呆然と私の背中を見つめていた。
◇
数時間後。
日はとっぷりと暮れ、屋敷には魔石ランプの明かりが灯っていた。
エントランスホールは見違えるようになっていた。
床の大理石は本来の白さを取り戻し、書類の山は綺麗に分別されて箱に収まり、空気は澄んでいる。
私は額の汗を拭い、腰に手を当てて満足げに頷いた。
「とりあえず、玄関だけは『人間の住処』になったわね」
全身埃まみれで、ドレスは見る影もない。髪も乱れているだろう。
けれど、心は晴れやかだった。
成果が目に見える仕事というのは、いつだって精神衛生に良い。
その時、重厚な扉が軋み音を立てて開いた。
冷たい夜風と共に、一人の男が入ってきた。
銀色の髪に、切れ長の瞳。整ってはいるが、疲労で青白くなった顔。
そして何より、周囲の空気を数度下げるような、冷たく鋭い魔力の気配。
この屋敷の主、クラウス・フォン・ライヘンバッハ宰相だ。
私は咄嗟に姿勢を正し、カーテシーの準備をした。
悪役令嬢として送り込まれた私を、彼はどう扱うだろうか。罵倒か、無視か。
心臓が早鐘を打つ。
彼はゆっくりとホールに入ってきた。
そして、ピカピカに磨き上げられた床を見て、一瞬だけ足を止めた。
眉がピクリと動く。
「……?」
彼が何かを呟く。
私は身構えた。
しかし、彼の視線は私を素通りした。
まるで、そこに誰もいないかのように。あるいは、私が家具の一部であるかのように。
彼はふらつく足取りで、そのまま階段の方へと歩き去っていった。
「…………」
取り残された私は、呆気にとられてその背中を見送った。
無視された、というよりは。
目に入っていない。
認識するリソースすら残っていないほど、彼は消耗しきっていたのだ。
(……重症ね)
私は怒るどころか、同情してしまった。
そして同時に、確信した。
この職場には、私の力が必要だ。
あの「氷の宰相」を人間らしい生活に戻すこと。それが、私の当面のプロジェクトになるだろう。
階段の上から聞こえる重い足音を聞きながら、私は静かに拳を握りしめた。
ここからが、私の戦場だ。
(まずは、あの顔色の悪い上司に、まともな食事を摂らせるところからね)
お腹の虫が小さく鳴った。
そういえば、私も夕食がまだだった。




