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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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98話:紙の約束、雪解けの兆し

 朝の光が雪原を照らし、会津の町は静かに目覚め始めていた。


 湊は宿を出て、冷たい空気を深く吸い込んだ。昨日、南殿との会談で紙幣制度の導入が決まった。今日はその最初の一歩を踏み出す日だ。城普請の人足たちに、銀ではなく紙幣で手当てを支払う。小さな試みだが、会津の未来を変える第一歩になる。


 懐には、昨夜遅くまでかけて作った紙幣の試作がある。南殿の名と、景勝様の印。そして、湊自身が書き添えた一文。この紙を持っていけば、南家の米蔵で米と交換できる。その約束が、紙に価値を与える。


 脇腹の傷はまだ疼くが、歩みに支障はない。むしろ、胸の奥に灯る熱の方が強かった。盛胤との和解、南殿との連携、そして紙幣という新しい仕組み。すべてが繋がり始めている。


 昨夜は眠れなかった。紙幣の文言を何度も書き直し、南殿の名をどこに置くか、景勝様の印をどう配置するか、細部まで考え抜いた。紙幣は見た目も大事だ。民が手に取ったとき、これは価値があると感じられなければならない。


 浅香が湊の横に並んだ。


「湊様。今日の試験導入、うまくいくでしょうか」


「正直、分からない。でも、やってみなければ何も始まらない」


「人足たちが紙幣を受け取ってくれるかどうか、不安です」


「だから、僕が直接説明する。紙幣の意味と、約束の重さを」


 八代が後ろから声をかけた。


「湊、普請場にはもう人足が集まってるはずだ。早く行った方がいいぜ」


「うん。行こう」


 慶次が欠伸をしながら続いた。


「俺も付き合うぜ。紙切れが銀の代わりになるなんて、見てみたいからな」


「紙切れじゃないよ。約束を形にしたものだ」


「同じことだろ」


「違うよ。約束を守る人がいなければ、紙はただの紙だ。だから、僕たちは約束を守り続けなきゃいけない」


 湊は仲間たちと共に、雪の道を普請場へ向かって歩き始めた。


            ◆


 普請場に着くと、昨日とは違う空気が流れていた。


 人足たちは作業を始めており、鍬を振るう音と、雪を踏みしめる足音が響いている。昨日、南家の名前で手当てを約束したことで、彼らは再び動き始めていた。だが、その表情には不安の影がちらついている。銀がいつ届くのか、誰もが気にしていた。


 空は薄曇りで、雪がちらちらと舞っている。普請場の周囲には、城の外郭を修繕するための材木が積まれ、人足たちがそれを運んでいた。彼らの息が白く立ち上り、寒さの中で懸命に働いている姿が見える。


 監督の武士が湊たちに気づき、駆け寄ってきた。


「南家の方々。今日もお越しいただき、ありがとうございます」


「手当ての件で来ました。今日から、新しい仕組みを試したいと思っています」


「新しい仕組み、ですか」


 湊は懐から紙幣の試作を取り出した。薄い和紙に、南殿の名と景勝様の印が押されている。紙の質は良いものを選んだ。民が手に取ったとき、安っぽく感じないように。


「これは紙幣です。この紙を持っていけば、南家の米蔵で米と交換できます。銀の代わりに、これで手当てを支払いたいのです」


 監督の武士は目を丸くした。


「紙で、手当てを」


「はい。銀は庄内の商人に吸われて、会津から消えつつあります。このままでは普請も止まり、民の暮らしも乱れる。だから、銀に頼らない仕組みを作るのです」


 人足たちが作業の手を止め、湊の方を見ていた。彼らの目には、戸惑いと、わずかな期待が混じっている。中には、眉をひそめる者もいた。紙で手当てを払うなど、聞いたことがないのだろう。


 湊は人足たちの前に進み出た。


「みんな、聞いてくれ」


 声が雪原に響く。人足たちは黙って湊を見つめた。五十人ほどの人足が、湊の言葉を待っている。


「銀が足りなくて、手当てが遅れている。それは分かっている。でも、銀がなくても仕事はできる。この紙幣を受け取ってくれれば、南家の米蔵で米と交換できる。約束する」


 一人の人足が、恐る恐る手を挙げた。若い男だ。


「でも、紙なんて、本当に価値があるんですか」


「紙そのものに価値はない。だけど、この紙には南殿と景勝様の名前が入っている。二人が約束を守る限り、この紙は米と同じ価値を持つ」


「約束を守る、って」


「南殿は百年、この土地で民と共に生きてきた。景勝様は会津を守るために来た。二人が嘘をつくと思うか」


 別の人足が声を上げた。中年の男で、顔に深い皺が刻まれている。


「でも、米蔵に行って、本当に交換してもらえるのか。断られたらどうする」


「断らない。それが約束だ。もし断られたら、僕に言ってくれ。僕が責任を持つ」


「お前さんが」


「そうだ。僕は南家の者として、この紙幣の価値を保証する。もし約束が守られなかったら、僕の首を差し出してもいい」


 人足たちがざわめいた。首を差し出す、という言葉の重さが伝わったのだろう。


 そのとき、年配の人足が前に出た。白髪交じりの髪に、日焼けした肌。長く普請の仕事をしてきた者の風格がある。


「俺は、南家の方々を信じる」


 その声に、他の人足たちも頷き始めた。


「南家が言うなら、信じるよ」


「銀がねぇなら、仕方ねぇ。紙でも何でも、仕事ができりゃいいんだ」


「米と交換できるなら、銀と同じだろ」


 湊の胸に、温かいものが広がった。


 年配の人足が湊に近づいた。


「若いの、お前さんは南家の誰だ」


「湊といいます。南殿の下で働いています」


「湊か。覚えておくよ。お前さんが約束を守るなら、俺たちも働く」


「ありがとうございます。必ず約束を守ります」


            ◆


 紙幣の配布が始まった。


 湊は一人ひとりに紙幣を手渡しながら、その意味を説明した。この紙を持っていけば、南家の米蔵で米と交換できる。使わなくても、他の人に渡すことができる。紙が人から人へ渡れば、銀がなくても仕事が回る。


 人足たちは最初は戸惑っていたが、次第に紙幣を受け取るようになった。中には、紙幣をじっと見つめて、何度も確かめる者もいた。紙の質、印の位置、書かれた文字。すべてを確認してから、大事そうに懐にしまう。


 曽根が湊の横で記録を取っていた。


「湊殿。五十三人に配布しました。一人当たり三枚、合計百五十九枚です」


「ありがとう。交換の記録も頼む。誰がいつ米蔵に来たか、記録しておきたい」


「承知しました」


 三雲が付け加えた。


「湊殿。紙幣の番号を振っておいた方がよいかもしれません。偽造を防ぐためにも」


「番号か。それはいい考えだ。次の紙幣からは番号を入れよう」


 八代が湊の横で言った。


「湊、思ったより反応がいいな」


「南殿の名前が効いてる。民は、長く一緒にいた者を信じるんだ」


「そりゃそうだ。南家は百年、この土地にいるからな」


 慶次が笑った。


「紙幣ってのは面白ぇな。紙切れが米に化けるんだから」


「化けるんじゃないよ。約束が形になるだけだ」


「同じことだろ」


「違うよ。約束を守る人がいなければ、紙はただの紙だ。だから、僕たちは約束を守り続けなきゃいけない」


 上泉が静かに言った。


「湊殿。紙幣が広まれば、銀の流出を防げます。ですが、それだけでは倭寇の脅威は消えません」


「分かってる。紙幣は内側を固める仕組みだ。外側の脅威には、別の手を打たなきゃいけない」


 浅香が微笑んだ。


「湊様。最初の一歩は、成功ですね」


「まだ分からない。本当に成功かどうかは、紙幣が実際に使われてからだ。米蔵で交換されて、別の人に渡されて、また交換されて。その流れができて初めて、紙幣は価値を持つ」


「それでも、始まりました」


「うん。始まった」


 湊は普請場を見渡した。人足たちは再び作業を始めている。その手には、紙幣が握られていた。銀がなくても、仕事は動く。その小さな証明が、今ここにある。


            ◆


 昼過ぎ、湊たちは南家の米蔵へ向かった。


 紙幣を受け取った人足の中から、早速交換に来る者がいるかもしれない。その対応を確認しておく必要があった。


 米蔵は町の外れにあり、大きな木造の建物が三棟並んでいた。南殿の配下が管理しており、会津の民にとっては馴染みの場所だ。


 蔵番の男が湊たちを迎えた。


「南家の方々。紙幣の件、聞いております。準備はできております」


「ありがとう。今日から、紙幣を持ってくる人が来るかもしれない。一枚につき米一升と交換してくれ」


「承知しました。記録も取っておきます」


「頼む。誰がいつ来たか、何枚交換したか、すべて記録してほしい」


 蔵番の男は頷いた。


「南殿からも言われております。紙幣の信用を守るために、正確な記録が必要だと」


 湊は安堵した。南殿は、紙幣の仕組みを深く理解している。記録の重要性も分かっている。これなら、紙幣の管理は任せられる。


 そのとき、一人の人足が米蔵にやってきた。先ほど普請場で紙幣を受け取った若い男だ。


「あの、紙幣で米と交換できるって聞いたんですが」


「ああ、できるよ。紙幣を見せてくれ」


 若い男は懐から紙幣を取り出した。湊が今朝渡したものだ。


「これで一枚、米一升と交換だ」


 蔵番の男が米を量り、若い男に渡した。若い男は目を丸くした。


「本当に交換できた」


「約束だからね。これからも、紙幣を持ってくれば、いつでも交換できる」


 若い男は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。これで家族に食わせられます」


 その言葉に、湊の胸が熱くなった。紙幣は、民の暮らしを守るための仕組みだ。その意味が、今ここで証明された。


            ◆


 夕刻、湊たちは南殿の屋敷を訪れた。


 囲炉裏の火が赤く揺れ、室内には温かい空気が満ちている。南殿は湊たちを迎え、静かに座に着いた。


「紙幣の試験導入、どうだった」


「人足たちは受け取ってくれました。最初は戸惑っていましたが、南殿の名前を出したら、信じてくれました」


「そうか。民は、長く一緒にいた者を信じる。それが、わしらの強みだ」


「はい。今日の昼には、早速交換に来た人足もいました。紙幣一枚で米一升、無事に交換できました」


「それは良い。最初の交換が成功すれば、噂が広まる。紙幣は本当に使えると」


 湊は頷いた。


「明日からは、もっと多くの人が交換に来るはずです。そうなれば、紙幣が実際に価値を持ち始めます」


 南殿は頷いた。


「よい滑り出しだ。だが、湊殿、気を抜くな。紙幣が広まれば、必ず反対する者も出てくる」


「反対する者」


「銀を扱う商人たちだ。紙幣が広まれば、銀の価値が下がる。それを嫌う者がいる」


 湊は息を吸った。それは考えていなかった視点だった。


「どう対処すればいいでしょうか」


「商人たちを敵に回すな。紙幣は銀を否定するものではなく、銀を補うものだと説明せよ。銀が足りないときに使う道具だと」


「分かりました」


 南殿は火を見つめながら、声を低くした。


「それから、倭寇の件だ。新しい報せが届いた」


 室内の空気が張り詰めた。


「庄内の港で、また商人が消えた。今度は三人。そして、その商人たちが運んでいた銀も消えた」


「銀も」


「うむ。倭寇は、ただの海賊ではない。銀を狙い、交易を乱し、会津を弱らせようとしている。意図を持って動いている」


 上泉が静かに言った。


「倭寇の背後に、誰かがいるのかもしれません」


「その可能性はある。だが、今は証拠がない。引き続き調べるしかない」


 湊は拳を握った。


「紙幣で内側を固めつつ、倭寇の正体を探る。両方を同時にやらなきゃいけないんですね」


「そうだ。会津は、内と外の両方から攻められている。どちらかだけを守っても、もう片方から崩れる」


 南殿の言葉が、湊の胸に重く響いた。


            ◆


 南殿の屋敷を辞したあと、湊は夜空を見上げた。


 雪は止み、星が薄く瞬いている。冷たい空気が肺を満たし、意識が澄み渡っていく。


 今日、紙幣の最初の一歩を踏み出した。人足たちは紙幣を受け取り、米との交換も成功した。小さな流れだが、確実に動き始めている。


 だが、倭寇の脅威は消えていない。むしろ、深まっている。商人が消え、銀が消え、会津を弱らせようとする意図が見え始めている。その背後に誰がいるのか、まだ分からない。


 浅香が湊の横に立った。


「湊様。今日は、よくやりました」


「まだ始まったばかりだよ。本当の勝負はこれからだ」


「それでも、一歩を踏み出しました。それが大事です」


 八代が笑った。


「湊、お前は相変わらず真面目だな。たまには自分を褒めてやれよ」


「褒める余裕がないんだよ。やることが多すぎる」


 慶次が肩を叩いた。


「だから俺たちがいるんだろ。お前一人で全部抱えるな」


 曽根が静かに言った。


「湊殿。明日は、紙幣の交換がどれだけ行われるか、記録を取ります。その結果を見て、次の手を考えましょう」


「ありがとう。頼りにしてる」


 三雲が付け加えた。


「倭寇の調査も、南殿の配下が進めています。何か分かれば、すぐに報告があるはずです」


「うん。両方を見ていかないといけない」


 湊は仲間たちの顔を見回した。浅香、八代、慶次、曽根、三雲、上泉。六人の目が、湊を見つめている。


「ありがとう。みんながいるから、前に進める」


「当然だ」


 八代が槍を肩に担いだ。


「どこまでも付き合うぜ、湊」


 湊は頷き、夜の道を歩き始めた。


 紙幣という内側の力。倭寇という外側の脅威。両方に向き合いながら、会津を守る。それが、今の湊に課せられた使命だった。


 星空の下、六人の仲間と共に、湊は次の一歩を踏み出した。会津の未来は、まだ見えない。だが、歩み続ければ、必ず光が見えてくる。


 その確信だけが、湊の胸に灯っていた。

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