97話:会津をつなぐ三つの柱
朝の雪は、夜明けの光を吸い込みながらゆっくりと舞い落ちていた。
会津の町並みは薄い白に包まれ、その下で人々の気配だけがひそやかに動いている。猪苗代盛胤との和解が成った翌日だというのに、町の空気は緩むどころか、むしろ張り詰めていた。
湊は宿を出て、冷気を胸に吸い込んだ。脇腹の痛みはまだ残っているが、歩みに支障はない。盛胤との和解で武の問題は一段落した。だが、会津を一つにするためには、まだやるべきことがある。南殿から昨夜届いた文には、民の暮らしに関わる相談があると記されていた。
雪道を進みながら、湊は遠くを眺めた。庄内方面の商人が、ここ数日不自然に多い。海の向こうの情勢が揺らぎ、庄内の港がざわついているという噂は本当かもしれなかった。南の配下が調べている倭寇の件。それが会津にどう影響するのか、今日確かめる必要があった。
浅香が湊の横に並んだ。
「湊様。今日は南殿のところへ向かう前に、城下を回りますか」
「うん。町の様子を見ておきたい。盛胤殿との和解が成ったことで、人々がどう動いているか確かめたい」
「承知しました」
八代が後ろから声をかけた。
「湊、普請場のあたり、止まってるように見えねぇか」
「止まってる」
「人足は集まってるのに、皆、鍬を持ったまま動きがねぇ」
湊はそちらに視線を移した。城の外郭を修繕するために昨日から人足を集めているはずの場所。その一角で、男たちが雪に腰を下ろし、小声で言い争っている。監督を任された武士たちも何か困ったように腕を組んでいた。
◆
湊たちは普請場へ近づいた。
雪が薄く積もった地面に、足跡が乱れている。人足たちは作業を始める気配もなく、ただ寒さに身を縮めながら待っていた。監督の武士が湊たちに気づき、困惑した顔で近づいてきた。
「これは、南家の方々。どうされましたか」
「普請が止まっているようですが、何かあったのですか」
「実は、その、手当ての銀がまだ届いておらぬのです」
浅香がそっと湊に囁いた。
「湊様、人足への手当て、遅れているのかもしれません。昨日、支給されるはずだった米か銀が、まだ届いていないのでは」
「猪苗代方面の動きで役所が混乱したのでしょうか」
湊は小さく息をついた。人が集まれば、必ず金の流れが動く。銀が滞れば、普請は止まり、町が荒れる。武の問題が片付いても、民の暮らしが乱れれば、会津は一つにならない。
人足たちの方へ歩み寄り、湊は穏やかに声をかけた。
「銀が動かないのは、昨日の猪苗代の件が原因ですか」
「へぇ、それだけじゃありやせん。庄内の商人が銀子を買い漁ってるらしくて、こっちに回ってくる分が減ってるんです」
「庄内の商人が」
「ええ。海の方で何かあったらしく、銀を集めてるって話で。おまけに、庄内へ向かった商人が三人ほど戻ってこねぇって噂もありやす」
湊の目が鋭くなった。商人が戻ってこない。それは単なる銀の問題ではない。海が荒れているどころか、実害が出始めている。
慶次が腕を組んで唸った。
「銀が外に吸われれば、普請も滞るわな。人足に払えねぇんじゃ、誰も動けねぇ」
「そうだね。だからこそ、銀に頼りきらない仕組みが必要だ」
上泉が静かに言った。
「湊殿。銀に頼らぬ仕組みとは、具体的にはどのようなものですか」
「まだ考えの途中だけど、紙を使った仕組みを考えている。紙という軽い素材に、価値を載せる方法だ」
三雲が驚いたように息を飲んだ。
「紙に価値を。それは、銭や銀の代わりになるということですか」
「そう。たとえば、この紙を持っていけば南家の米蔵で米と交換できる、という約束を紙に書く。その約束を信じる人が増えれば、紙そのものが価値を持つようになる」
八代が首を傾げた。
「でも、なんでわざわざ紙にするんだ。銀の方が分かりやすいだろ」
「銀は外に流れてしまう。庄内の商人が買い漁れば、会津から消えていく。でも、紙なら会津の中でしか使えない。南家や上杉家が約束を守る限り、会津の中で仕事が回り続ける」
曽根が慎重に言った。
「しかし、紙を価値と認めさせるのは容易ではありません。民が信じなければ、ただの紙切れです」
「だから急ぐ必要はない。今日はまず、状況を見て考える」
湊は人足たちに向き直った。
「今日のところは、南家の名前で手当てを出す。明日には正式な銀が届くはずだ。それまで待っていてほしい」
人足たちの顔に、安堵の色が浮かんだ。
「ありがてぇ。南家の方々には頭が上がりやせん」
「いや、礼には及ばない。会津のために働いてくれているんだから、こちらこそ感謝している」
◆
普請場を離れ、湊たちは南殿の屋敷へ向かった。
雪は少し弱まり、空に薄い光が差し始めていた。道の両側には、朝の支度を始める町人たちの姿がちらほら見える。彼らの目が湊たちを追うが、その視線には敵意はなく、むしろ期待のようなものが混じっていた。
八代が歩きながら言った。
「湊、さっきの紙の話、なんとなく分かった気がする。要するに、南家が約束を守るなら、その約束を書いた紙も信じられるってことだな」
「そう。だから、紙幣を作るには信用が必要なんだ。南殿と盛胤殿と景勝様、三者の名前が揃って初めて、民は信じる」
浅香が静かに言った。
「湊様。その仕組みが成れば、会津は外の影響を受けにくくなりますね」
「そう。海が荒れても、庄内が揺れても、会津の中で人が動き続けられる。それが目標だ」
慶次がにやりと笑った。
「銀が海に吸われる前に、こっちが先に動くってわけだ」
「そういうこと。でも、倭寇の動きがどこまで進んでいるか、まず確かめないといけない。商人が戻ってこないという話が本当なら、事態は思ったより深刻だ」
南殿の屋敷に着くと、門番が湊たちを通した。屋敷の中は静かで、囲炉裏の煙が細く立ち上っている。南殿は奥の間で待っていた。その表情には、いつもより深い陰があった。
湊たちが座に着くと、南殿は静かに口を開いた。
「湊殿。盛胤殿が従ったこと、まずはよう働いた」
「ありがとうございます。盛胤殿は、武として誇りを持っていました。あの誇りが、会津の力になるはずです」
「うむ。しかし、武の柱がそろっただけでは会津は動かぬ。動かすのは、民の空気よ。そして今、その空気が乱れ始めておる」
湊は頷いた。
「今朝、普請場を見てきました。人足への手当てが滞り、作業が止まっていました。庄内の商人が銀を買い漁っているという話も聞きました」
「それだけではない」
南殿の声が低くなった。
「昨夜、報せが届いた。庄内の港で、見慣れぬ船が出入りしているとのことだ。そして、その船に近づいた漁師が三人、行方知れずになった」
室内の空気が張り詰めた。
「漁師が行方知れず」
「うむ。さらに、庄内へ向かった商人も何人か戻っておらぬ。海が荒れているのではない。海に、何かがいる」
浅香が息を呑んだ。
「倭寇ですか」
「断定はできぬ。だが、可能性は高い。そして、奴らが銀を集めているなら、会津の経済を狙っているのかもしれぬ」
◆
湊は南殿の言葉を、胸の奥で重く受け止めた。
倭寇が銀を集めている。それは単なる略奪ではない。会津から銀を吸い上げ、経済を弱らせる。そうすれば、戦わずして会津を疲弊させることができる。
「だからこそ、南殿に相談があります」
湊は真っ直ぐに南殿を見つめた。
「銀が外に流れ続ければ、会津は干上がります。それを防ぐために、紙を使った仕組みを考えています」
「紙の金、か」
「ええ。銀山や金山に頼らない、人の動きで価値が生まれる金です。会津の中だけで回る仕組みを作れば、外の影響を受けにくくなります」
南殿は静かに目を細めた。反対の色はなかった。ただ、慎重に測っている目だった。囲炉裏の火がぱちりと小さく弾け、その音が沈黙を破った。
「蘆名盛氏の頃、徳政を六度出したと聞く。民の暮らしは上からの声で大きく変わる。紙の金も、触れさせれば慣れるじゃろう」
「そう思います。まずは城普請の賃金に紙幣を使う。南の集落でも流し、取引の一部を紙に寄せる。民が使えると判断すれば、広まります」
「なるほど。金銀の裏付けがなくとも、湊殿が価値を担保するなら、民は動く」
湊は首を振った。
「僕一人では担保になりません。南殿と盛胤殿、そして景勝様の名前が必要です。三者が揃って初めて、民は信じます」
南殿は少し笑った。
「謙虚なことじゃな。だが、そなたの言う通りだ。武の柱、民の柱、そしてそれを繋ぐ者。三つが揃わねば、会津は動かぬ」
「盛胤殿も賛成してくれると思います。彼は武の柱です。南殿は民の柱。僕は、その間をつなぐ役をします」
「つなぎ目か」
「ええ。僕ひとりでは動かせません。でも、南殿と盛胤殿が並べば、会津の形が変わる。だから力を貸してほしい」
しばし沈黙が落ちた。囲炉裏の火がゆらゆらと揺れ、仲間たちの影を壁に映している。南殿は火を見つめながら、静かに考えているようだった。
やがて、南殿は口を開いた。
「湊殿。そなたは根のない者と最初は思っておった。外から来た者が、この土地の何を知っておると。盛胤殿と同じことを、わしも思っておった」
「はい」
「だが、違うな。そなたは根を張る場所を自分で見つける者だ。この会津で、守りたいものを見つけた者の目をしておる」
「僕は、会津で守りたいものができました。南殿も、盛胤殿も、この土地の人々も。みんな、僕が守りたいものです」
南殿は静かに頷いた。
「ならばよい。南は動こう。民の空気を整えるのがわしらの務めじゃ。盛胤殿が武を固め、そなたが先を示す。三つそろえば、会津は揺るがぬ」
◆
湊の胸の奥に、確かな手応えが満ちていった。
盛胤という武の柱。南という民の柱。そして自分が、その両端を結ぶ軸になる。三者が揃えば、会津は一つになれる。紙幣という新しい仕組みも、その土台の上に築けば、民に受け入れられるはずだ。
だが、海の向こうには倭寇の影がある。銀を吸い上げ、商人を消し、会津を弱らせようとする勢力。紙幣の仕組みは、その脅威に対する防壁にもなる。だが、それだけでは足りない。
湊は南殿に言った。
「紙幣の仕組みは、まず小さく始めます。城普請の手当てに使ってみて、民の反応を見る。うまくいけば、少しずつ広げていく」
「うむ。急ぎすぎれば、民は戸惑う。じっくりと進めよ」
「はい。そして、倭寇の動きも引き続き調べてください。銀の流れと、海の動きは繋がっています。両方を見ていないと、対策が立てられません」
「承知した。配下に命じて、庄内の情報を集めさせよう」
南殿が立ち上がった。
「湊殿。今日の話、盛胤殿にも伝えておこう。あの者も、会津のために動く覚悟を決めた。紙幣の話を聞けば、興味を持つじゃろう」
「ありがとうございます。盛胤殿の力も借りたい」
「うむ。では、明日また会おう。それまでに、紙幣の仕組みをもう少し詰めておいてくれ」
「承知しました」
湊たちは南殿の屋敷を辞した。外に出ると、雪は止んでいた。空には薄い光が差し、会津の町を柔らかく照らしている。
湊は深く息を吸った。冷たい空気が肺を満たし、意識が澄み渡っていく。
盛胤との和解。南殿との連携。そして、紙幣という新しい仕組み。すべてが繋がり始めている。だが、海の向こうには倭寇の影がある。商人が消え、漁師が消え、銀が吸い上げられている。その脅威が会津に届く前に、内側を固めなければならない。
湊は仲間たちの顔を見回した。浅香、八代、慶次、曽根、三雲、上泉。六人の目が、湊を見つめている。
「みんな、ありがとう。これからも、よろしく頼む」
「当然だ」
八代が槍を肩に担いだ。
「どこまでも付き合うぜ、湊」
浅香が微笑んだ。
「湊様の行く道が、私たちの道です」
湊は頷き、雪解けの道を歩き始めた。会津の空には、光が差し始めている。だが、その光の向こうには、まだ見えない影がある。倭寇という脅威。紙幣という挑戦。そして、会津を一つにするという夢。
すべてはこれからだ。湊は仲間たちと共に、その道を歩き始めた。




