96話:白雪の誓い―猪苗代、和す
朝の光は、まだ雪の帳を完全には払いきれていなかった。
薄い白が町を包み、会津の冬特有の冷たさが肌を刺す。それでもその冷気は、湊にとってはむしろ醒めた静けさを与えていた。
ゆっくりと身を起こすと、脇腹に鈍い痛みが走った。昨日よりは幾分軽いが、深く息を吸うたびに響いてくる。それでも、意識は澄み切っていた。今日、猪苗代盛胤のもとへ向かう。書状を届けるために。そして会津の未来を開くために。
湊は衣を整え、懐に二通の書状を確かめて差し込んだ。南殿からの正式なものと、自分の言葉を添えた私信。これを渡すだけで、会津という土地の形が変わるかもしれない。その重みを懐で感じながら、湊は静かに戸口へ向かった。
廊下を進むと、囲炉裏の部屋からぱちりと小さく火の弾ける音が聞こえた。そこにいたのは慶次だった。肩に雪除けの羽織をかけ、いつもの軽い笑みを浮かべている。
「湊、おはよう。顔色は、まあまあだな」
「痛みは少し残ってるけど、歩けるよ。今日は大事な日だから」
「お前はいつも大事な日を引き寄せるよな。なんでだろうな」
「さぁ、僕にもわからない」
ふたりが言葉を交わすと、他の仲間も次々に姿を現した。
浅香は湊を見るなり、そっと歩み寄り、脇腹をかばうように羽織の合わせを直した。
「寒さが傷に響きます。お気をつけください、湊様」
「ありがとう、大丈夫だよ」
八代は槍の石突を一度だけ床に軽く打ち、準備完了の合図をした。
「敵意なく向かうが、警戒だけはしておく。何があるかわからねぇ」
曽根と三雲は地図を確認しながら動線を擦り合わせている。上泉は静かに瞑目し、剣の呼吸を整えていた。その佇まいだけで、場の空気が静かに引き締まる。
◆
窓の外では、雪が細く舞っている。
昨日よりは軽いが、風がない分、白がゆっくりと降り積もり、町全体を淡く覆い隠していく。会津は今日、音を殺している。町人たちの姿もほとんど見えず、家々の戸は固く閉ざされている。それは恐れではなく、何かを見守るような静けさだった。
「湊殿、出立の準備が整いました」
曽根が頭を下げる。
「ありがとう。みんな、行こう」
七つの影が立ち、宿を出た。雪を踏む音が、静寂の中でやけに大きく響いた。白い息が空に溶け、冷気が頬を刺す。猪苗代へ向かう道は、町を抜けて湖の縁へ伸びている。そこから先に盛胤の屋敷がある。
町を抜けると、雪原が広がった。風は弱いが、白の景色は広く深く、静かに七人の影を呑み込みそうだった。遠くに見える猪苗代の地。そこに盛胤がいる。
道の左右には古い杉が並び、枝に積もる雪が重たげに垂れている。深い白の静寂が、七人の影の輪郭だけを際立たせていた。鳥の声もなく、風の音もない。ただ、雪を踏みしめる足音だけが、白い世界に刻まれていく。
歩き出してすぐ、慶次が湊の横へ歩調を合わせた。
「緊張してるか」
「少しはね。でも、不思議と怖くはないよ」
「そりゃそうだ。昨日、あれだけ斬り結んでるんだ。言葉を届ける方がよほど簡単だろ」
「どうかな。人の心を動かすのは、剣よりずっと難しいよ」
「だな。でも、お前ならやれるさ」
慶次は横目で湊を見て、ふっと肩をすくめた。
「盛胤は、お前を殺す気で斬ってきた。でも同時に、お前の力も人間も、認めようとしていた。ああいう目だった」
「僕にも、そう見えたよ」
「だから、今日が勝負だ。剣じゃなくて、言葉でな」
◆
猪苗代の屋敷が近づくほどに、空気の質が変わっていった。
静けさはそのままだが、雪の匂いに混じって、張り詰めた気配がわずかに漂う。正門前に立つと、門番が二人、槍を交差するように構えていた。敵意はない。ただ、警戒が強い。盛胤の性格を思えば当然のことだ。
湊は深く息を整え、一歩前へ出た。
「南殿よりの書状を届けに来た。猪苗代盛胤殿に取り次いでほしい」
門番たちは一瞬目を見合わせたのち、無言で頷いた。ひとりが奥へ走り、残るひとりは槍を下げて道を開ける。やがて奥から別の武士が現れ、湊をじっと見つめた。
「湊殿、でよろしいか」
「はい」
「主より、客間でしばし待つよう命を受けております。盛胤様は、ご応対を検討中」
検討中。その言い方は、拒絶ではなかった。むしろ迷いの匂いを含んでいる。
「わかった。案内を頼む」
七人は静かに屋敷に入った。廊下は長く、灯りは最小限。雪国の屋敷らしく、寒さが内部まで染みている。それでも、磨かれた床は重い静謐を湛えていた。
客間に通されると、湊は正座し、懐の書状をそっと押さえた。六人も周囲に控え、それぞれの呼吸を落として気配を整えている。囲炉裏の火は弱く、時折ぱち、と静かに弾く音を残すだけだった。
時間の流れが遅くなる。敵意ではなく、ただ重い沈黙が降りてきていた。
やがて、廊下の向こうから足音がした。迷いのない、しかし急ぎでもない歩幅。堂々とした重みを持つ足音。その主が誰であるか、湊は聞いた瞬間に分かった。盛胤だった。
襖が静かに開く。雪明かりをまとった盛胤が姿を現した。昨日の戦いの傷跡も、乱れもない。むしろ、戦場では見せなかった落ち着きがあった。だが、目の奥には、やはり揺らぎがある。
「よく来たな、湊殿。南殿の命か」
「はい。盛胤殿へ書状を届けるように言われました」
湊は懐から書状を取り出し、両手で差し出した。盛胤は受け取ると、その場で封を切り、目を走らせた。読み終えるまでの時間は短い。だが、目は深く沈み込むように動いていた。
やがて、盛胤は書状をそっと膝に置いた。
「南殿は、儂を罰するのではなく、役を与えると申すか」
「はい」
「会津を守る役を、儂に、と」
「ええ。盛胤殿だからこそ、会津がまとまると」
盛胤は鼻で短く笑ったが、その声音には怒気も嘲りもなかった。
「奇妙なものだな。昨日まで斬り合った相手から、そんな言葉を聞くとは」
「斬り合ったからこそ、です」
湊は迷いなく言った。
「刃の重さで分かるものがあります。盛胤殿は、この土地を守りたいだけだった。外から来た者を拒むのも、その一つの形だった」
盛胤の目がわずかに揺れる。
「湊殿、そなた、儂の心を読んでおったのか」
「読んだわけではありません。ただ、あの瞬間に迷いを感じた。それは、会津を思うがゆえの迷いだと」
沈黙が降りた。しかしそれは、昨日のような敵意を孕んだ沈黙ではない。
盛胤は深く息を吐いた。
「湊殿。儂はな、会津の土地が変わっていくのを何度も見てきた。主が変わるたび、人も変わる。蘆名が滅び、伊達が来て、蒲生が治め、そして上杉が入った。だが、民は変われぬ。だからこそ、守らねばと思った」
その声音には、苦さと矜持が滲んでいた。
「南家が戻り、上杉が治める。儂は、そのどちらもよいとは思えなんだ。外から来た者が、この土地の何を知っている。この土地の民の苦しみを、何が分かる。そう思っておった」
盛胤は湊を見つめた。
「だが昨日、そなたと刃を交え、儂は初めて迷った」
「迷った」
「そなたは、敵ではなかった。この地をただ奪いに来た者ではなかった。儂の矢を受けても、なお会津を見ていた。あの目は、儂が守ろうとしていたものと同じ方向を見ていた」
◆
湊は盛胤の言葉を、胸の奥で静かに受け止めていた。
この男は、敵ではなかった。最初からそう感じていた。だが、こうして言葉を交わしてみると、その確信はさらに深まっていく。盛胤は、会津を守りたいだけだった。その方法が、湊たちとは違っていただけだ。
盛胤の視線が、湊の脇腹へわずかに向いた。
「傷は、痛むか」
「痛かったですよ」
湊は笑った。
「だろうな」
盛胤もわずかに笑う。その表情に、昨日にはなかった柔らかさが宿った。
「湊殿。そなたの言葉を聞いて、儂は考えた。一晩中、考えた」
「何を、ですか」
「会津を守るとは何か、ということだ。外から来た者を排除することが、本当に守ることなのか。それとも、外から来た者と共に立つことが、守ることなのか」
盛胤は立ち上がり、窓の方へ歩いた。雪明かりが、その横顔を照らしている。
「儂は、この地で生まれ、この地で育った。蘆名に仕え、蘆名が滅び、それでもこの地を離れなかった。会津の土を踏み、会津の空気を吸い、会津の民と共に生きてきた」
盛胤は振り返った。
「だが、そなたは違う。外から来て、この地に根を下ろそうとしている。それでも、そなたの目は会津を見ていた。儂と同じ方向を見ていた」
「盛胤殿」
「それが、儂には分からなかった。なぜ外から来た者が、この地のために命を賭けられるのか。だが、そなたの言葉を聞いて、少しだけ分かった気がする」
盛胤は湊の前に戻り、正座した。
「会津を守るのは、生まれた場所ではない。守りたいという心だ。そなたは、その心を持っている。だからこそ、儂は迷った」
湊は深く息を吸った。
「盛胤殿。僕は、この地で生まれたわけではありません。この地の歴史を、すべて知っているわけでもありません。でも、この地で出会った人たちのために、できることをしたいと思っています。それが、僕の答えです」
「そなたの答え、か」
「はい。南殿も、山上殿も、そして仲間たちも、みんな同じ方向を見ています。盛胤殿も、同じ方向を見ていると思います。だから、一緒に歩けると信じています」
盛胤は長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「南殿の書状は、確かに受け取った。だが」
「だが」
「そなたの言葉の方が、儂には効いた」
湊は少しだけ息を飲んだ。
「剣でなく、言葉で儂を揺らす者が現れるとは思わなかった」
盛胤は立ち上がった。
「南殿へ伝えよ。猪苗代盛胤、会津のために役を受けると」
室内の空気がわずかに震えた。七人の仲間が、静かに息を揃える。
「ただし一つ条件がある」
「条件」
「湊殿、そなたが儂の前に立ち続けることだ。南殿の言葉は分かる。しかし、儂が従うのはそなたの覚悟だ」
湊は迷わず頷いた。
「わかりました。なら、僕は会津のために前に立ち続けます」
「ならばよい」
盛胤は初めて、湊を仲間を見る目で見た。
「これでようやく、会津を一つにできる」
◆
屋敷を出るころには、雪が止んでいた。
空は淡く晴れ、湖の縁がわずかに光を返している。帰り道の白い大地は、先ほどまでとは違う広がりを見せていた。
「湊。終わったか」
慶次が歩幅を合わせてくる。
「うん。盛胤殿、味方になってくれたよ」
「よし。ようやく一歩前進だな」
「一歩じゃなくて、大きな一歩だよ」
浅香がほっと息をつき、八代は黙って頷き、上泉は静かに目を閉じていた。三雲と曽根も、どこか安堵した顔で雪道を見つめている。
湊は懐に手を当てた。そこには、南殿から預かった書状の写しがある。そして盛胤の言葉が、胸の奥で静かに響き続けていた。
そなたが儂の前に立ち続けるなら。
その言葉は重く、しかしどこか温かかった。
会津がひとつになる。その未来が、白い光の奥に確かに見えていた。
雪を踏みしめ、七人は会津の町へ戻っていった。
冬は深いが、もう闇ではなかった。
会津の空に、確かな光が差し始めていた。




