95話:雪の書状、会津を繋ぐ道
南殿の屋敷を辞したあと、湊は深く息を吐いた。
胸の奥で、これまでまとわりついていた重苦しい霧が、ようやく薄れ始めているのを感じた。盛胤を敵ではなく味方にする。その一手で会津の地図がまるごと塗り替わる手応えが、かすかな熱となって湊の背を押していた。
屋敷を出てしばらく歩くと、夕刻の雪が静かに降り始めた。町は白い息とともに薄闇に沈み、屋根から落ちた雪が石畳を覆っている。風は弱いが、雪の重みが空気に押し寄せ、会津全土が深く息を潜めているようだった。
猪苗代との対峙によって生まれた緊張が、町人たちの動きを鈍らせ、家々の灯りを早めに閉ざさせている。囁きは聞こえないが、空気が変わっていくのを湊は感じた。南の名が動けば、町も揺れる。猪苗代が動けば、なおさらだ。敵も味方も、皆が息を潜めている。会津という土地そのものが、次に起こることを探っているかのようだった。
七人は宿へ戻る途中、言葉少なに歩いた。それぞれが今日の戦いと南殿の策を噛みしめている。浅香は湊の半歩後ろを静かに歩き、八代は雪を踏み固める音で周囲を警戒している。曽根と三雲は猪苗代の地形の記憶を確かめ合い、慶次は肩にかかった雪を払いつつ、時折湊を横目で見るだけだった。上泉の気配は揺るぎなく、戦いの余韻すら呼吸の奥に沈めている。
脇腹の傷がまた疼いた。浅香が巻いてくれた帯はしっかりしているが、動くたびに鈍い痛みが走る。それでも歩みは止められない。明日、盛胤のもとへ向かう。その一歩が、会津の未来を変える最初の一歩になる。
町外れに差しかかったとき、慶次がようやく口を開いた。
「湊、明日は書状を届けるんだな」
「うん。俺が届ける。南殿の名で出すけれど、直接盛胤と向き合うのは僕の役目だ」
「危険だぞ」
「わかってる。でも、盛胤の目を見たからこそ、僕が行かないといけないんだ」
その答えに、慶次はふっと息を吐いた。
「あの男、お前に対して妙な敬意を抱いていた気がするんだよな」
「敬意」
「敵意と誇りの間ってやつだ。ああいう武士は、斬り合いより言葉で揺らぐこともある。お前の顔が、そういう奴らを動かすんだよ」
湊は苦笑した。
「そんな顔してないけど」
「してるんだよ。自覚しろっての」
慶次の声音には軽い叱咤が混じっていたが、それは湊の背中に静かな強さを与えた。
◆
宿に戻ると、囲炉裏の火が赤く揺れていた。
七人は雪を払って円座に腰を下ろし、湊は地図を広げて猪苗代の位置を示した。盛胤が潜んでいる地。蘆名の血が根を張る土地。そして会津を割ってきた百年の裂け目そのもの。
室内には微かな温もりが漂い、外では雪が降り続いている。吹き込む風が障子を揺らし、火の粉がぱちりと弾けた。軒先から垂れる氷柱が、わずかな光を反射して鈍く煌めいている。
八代が薪をくべながら言った。
「盛胤殿は、必ず応じるのか」
三雲が静かに答えた。
「会津には、己を誇りとする武士が多い。盛胤殿はその象徴です。南殿が敬意を示し、湊殿が直接書状を届ける。それは、ただの和睦ではなく、会津の未来を共に作る者として迎えるという意志です」
「問題は、その未来に盛胤が乗れるか、だな」
八代が腕を組んだ。
「受け入れられなかったら」
「その時は戦になるよ」
湊は曖昧に笑った。しかし、その笑みには揺らぎはなかった。
「でも、切り結ぶ前に一度は話したい。戦ったときの盛胤の刃筋は澄んでいた。あれは、ただの逆臣の刃じゃない。守りたいものを抱えている者の剣だ」
「湊様らしいお言葉です」
浅香が柔らかく目を細めた。
「盛胤殿が応じるかどうかは、湊様の声次第かもしれません」
「声、か。言葉で心を動かすなんて、僕には難しいよ」
「いいえ」
浅香はすぐに否定した。
「湊様は、行動で示してこられました。南殿も山上殿も、そして私たちも、それで心を動かされたのです」
湊の胸の奥に小さな熱が灯った。
上泉が口を開いた。
「湊殿。書状の文、もう頭の中に固まっておりますか」
「南殿の意を踏まえた文にするよ。盛胤を敵ではなく支え手として招く内容に」
「ならばよい。武士は、言葉ひとつで刃を収めるもの。逆もまた然り。書状の重さは、刀に勝る日もあります」
慶次が口元を歪めた。
「ただし、相手の性格次第だけどな。盛胤は頑固で、誇りも高い。湊、お前の言葉を真正面から受け取れる器かどうか、その勝負だ」
「だからこそ、俺が行く」
湊の声は迷いがなかった。
「盛胤は俺を試した。なら俺も誇りを持って応える。あの人は敵じゃなかった。会津を守ろうとする動きだった。ただ方法が違っていただけだ」
曽根が近づいてきた。
「湊殿。道筋について確認を」
「頼む」
「猪苗代の屋敷に向かう道は三つ。ひとつは正門筋、ひとつは裏手の山道、もうひとつは湖へ続く細道。敵意を示さず訪れるには、正門が最も良いでしょう」
「だが、伏兵を置かれる可能性がある」
八代が言った。
「正面から行くのは悪くねぇが、警戒は必要だな」
「警戒は俺たちがやる」
慶次が軽く笑った。
「湊、お前はただ堂々と歩けばいい。ああいう男は、堂々と来た相手を無下にはしねぇよ」
「問題は、盛胤がその場にいるかどうかだが」
三雲が記録をめくりながらつぶやいた。
「盛胤は用心深い。客を通してから姿を見せる可能性もあります」
「ならば、こちらも準備しておく」
上泉がすっと立ち上がった。
「我らは湊殿の左右に控え、必要であれば前に出る。それだけです」
浅香も続いた。
「湊様。戦いに行くのではありません。ですが、身を守るための警戒は怠れません」
「そうだね」
湊は頷いた。
「盛胤殿に言葉を届ける。それが明日の目的だ。刃を交える気はないよ」
◆
話し合いが一段落すると、湊は机に向かい、墨をすり始めた。
仲間たちは静かに控え、それぞれの役目の準備を進めている。囲炉裏の火が赤く揺れ、障子の向こうでは雪が降り続いていた。部屋の中には墨の匂いと、火の温もりが混じり合っている。
湊は筆を持つと、深く息を吸った。
南殿の名で、敬意をもって届ける文。盛胤の誇りに触れるような、だが媚びではない内容。会津を割るつもりはないこと。盛胤の地位と働きを認めていること。敵としてではなく、会津のための武士として迎えたいこと。
筆先が紙の上を走る。一字一字に、南殿の思いと湊の決意を込めていく。短く、しかし強い文だった。
書き終えたあと、湊は少し考えてから、もう一枚紙を取った。南殿の書状とは別に、自分の言葉を添えることにした。上泉の言葉が胸に残っていた。会津に来てから見たもの、守りたいと思ったもの。それを伝えればよい。
湊は再び筆を取った。
あなたと戦うためではなく、会津を共に守るために来ました。この冬の白さが、会津の未来を遮るものではなく照らすものとなるよう、話をさせてください。湊。
書き終えた瞬間、胸の奥にあった緊張がすっと薄れた。
「よし。これでいい」
慶次が火の向こうから笑った。
「湊、お前さ、思ったよりずっと武士らしい手紙を書くな」
「褒めてる」
「当然だ。ああいう言葉が、一番響くんだよ」
湊は少し照れながら筆を置いた。
八代が薪を足しながら言った。
「明日は早いぞ。少し休んだ方がいい」
「そうだね。でも、もう少しだけ」
湊は書状を丁寧に折り、懐にしまった。二通の書状。南殿の名で出す公式なものと、湊個人の言葉を添えた私信。この二つが、盛胤の心を動かす鍵になる。
浅香が茶を淹れて湊の前に置いた。
「湊様。今日は本当にお疲れ様でした」
「ありがとう。みんなも疲れただろう」
「私たちは大丈夫です。湊様こそ、傷が痛むのでは」
「少しね。でも、歩けないほどじゃない」
「無理をなさらないでください」
浅香の声は柔らかかったが、その奥には確かな心配があった。湊は茶を一口飲み、温かさが喉を通っていくのを感じた。
◆
夜が深まり、宿の灯りが弱く揺れた。
仲間たちはそれぞれ持ち場へと散り、湊はひとり窓辺に立った。脇腹の鈍い痛みが、今さらのように戻ってくる。
今日は、多くのものを知った。猪苗代盛胤の敵意。その奥にあった迷い。南殿の覚悟。仲間たちの支え。湊自身の胸もまた、揺れ続けていた。
盛胤は強敵だ。敵に回せば、会津は割れる。だが、味方にできれば、その力は会津を支える柱となる。南殿はそれを見抜いていた。だからこそ、罰ではなく役目を与えるという道を選んだ。
会津に来てからの日々が、胸の奥で静かに重なっていく。南の家に流れる百年の悔恨。浅香と八代の忠誠。曽根と三雲の誠実な働き。慶次の不器用で温かな支え。上泉の揺るぎない佇まい。そして、景勝の期待。
それらすべてが湊の背中に積もっている。重みがある。だが、それは苦ではなかった。むしろ誇りに近い。
窓の外では雪が止んでいた。静寂の中、月が薄く光を落とし、白い大地がわずかにきらめいている。会津の町は眠りについたように静かだったが、その静けさの下で、何かが確実に動こうとしていた。
明日、湊は猪苗代の屋敷へ向かう。書状を届けるために。そして会津の未来を変えるために。命を賭ける意味があった。
盛胤がどう応じるか、それは分からない。だが、湊は信じていた。あの男の目の奥に見えた迷いを。会津を守りたいという執念を。それは敵意ではなく、同じ方向を向くための手がかりだった。
三十日の期限は、まだ残っている。その間に、盛胤との対話を成し遂げ、会津の未来を開く。南の者たちが百年待ち続けた光を、この冬の終わりに届ける。
七人の影が寄り添う気配がした。仲間たちが、それぞれの場所から湊を見守っている。その気配を背に受けながら、湊はそっと目を閉じた。
◆
明日は、会津が動く日になる。
湊は窓辺から離れ、仲間たちの輪の中へ戻った。囲炉裏の火はまだ赤く燃えており、その周りに六つの影が座っている。
書状を懐にしまい、湊は静かに言った。
「明日、猪苗代へ向かう。みんな、頼りにしてる」
その言葉に、浅香は静かに頭を下げた。
「湊様。私たちは、どこまでもお供いたします」
八代は槍を握った。
「俺の槍が必要になったら、遠慮なく言え」
曽根は短く肯いた。
「道筋は頭に入っています。案内は任せてください」
三雲は記録を閉じた。
「盛胤殿の情報は、できる限り集めました。湊殿の言葉が届くことを信じています」
慶次は不敵な笑みを浮かべた。
「まあ、俺は後ろで見てるだけだ。お前の言葉が届かなかったら、その時は俺が出る」
上泉は静かな誇りを瞳に宿した。
「湊殿。剣は最後の手段です。言葉が届くことを、私も信じております」
湊は仲間たちの顔を一人ずつ見渡した。この七人でなら乗り越えられるという確信があった。明日への不安はある。だが、それ以上に、この仲間たちと共にあることの心強さがあった。
火がゆっくりと沈み、夜が深まっていく。雪の夜は、静かにその朝を待っていた。
会津を巡る大きな転機が、静かに始まろうとしていた。




