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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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94話:会津を束ねる声

雪に沈んだ湖畔を離れ、湊たちはゆっくりと会津の町へ戻っていた。


 風は弱まり、代わりに空気が刺すような冷たさを帯びている。戦闘が終わったはずの静けさが、むしろ緊張を濃くしていた。


 湊は歩幅を整えながら、まだ疼く脇腹を押さえた。浅香が巻いてくれた帯はしっかりしているが、動くたびに鈍い痛みが走る。それでも歩みは止められない。猪苗代盛胤。あの男が見せた底知れぬ気配が、湊の背中に冷たい影を落としていた。


 南殿に知らせなければならない。山上にも。あれはただの一勢力ではない。会津そのものの古い力が、南の再興を拒もうとしている。


 だが、その想いとは裏腹に、胸の奥には奇妙な熱があった。あれほどの敵意を向けられたのに、不思議と折れそうにはならない。むしろ、あれが会津の闇なのだと知ったことで、湊自身の立つ場所がくっきりと見えた気がした。


 そして、もう一つ。盛胤の目の奥に見えたもの。あれは純粋な憎悪ではなかった。会津を守りたいという執念。外から来た者に土地を奪われまいとする必死さ。それは、南の者たちが百年抱えてきた感情と、どこか似ていた。


 慶次が歩きながら笑った。


「湊、顔がさっきより生き返ってるじゃねぇか」


「そう見える」


「見えるとも。敵がはっきりすると、お前は逆に燃える性質だ」


「そういうつもりじゃないんだけど」


 湊が苦笑すると、浅香がすぐ横で息をついた。


「湊様は、敵よりもやるべきことを先に見るお方です。それは強さでもあります」


 八代が槍を肩に担ぎながら、後ろから声を投げた。


「ただまあ、強いのはいいんだけどよ。湊、痛ぇなら痛ぇって言え」


「歩くくらいなら平気だよ」


「平気の顔じゃねぇな。その歩幅」


 曽根が振り返り、小さく頷いた。


「右足に重心をかけて歩いている。脇腹の痛みをかばっている証拠です」


「お前ら、よく見てるな」


 慶次が肩をすくめた。


「仲間なんだから当然だろ。お前、今日の戦いでは一番狙われてたんだぞ。南殿を守るために前に出るにしても、死んだら意味はねぇ」


 その言葉に、湊は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


            ◆


 町の手前まで来ると、雪の量が一段と増えていた。


 屋根から落ちた雪が厚い壁のように積もり、道の両端を白く縁取っている。立ち並ぶ町家の戸は閉じられ、わずかに漏れる灯りが雪煙の中で揺れていた。


 軒先から垂れる氷柱が、鈍い光を反射している。どこかで犬が吠え、その声が雪に吸い込まれて消えていく。冬の会津は、すべてを白く覆い隠すように静まり返っていた。


「湊様、足跡が増えています」


 浅香が静かに指し示した。町へ向かう道に、人の足跡が濃く刻まれている。


「猪苗代の者か」


「いえ、町衆のものです」


 曽根が即答する。


「深さが違う。武具を身につけた重さではない」


「町衆が動いている」


「南家の動きが広まったかもしれません」


 三雲が眉を寄せた。


「先ほどの騒ぎが伝わったのでしょう」


 町の中へ入ると、人々の空気がいつもと違っていた。外を歩く者は少ないが、家の戸口から覗く視線がどこも鋭い。風の音がしない分、静寂が肌にまとわりつくようだった。


「湊様だ」


「ほんとうに。南の」


「七人が揃っている」


 囁き声が、白い息となって零れる。怯えではない。期待とも不安ともつかぬ混じり方。会津という土地が持つ独特の陰の中で、町人たちの目だけがかすかに光っていた。


 宿へ戻ると、山上の家臣が二人、戸口に立っていた。雪まみれの肩を叩きながら、彼らは湊を見るなり深く頭を下げた。


「湊殿。南殿が急ぎ、御報せをと」


「猪苗代が動いた件か」


「はい。猪苗代家中の者が、南家の周囲を探り回っております」


 湊の仲間たちが一斉に表情を変える。


「動きが早いな」


 上泉が低くつぶやいた。


「盛胤は、今日の戦を挨拶だと言っていた。ならば本命は、これから来る」


「湊殿、南殿は、その、湊殿をお呼びに」


「わかった。すぐに向かう」


            ◆


 南殿の屋敷に着くと、玄関をくぐった先に冬の光を受けた畳が静かに広がっていた。


 部屋の中央には南殿と山上殿が座している。外の冷気がまだ羽織に残ったまま、湊は膝をつき、深く頭を下げた。


 南殿の眼差しは、昨日までとは違っていた。敵が姿を現し、会津に陰が差したことで、覚悟の色が増している。横に控える山上殿もまた、緊張を隠してはいなかった。


「湊殿。状況は聞き及んでいます」


 南殿の声は静かだが、芯に熱があった。


「猪苗代盛胤。あやつが動いたのですね」


 湊は頷いた。


「はい。南殿と会津そのものを脅かす意図が明白でした。地下道、庄内との連絡、町人の動き、すべて盛胤が背後にいます」


「やはりか」


 南殿は目を伏せ、そしてすぐに上げた。その動きには迷いがなかった。


「湊殿。ここに集まったのは、この会津の未来を決めるためです」


 湊の背筋が自然と伸びる。浅香、八代、慶次、曽根、三雲、上泉。仲間たちも全員が座を囲み、一同の視線が一点に収束している。


「猪苗代との争いは避けられぬ。だが、力のみでは会津は割れる」


 南殿は地図を指し示した。


「我らが勝とうと負けようと、民心は必ず揺らぐ。盛胤をただ討てば済む話ではありません」


 湊は息を吸い、静かに口を開いた。


「では、どう動くべきでしょう」


「その前に、湊殿に問いたい」


 南殿は湊をまっすぐ見つめた。


「盛胤殿と相対したとき、何を感じましたか」


 湊は少し考えてから答えた。


「憎しみだけではありませんでした。会津を守りたいという執念。外から来た者に土地を奪われまいとする必死さ。それは、南の者たちが百年抱えてきた感情と、どこか似ていました」


 南殿の目が、わずかに柔らかくなった。


「やはり、湊殿は見抜いていましたか」


「見抜いたというほどではありません。ただ、あの目は、敵の目ではなかった気がします」


「その通りです」


 南殿は深く頷いた。


「盛胤殿は会津蘆名の支流、古くから民に名望があり、誇りも高い。ああした武士は、地位を奪われた怒りよりも、民を守れぬ己を恥じている」


 三雲が紙をめくりながら言った。


「確かに、寺の記録には、盛胤が年貢の滞った村に独断で援助した記録もあります」


 慶次が腕を組む。


「ただの逆心持ちじゃねぇ、ってことだな」


「そうです」


 南殿は湊へ向き直る。


「だからこそ、盛胤殿に与えるべきは罰ではなく、役目です」


「役目」


 湊が問うと、南殿は指を地図の猪苗代へ滑らせた。


「会津を守る任を任せるのです。猪苗代を治めるにふさわしい地位を示せば、必ず応じましょう」


 山上殿が続ける。


「盛胤殿は孤独なのです。蘆名が滅び、伊達が入り、蒲生が去り、上杉が来た。だが彼だけは、ただこの地に残された」


「だからこそ、立つ場所を与える」


 南殿の声は静かだったが、その裏には確かな思いがあった。


「我らが会津を一つに保つ意思を示すことで、盛胤殿の誇りは戻る。会津の武士も民も、その姿を見て動くでしょう」


 曽根が慎重に言う。


「しかし湊殿を狙ったのは事実。危険では」


 南殿は否定しなかった。


「危険です。しかし、盛胤殿の行動は会津を外から奪われまいとする反応にすぎません。湊殿、あなたの力を示したことで、あの者は必ず揺れています」


            ◆


 湊は昨日の盛胤の目を思い出した。


 冷たく見えて、その奥には確かに迷いが揺れていた。「思ったより手強い」と言った時の声。「また会おう」と去り際に残した言葉。あれは、ただの脅しではなかった。


 盛胤は、湊たちを試していた。そして同時に、自分自身も試していたのかもしれない。会津を守るために、本当にこの道しかないのか。外から来た者を排除することだけが、会津のためになるのか。


 南殿の提案は、その迷いに答えを与えるものだった。


 敵を倒すのではなく、味方に取り込む。罰を与えるのではなく、役目を与える。それは、南が百年かけて学んだ知恵でもあった。影として生きてきた者たちは、力で押さえつけられることの虚しさを知っている。だからこそ、力ではなく居場所を与えることの意味を理解している。


「盛胤殿を会津側に立たせることで、会津はまとまる」


 湊はつぶやいた。


「その通りです」


 南殿は静かに頷く。


「そして、そのうえで初めて、上杉としての会津が機能し始める」


 慶次が軽く息を吐いた。


「なるほど。猪苗代を倒すんじゃなくて、味方につけて包み込むわけか」


「ええ」


 南殿は再び湊へ視線を向けた。


「湊殿。この策を実現できるのは、あなたしかいません」


 湊は息を整えた。


 盛胤は、敵として見れば厄介だ。だが味方につければ会津は一気に固まる。その意味を仲間たちも理解していた。


「具体的には、どのように接触すればよいでしょうか」


「まず、書状を送ります。私の名で。南家が盛胤殿を敵と見なしていないことを伝える」


「それで応じるでしょうか」


「応じなくとも構いません。大切なのは、こちらの意思を示すことです。盛胤殿は誇り高い武士。敵意ではなく敬意を向けられれば、必ず心が動く」


 山上殿が付け加えた。


「書状を届けるのは、湊殿にお願いしたい。盛胤殿と直接相対した者が届けることで、言葉に重みが生まれます」


「私が」


「はい。危険は承知しています。だからこそ、湊殿の仲間たちにも同行していただきたい」


 浅香が静かに言った。


「湊様。私たちは、ただ傍にいるだけでよいのです」


 八代が頷く。


「南殿も、それで安心するだろ」


「湊殿」


 南殿は微笑み、その目に覚悟の光を宿した。


「頼みます。これより先は、あなたとあなたの仲間の力にかかっています」


            ◆


 湊は立ち上がり、襖の向こうに広がる冬空を見た。


 会津を覆う白い雲の奥で、確かに新しい道が開け始めていた。


 盛胤を敵として倒すのではなく、味方として迎える。それは、南が百年かけて学んだ知恵であり、湊がこの会津で実現しようとしていることの核心でもあった。


 力で押さえつけるのではなく、居場所を与える。それこそが、会津を一つにする道だ。


 三十日の期限は、まだ残っている。その間に、盛胤との対話を成し遂げ、会津の未来を開く。南の者たちが百年待ち続けた光を、この冬の終わりに届ける。


 仲間が背に集う気配を感じながら、湊は静かに言った。


「行こう。会津を一つにするために」


 慶次が笑った。


「ようやく、お前らしい顔になったな」


「そうか」


「そうだ。さっきまでの顔は、ちょっと重すぎた」


 浅香が小さく微笑んだ。


「湊様。私たちがついています」


「ありがとう。みんな」


 宿を出た瞬間、雪がまた強くなった。白い世界の中を進む七つの影は、会津の風に逆らうように歩いていく。


 猪苗代が動き、会津の闇がささやく。だがその闇に向かうこの歩みだけは、確かに光へ向いていた。


 湊は、盛胤が待つ猪苗代へと、最初の一歩を踏み出した。

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