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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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93話:湖畔に潜む影、猪苗代盛胤

 会津の空は、夜明けとともに青白く凍りついていた。


 遠くから響く朝の鐘は、雪雲に吸い込まれて薄く、音の輪郭すら曖昧だ。湊は宿の廊下をゆっくりと歩きながら、冷気で細く震える息を整えた。猪苗代の名が浮かび上がってから一夜。眠りは浅く、胸の奥に刺さった違和感だけが雪より冷たく残っている。


 猪苗代。蘆名の支流であり、度々反乱を起こしてきた古き会津の家。彼らが裏で動いているのなら、南を狙った襲撃も、庄内の流れ物も、地下通路も、すべて説明がつく。


 だが証拠はまだ薄い。そして敵は、必ず次の手を打ってくる。


 脇腹の傷は昨日よりも疼く。浅香が丁寧に巻き直してくれた包帯が、身体を起こすたびにその存在を知らせる。痛みは残っているが、歩けぬほどではない。むしろ、この痛みが自分を現実に繋ぎ止めているような気さえした。


 三十日の期限は、刻一刻と過ぎていく。南を上杉家の中心に立たせるには、湊自身が内側に楔を打ち込み続ける必要があった。そして今日、その楔を打ち込む相手が見えた。猪苗代という名前。それが、会津の闇の中心に繋がっている。


 湊が階段を降りると、すでに仲間たちが揃っていた。


 浅香は静かに茶を淹れ、八代は槍を壁に立てかけて腕を組んでいる。曽根昌世は地図の上に細い指を置き、地形を読むように眉を寄せている。三雲成持は寺の檀家名簿を確認し、前田慶次は縁側に背を預けて雪景色を眺めながら足を揺らしている。上泉信綱は木刀を横に置き、目を閉じて呼吸を整えていた。


 七名の気配が、朝の冷気に溶け込んでいる。その中に、緊張の膜が張っていた。


「湊、顔が冴えないな」


 最初に口を開いたのは慶次だった。その声音は軽いが、隠した警戒の色がにじんでいる。


「眠れなかっただけだよ」


「ふむ。敵の名前が見えた夜は、誰でも眠りが浅くなるものだ」


 上泉が静かに言った。


「猪苗代、か」


 三雲が檀家帳の紙を伏せ、目を細めた。


「古い家よ。蘆名の傘下にいたようで、実際は別腹。支流と呼ばれても、心まで従っていたわけではない」


「寺の記録にも、たびたび独断専行の文字があります」


 曽根が低く言った。


「その猪苗代が、裏で商人や町人を動かし、地下の道を使い、庄内の船と繋いでいる。すべてが一本に繋がるのは恐ろしいが、妙に腑に落ちもする」


 湊は頷いた。


「今日の目的は二つある。一つは猪苗代の手勢がどこまで動いているかの確認。もう一つは、南殿をより確実に守るための手立てだ」


「敵は次の一手を必ず打ってくる。こちらも動かなければ飲み込まれる」


 上泉が言葉を引き取った。


            ◆


 宿を出ると、雪が深く積もっていた。


 空は低く垂れこめ、陽光は雲に遮られて届かない。街道には新しい足跡がまばらに残り、行き交う人の姿も少ない。冬の会津は、すべてを白く覆い隠すように静まり返っていた。


 軒先から垂れる氷柱が、わずかな光を受けて鈍く煌めいている。屋根から落ちた雪の塊が道端に小さな山を築き、その合間を縫うように人々が行き交っていた。行商人が荷を担いで通り過ぎ、井戸端では女たちが白い息を吐きながら言葉を交わしている。


 湊たちは湖へ向かう道を進んだ。曽根と三雲が先行して地形を確かめ、上泉は裏道を警戒し、慶次は湊の横を歩いている。浅香は湊の半歩後ろに控え、八代は後方から周囲を見張っていた。


 街を抜けると、道は次第に細くなっていく。人家が途切れ、木々が増え、足元の雪も深くなった。息が白く立ち上り、頬を刺す冷気が意識を研ぎ澄ませる。


 湖が近づくにつれて、空気の質が変わった。湿り気を帯びた冷気。深く静まり返った水面の気配。そして、人の気配を吸い込んだような重い静寂。どこか遠くで水鳥が鳴き、その声が雪の中に吸い込まれていく。


 慶次が横目で湊を見た。


「湊、ひとつ聞いていいか」


「うん」


「お前自身の焦りはどこから来てる」


 湊は足を止めなかった。それでも胸の奥で何かが僅かに揺れた。


「焦っているつもりはないよ」


「嘘だな」


 慶次の声は柔らかいが、切れ味は鋭い。


「昨日の地下道、矢の襲撃、そして猪苗代。全部、敵がこちらを予測している動きだ。それが怖いんだろ」


 湊は苦笑した。


「さすが慶次。隠せないね」


「隠さなくていいさ。俺は戦場で何度も感じた。敵がこちらの手を全部読んでいるときほど怖いものはない。だがな、湊」


「うん」


「同じくらい、敵にとって想定外の仲間が横にいるだけで、生き残る確率は跳ね上がる」


 慶次は前を向いたまま、雪を踏みしめるように言った。


「俺たちは、敵の計算に入っていない。敵は、お前と南殿だけを見ている。そこに俺たちが入るだけで、敵の読みは全部狂う」


 その言葉は、冷え切った朝の空気の中で驚くほど温かかった。


「湊。お前はもっと、俺たちを使え」


「頼りにしてるよ。みんなを」


「なら、もっと肩の力抜け。お前は南殿と同じで、ため込みすぎなんだよ」


 慶次の軽口に、雪の冷たさが少しだけ和らぐ。


            ◆


 曽根が戻ってきた。


「湊、古い屋敷がひとつある。廃屋だが、地下へ続く細工があった。猪苗代の物と見て間違いない」


 三雲も続いた。


「寺の記録に、その屋敷の名が残っています。猪苗代盛国の従属家が管理していた場所です」


「上泉殿は」


「裏道のひとつに、人が通った形跡がありました。昨日の襲撃者と同じ足運びです」


「つまり、敵はまだ近くにいる」


 浅香が低く言った。


「湊様、屋根の影。人の気配があります」


「二、いや、三だな」


 八代が目を細めた。


「でも、その程度で済む相手じゃない気がするな」


 慶次は笑みを消し、視線を屋敷の裏へ流す。


「猪苗代が本当に動いてるなら、まず様子見をする小手調べが必ずある」


「その通りだ」


 上泉の声は静かだった。


「敵はいま、我らを量っている。こちらの力も、陣立ても、心もな」


 湊は深く息を吸った。


「行こう」


 屋敷の門をくぐると、雪が少しだけ深く感じられた。踏み固められた足跡は門へ続き、そこから左右に散っている。まるで待ち構える者の配置をそのまま示すように。


 曽根が低く言った。


「足跡の深さが違う。軽装と重装が混ざっている。武者がいるな」


「三雲殿、寺の記録でこの屋敷は」


「猪苗代盛国の従属家が管理していたとされる場所です。蘆名からの正式な命ではなく、猪苗代家独自の領分として扱われていた時期もある」


「つまり、猪苗代の本家筋か」


 三雲は静かに頷いた。


 その時、雪の向こうで低い声が落ちた。


「ようこそ、会津の深い場所へ」


 その声は、湖の底から響いてくるような重さがあった。湊たちが一斉に振り向く。


 屋敷の縁側に、一人の男が立っていた。年は三十代半ば。黒い羽織に雪が薄く積もり、身じろぎもせずこちらを見下ろしている。目は凍った湖のように濁りなく、しかし底が見えない。


 その目を見た瞬間、湊は直感した。こいつが、核心だ。


「猪苗代盛胤か」


 名前を口にすると、男は薄く笑った。


「名乗ってもいないのに、よく当てたな」


 その声音には怒りも憎しみもなく、ただ静かな侮りだけがあった。


「南を守りたいのだろう。上杉と結びたいのだろう。だがな」


 盛胤は雪を踏みしめながら縁側を歩いた。


「会津は、外から来た者に与える土地ではない。蘆名が滅び、伊達が去り、蒲生も移り、そして上杉が来た。だが、我ら猪苗代は、この地を離れぬ」


 八代が小さく歯を鳴らす。


「湊。この男、本気で俺たちを異物扱いしている」


「だろうな」


 盛胤は続けた。


「南は古き家だ。蘆名よりも前からこの地にいる。だが、南が上杉につくのは許せぬ。南が息を吹き返せば、我らの立つ場所が揺らぐ。ゆえに、南も、お前も、消えるべきだ」


 その瞬間、屋敷の影から複数の気配が走った。


「来るぞ」


 上泉が刀を抜いた。美しい金属音が雪の静寂を破る。慶次が笑みを消して太刀を構え、曽根が脇差に左手を添え、浅香は湊の半歩前に出る。


 雪が弾ける。黒装束の者たちが四方から飛び込んできた。


「浅香、左」


「承知」


 浅香の刀が雪を散らし、一人を切り上げた。


「八代、後ろ」


「任せろ」


 八代の槍が敵を地面へ叩きつける。


「猪苗代の手勢ってのは、挨拶もなしに斬りかかってくるのかよ」


 慶次は二人を相手に足運びで翻弄し、斬撃を避けた。


「曽根殿、右手の壁裏」


「把握した」


 曽根が滑るように踏み込み、影に潜んだ敵を斬り伏せる。


「三雲殿、下がって」


「わかっている」


 三雲の蹴り上げた雪が短刀の軌道をずらし、刃は空を切った。


 上泉が静かに言った。


「湊殿。敵の目はそなたを見ている。そなたが動けば、陣形は崩れる」


「俺が前に出る」


「それでよい」


 上泉は湊の前へ進み、刀を水平に構えた。


「湊を護るのが、我らの務めだ」


            ◆


 雪は激しく降り始めていた。


 敵の迷いはなく、盛胤の命が明確であることを示していた。湊を潰せ。その意図が冷気の中で明瞭に感じ取れた。


 だが湊は、不思議な安心感を覚えていた。慶次の太刀は迷いなく、上泉の足運びは揺らぎなく、浅香の判断は鋭い。八代は背を預けるに値し、曽根と三雲は敵の配置を読み切っている。


 この七人なら、行ける。


 胸奥の焦りが、ゆっくりと熱に変わっていった。この場を押し返せば流れが変わる。南を守り、会津を救う第一歩になる。


 敵の数は十を超えていた。だが、七人の連携はそれを凌駕していた。浅香が左を斬り、八代が後ろを突き、慶次が前を崩し、上泉が中央を守る。曽根と三雲が側面を固め、湊は全体を見渡しながら指示を出す。


 まるで一つの生き物のように、七人は動いた。


「よい。ここまでだ」


 盛胤の声が響いた。敵の気配が一斉に引いた。


「逃げる気か」


 慶次が追おうとするのを湊が制した。


「追うな。まだ何かある」


 盛胤は湊を見下ろした。その目には、怒りでも焦りでもなく、冷たい計算だけがあった。


「今日は顔を見に来ただけだ。お前たちがどの程度の者か、確かめたかった」


「それで、どうだった」


「思ったより手強い。だが、それだけだ」


 盛胤は薄く笑った。


「会津は簡単には変わらぬ。変われぬ土地だ。お前がどれだけ足掻いても、この地の深さには届かぬ」


「そう思うか」


「思う。南は百年、影に沈んでいた。お前はまだ会津に来て日が浅い。この土地の重さを、お前は知らぬ」


「知らないかもしれない。だが、知ろうとしている」


 湊の声は静かだったが、揺らぎはなかった。


「南は変わろうとしている。会津も変わろうとしている。その流れを、お前が止められるとは思えない」


 盛胤の目が、わずかに細まった。


「面白いことを言う」


「面白いかどうかは知らない。だが、俺は退かない」


 沈黙が落ちた。雪だけが、二人の間を静かに舞い落ちている。


「また会おう。次は、もう少し本気で相手をしてやる」


 雪の白へ溶けるように、盛胤の姿は消えた。


 慶次が吐き捨てた。


「あいつ、本気で俺たちを根絶やしにする気だな」


「湊様、どうしますか」


 浅香が問い、皆が視線を向けた。


 湊は静かに息を吸った。


「決まっている。盛胤を追う。その前に、南殿と山上殿へ報せを送る。会津が動く前に、俺たちが動く」


            ◆


 雪は静かに降り続けている。


 湖畔の白い景色の中で、湊は仲間たちの顔を見回した。浅香、八代、曽根、三雲、慶次、上泉。七人がここに立っている。


 敵は見えた。猪苗代盛胤。会津の古い血を引き、この土地を自分のものだと信じている男。南を潰し、上杉を追い出し、会津を元の姿に戻そうとしている。


 だが、湊には仲間がいる。


 慶次の言葉が胸に残っている。敵はお前と南殿だけを見ている。そこに俺たちが入るだけで、敵の読みは全部狂う。


 その通りだ。湊は一人ではない。


 振り返れば、不敵に笑う慶次。静かに構える上泉。冷静に地形を見る曽根。記録を紐解く三雲。そして、常に傍らにいる浅香と八代。


 その存在が、湊の背に確かな支えを置いた。


 三十日の期限は、まだ残っている。その間に、猪苗代の動きを暴き、南の力を証明する。敵が動いたということは、南の存在が脅威になっている証拠だ。南が必要である理由が、また一つ増えた。


「ここから、反撃を始める」


 湊は深く息を吸い、湖の白へと踏み出した。


 風は冷たいが、痛くはなかった。その冷たさすら、自分の熱を確かめるためのものに思えた。


 会津の闇は深い。だが、その闇の底に、光を届ける者たちがいる。


 湊は歩き続けた。足取りは確かだった。傷はまだ痛むが、心は定まっている。


 雪は降り続け、会津の湖畔を白く包んでいた。その白さの向こうに、春を待つ土地がある。南が待つ未来がある。


 湊は仲間たちと共に、その道を歩き始めた。

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