92話:猪苗代、地底より姿を現す
会津の朝は、前日よりもさらに冷え込んでいた。
雪雲が低く垂れこめ、街の上を覆うように重たくのしかかっている。湊は宿の縁側に腰をかけ、白く曇った空をじっと見上げていた。雲の向こうに太陽はあるはずなのに、その存在が感じ取れないほど、光は鈍く、冷気は深い。
地下通路の発見と矢の襲撃。それは湊の胸に新たな警鐘を打ちつけていた。南の動きが敵を刺激したのは間違いない。しかし、それ以上に湊を悩ませていたのは、敵がどこにいるかではなく、どこまで入り込んでいるかだった。
上杉家の中に敵がいる可能性。それは、湊の胸に重く沈んでいる。
脇腹の傷は昨夜よりもわずかに痛む。だが、進むしかない。これ以上の遅れは許されない。三十日の期限の中で、南を上杉家の中心に立たせるには、湊自身が内側に楔を打ち込み続ける必要があった。
そんな思考の渦を断ち切るように、後ろから柔らかい気配が近づいた。
「湊様。お身体はどうですか」
浅香だった。
「昨日よりはましだよ。歩くのに支障はない」
「痛みを庇って歩かないようにしてください。動きが鈍れば狙われます」
「わかってる」
短いやり取りだったが、浅香の声音はどこか強張っているように感じた。
その理由は、湊も理解していた。昨日の矢は、湊だけを狙ったものではない。浅香の頬をかすめた矢は、ただの威嚇ではなかった。敵は本気だ。湊を潰す気で動いている。
「今日はどちらを探りますか」
「商人筋の別の線をあたる。昨日の男が囮なら、本命は別にいる」
「昨日は敢えて姿を見せた者という可能性がありますね」
「そう。なら、裏にまだ何人もいるはずだ」
◆
城下に出ると、空の白さが一層濃くなり、雪片が舞い始めていた。
町人たちの吐く息は白く、早朝の通りには荷車の軋む音だけが静かに響いている。湊はその音を聞きながら、歩く速度を意識的に落とした。焦れば判断が鈍る。今必要なのは、冷静な探りだ。
浅香が隣で歩調を合わせ、八代は後方から視界を広く取り、周囲を細かく観察している。
目指したのは、城下でも比較的大きな商家が集まる街区だ。表向きは健全な取引が行われている場所だが、裏で操る者がいれば、情報の流れは自然とそこに集まる。
少し歩くと、湊はとある酒屋の前で足を止めた。
「ここに入るのか」
八代が低く訊いた。
「うん。昨日山上殿から聞いた名前がある。この店の主は、庄内筋とも繋がりがあるらしい」
「表向きは普通の酒屋だがな」
「だからこそ、探る価値がある」
湊は暖簾をくぐった。
◆
店内はひんやりとした空気に包まれ、酒樽が整然と並んでいた。木の香りと酒の香が混じり合い、独特の落ち着きがある。
奥から店主らしき男が現れた。五十がらみで、目つきが鋭い。
「いらっしゃい。寒い中ようこそ。おや、見ない顔だね」
「旅の者で、少し聞きたいことがあって寄らせてもらったよ」
湊は声の調子を柔らかくし、自然な来訪者を装った。
「昨日、市場の裏で動きの怪しい男を見かけたんだ。荷袋を抱えていてね。見たことはないか」
店主は一瞬、目を細めた。
「さあ。どんな男で」
「中肉中背、四十前くらい。荷袋を肩に担いで、人目を気にしている風だった」
「ああ、似たような連中は多いからねぇ」
店主は曖昧に笑っただけだったが、湊は違和感を感じた。
否定が早い。それに目線が一瞬だけ、棚の奥、床下に近い場所へ落ちた。隠し事をしている者の目だ。
「最近、庄内からの流れ物が増えていると聞いたよ」
湊は軽く踏み込んだ。
店主の表情がぴたりと止まった。
「あんた、誰だい」
「さあ、誰だと思う」
浅香がわずかに姿勢を変え、八代が背後で気配を強めた。
店主は両手をわずかに上げ、慌てるように笑ってみせた。
「いや、別に怪しい者じゃないよ。ただ、あんまり妙なことを聞かれるとね」
「妙なこと、ね」
湊の声は静かだったが、空気がわずかに張りつめる。
「庄内の荷物。それを扱っている者。昨日の男とどんな関係がある」
「知らんと言っただろう」
店主が声を荒げた瞬間、湊は気づいた。
逃げる。そのわずかな気配が、店主の肩から流れた。
「八代」
「わかってる」
店主はカウンターを蹴って裏口に走り出した。だが八代の腕が先に伸び、男の肩口を掴んだ。
「離せ」
「暴れるな」
八代は片手で店主を押さえ込み、動きを封じた。
湊は静かに歩み寄った。
「逃げようとしたということは、後ろめたいことがあるということだよね」
「違う」
「じゃあ訊くよ。庄内の荷。どこから来て、どこへ流れている」
「知らん。本当に知らん」
「じゃあ、昨日の男は」
沈黙。店主の喉が、乾いた音を立てて動いた。
「あいつは」
言葉が途切れたその瞬間、店の外で足音が走った。
浅香が即座に反応した。
「湊様、外に別の者が」
「囲まれたか」
店主は怯えたように顔を歪めた。
「違う、わしじゃない。わしじゃないんだ」
「じゃあ誰だ。誰が動いている」
「それは、言えん」
その声は、脅えだけではなかった。何かを恐れている。店主自身よりも大きな何かを。
湊は確信した。この店主は、ただの協力者ではない。背後にいる者に従わされているだけだ。
「名前を言え。誰がこの動きを仕切っている」
「言えん。言えば殺される」
「言わなくても殺されるかもしれないぞ」
店主の顔が青ざめた。
その時、浅香が低く言った。
「外の気配は四。全員動きが均一です。訓練されている」
「捕縛の動きか」
八代が槍の柄を握り直した。
「湊、どうする」
「この店主は利用されているだけだ。だが、敵は口封じに来た可能性が高い」
浅香が言った。
「では、戦うしかないですね」
「いや、ここは退く」
湊の決断に、二人は同時に頷いた。
「店主、来てもらうよ。話は外で聞く」
「ひ、ひぃ」
八代が店主を担ぎ、湊たちは裏口ではなく、店の脇にある別の細道へと抜けた。
◆
雪の冷たさが頬を刺した。
細道を抜け、人気のない路地へ出ると、湊は店主を壁際に座らせた。男は震えながら、湊を見上げている。
追手の気配は遠ざかっていた。別の方向へ走ったか、あるいは店主を見失ったか。いずれにせよ、時間は限られている。
「落ち着いて話せ。誰がこの動きを仕切っている」
店主は首を振った。
「言えん。本当に言えんのだ」
「なぜだ」
「あの方は、会津の古い血筋だ。蘆名の時代から、この土地に根を張っている。逆らえば、わしだけじゃない。家族も、店も、全部潰される」
湊は眉をひそめた。
会津の古い血筋。蘆名の時代から根を張っている者。
「その者の名は」
「言えん」
「名前を言わなくても、手がかりをくれ。どんな者だ」
店主は長い沈黙の後、震える声で言った。
「湖の、近くだ」
「湖」
「猪苗代の、湖。あの辺りを、昔から仕切っている」
湊の胸に、一つの名前が浮かんだ。
猪苗代。
蘆名の支流でありながら、たびたび独立的に振る舞い、中央の統制を嫌って反乱めいた動きを繰り返してきた家。かつて蘆名に仕えながら、伊達に内通して裏切った者もいた一族。
「猪苗代の者が、この動きの裏にいるのか」
店主は答えなかった。だが、その沈黙が答えだった。
湊は深く息を吐いた。
敵の輪郭が、少しずつ見えてきた。南を狙った襲撃。地下通路。庄内の不審船。そして、この商人筋の動き。すべてが一つの線で繋がり始めている。
猪苗代。会津に根を張った古い勢力。上杉が入る前から、この土地を自分のものだと思っている者たち。
彼らにとって、南は邪魔だ。湊も邪魔だ。上杉という新しい支配者に取り入ろうとする者は、すべて敵なのだ。
「店主。お前はこれからどうする」
「わからん。逃げるしかない」
「逃げてどうする」
「知らん。だが、ここにいれば殺される」
湊は店主を見つめた。この男は、ただの小物だ。だが、小物だからこそ、大きな絵図の一部を担がされている。
「山上道及という名を知っているか」
店主は首を振った。
「上杉の重臣だ。俺が話をつける。お前が知っていることをすべて話せば、身の安全は保障される」
「本当か」
「約束する」
店主の目に、わずかな希望が灯った。
◆
店主を安全な場所に匿い、湊たちは宿へ戻った。
部屋に入ると、湊は深く息を吐いた。脇腹の傷が疼く。だが、それ以上に、胸の奥で燃える何かがあった。
猪苗代。その名前が、頭の中で繰り返されている。
蘆名が滅び、伊達が去り、蒲生が治め、そして上杉が入った。その間ずっと、猪苗代の者たちはこの土地に残り続けた。表向きは従順に見せながら、裏では自分たちの勢力を温存してきたのだろう。
そして今、上杉が会津に根を下ろそうとしている。南という古い影が、上杉と手を結ぼうとしている。それは、猪苗代にとって許せないことなのだ。
自分たちこそが会津の主だという意識。外から来た者に、この土地を渡すわけにはいかないという執念。
湊は窓の外を見た。雪は静かに降り続けている。
「湊様」
浅香が声をかけた。
「猪苗代という名前、どこまで信じられますか」
「店主が嘘をついている様子はなかった。恐怖は本物だった」
「では、次はどう動きますか」
「まず山上殿に報告する。猪苗代の動きを探る必要がある」
八代が腕を組んだ。
「猪苗代か。厄介な相手だな。会津の古い勢力ってことは、土地の者に根回しも利く」
「だからこそ、南の力が必要になる」
湊は静かに言った。
「南は、蘆名よりも前からこの土地にいる。猪苗代よりも古い。その南が上杉についたということは、猪苗代にとっては脅威だ」
「つまり、南を潰せば、猪苗代は優位に立てるってことか」
「そういうことだ。だから、南を守ることが、上杉を守ることになる」
浅香が頷いた。
「敵の正体が見えてきましたね」
「ああ。でも、まだ輪郭だけだ。猪苗代の誰が動いているのか、どこまで根を張っているのか、それを探らないといけない」
湊は立ち上がった。
「三十日の期限は、まだ残っている。その間に、猪苗代の動きを暴く。南の力を借りて」
窓の外で、雪は静かに降り続けている。会津の街は白く染まり、静寂に包まれていた。
だが、その静寂の下で、何かが確実に動いている。
猪苗代という名前。それが、会津の闇の中心に繋がっている。
湊は深く息を吸い、冷たい空気を肺に満たした。
敵は見えた。あとは、その影を追い詰めるだけだ。
会津の風が、窓の隙間から静かに吹き込んでいた。




