表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

93/102

92話:猪苗代、地底より姿を現す

会津の朝は、前日よりもさらに冷え込んでいた。


 雪雲が低く垂れこめ、街の上を覆うように重たくのしかかっている。湊は宿の縁側に腰をかけ、白く曇った空をじっと見上げていた。雲の向こうに太陽はあるはずなのに、その存在が感じ取れないほど、光は鈍く、冷気は深い。


 地下通路の発見と矢の襲撃。それは湊の胸に新たな警鐘を打ちつけていた。南の動きが敵を刺激したのは間違いない。しかし、それ以上に湊を悩ませていたのは、敵がどこにいるかではなく、どこまで入り込んでいるかだった。


 上杉家の中に敵がいる可能性。それは、湊の胸に重く沈んでいる。


 脇腹の傷は昨夜よりもわずかに痛む。だが、進むしかない。これ以上の遅れは許されない。三十日の期限の中で、南を上杉家の中心に立たせるには、湊自身が内側に楔を打ち込み続ける必要があった。


 そんな思考の渦を断ち切るように、後ろから柔らかい気配が近づいた。


「湊様。お身体はどうですか」


 浅香だった。


「昨日よりはましだよ。歩くのに支障はない」


「痛みを庇って歩かないようにしてください。動きが鈍れば狙われます」


「わかってる」


 短いやり取りだったが、浅香の声音はどこか強張っているように感じた。


 その理由は、湊も理解していた。昨日の矢は、湊だけを狙ったものではない。浅香の頬をかすめた矢は、ただの威嚇ではなかった。敵は本気だ。湊を潰す気で動いている。


「今日はどちらを探りますか」


「商人筋の別の線をあたる。昨日の男が囮なら、本命は別にいる」


「昨日は敢えて姿を見せた者という可能性がありますね」


「そう。なら、裏にまだ何人もいるはずだ」


            ◆


 城下に出ると、空の白さが一層濃くなり、雪片が舞い始めていた。


 町人たちの吐く息は白く、早朝の通りには荷車の軋む音だけが静かに響いている。湊はその音を聞きながら、歩く速度を意識的に落とした。焦れば判断が鈍る。今必要なのは、冷静な探りだ。


 浅香が隣で歩調を合わせ、八代は後方から視界を広く取り、周囲を細かく観察している。


 目指したのは、城下でも比較的大きな商家が集まる街区だ。表向きは健全な取引が行われている場所だが、裏で操る者がいれば、情報の流れは自然とそこに集まる。


 少し歩くと、湊はとある酒屋の前で足を止めた。


「ここに入るのか」


 八代が低く訊いた。


「うん。昨日山上殿から聞いた名前がある。この店の主は、庄内筋とも繋がりがあるらしい」


「表向きは普通の酒屋だがな」


「だからこそ、探る価値がある」


 湊は暖簾をくぐった。


            ◆


 店内はひんやりとした空気に包まれ、酒樽が整然と並んでいた。木の香りと酒の香が混じり合い、独特の落ち着きがある。


 奥から店主らしき男が現れた。五十がらみで、目つきが鋭い。


「いらっしゃい。寒い中ようこそ。おや、見ない顔だね」


「旅の者で、少し聞きたいことがあって寄らせてもらったよ」


 湊は声の調子を柔らかくし、自然な来訪者を装った。


「昨日、市場の裏で動きの怪しい男を見かけたんだ。荷袋を抱えていてね。見たことはないか」


 店主は一瞬、目を細めた。


「さあ。どんな男で」


「中肉中背、四十前くらい。荷袋を肩に担いで、人目を気にしている風だった」


「ああ、似たような連中は多いからねぇ」


 店主は曖昧に笑っただけだったが、湊は違和感を感じた。


 否定が早い。それに目線が一瞬だけ、棚の奥、床下に近い場所へ落ちた。隠し事をしている者の目だ。


「最近、庄内からの流れ物が増えていると聞いたよ」


 湊は軽く踏み込んだ。


 店主の表情がぴたりと止まった。


「あんた、誰だい」


「さあ、誰だと思う」


 浅香がわずかに姿勢を変え、八代が背後で気配を強めた。


 店主は両手をわずかに上げ、慌てるように笑ってみせた。


「いや、別に怪しい者じゃないよ。ただ、あんまり妙なことを聞かれるとね」


「妙なこと、ね」


 湊の声は静かだったが、空気がわずかに張りつめる。


「庄内の荷物。それを扱っている者。昨日の男とどんな関係がある」


「知らんと言っただろう」


 店主が声を荒げた瞬間、湊は気づいた。


 逃げる。そのわずかな気配が、店主の肩から流れた。


「八代」


「わかってる」


 店主はカウンターを蹴って裏口に走り出した。だが八代の腕が先に伸び、男の肩口を掴んだ。


「離せ」


「暴れるな」


 八代は片手で店主を押さえ込み、動きを封じた。


 湊は静かに歩み寄った。


「逃げようとしたということは、後ろめたいことがあるということだよね」


「違う」


「じゃあ訊くよ。庄内の荷。どこから来て、どこへ流れている」


「知らん。本当に知らん」


「じゃあ、昨日の男は」


 沈黙。店主の喉が、乾いた音を立てて動いた。


「あいつは」


 言葉が途切れたその瞬間、店の外で足音が走った。


 浅香が即座に反応した。


「湊様、外に別の者が」


「囲まれたか」


 店主は怯えたように顔を歪めた。


「違う、わしじゃない。わしじゃないんだ」


「じゃあ誰だ。誰が動いている」


「それは、言えん」


 その声は、脅えだけではなかった。何かを恐れている。店主自身よりも大きな何かを。


 湊は確信した。この店主は、ただの協力者ではない。背後にいる者に従わされているだけだ。


「名前を言え。誰がこの動きを仕切っている」


「言えん。言えば殺される」


「言わなくても殺されるかもしれないぞ」


 店主の顔が青ざめた。


 その時、浅香が低く言った。


「外の気配は四。全員動きが均一です。訓練されている」


「捕縛の動きか」


 八代が槍の柄を握り直した。


「湊、どうする」


「この店主は利用されているだけだ。だが、敵は口封じに来た可能性が高い」


 浅香が言った。


「では、戦うしかないですね」


「いや、ここは退く」


 湊の決断に、二人は同時に頷いた。


「店主、来てもらうよ。話は外で聞く」


「ひ、ひぃ」


 八代が店主を担ぎ、湊たちは裏口ではなく、店の脇にある別の細道へと抜けた。


            ◆


 雪の冷たさが頬を刺した。


 細道を抜け、人気のない路地へ出ると、湊は店主を壁際に座らせた。男は震えながら、湊を見上げている。


 追手の気配は遠ざかっていた。別の方向へ走ったか、あるいは店主を見失ったか。いずれにせよ、時間は限られている。


「落ち着いて話せ。誰がこの動きを仕切っている」


 店主は首を振った。


「言えん。本当に言えんのだ」


「なぜだ」


「あの方は、会津の古い血筋だ。蘆名の時代から、この土地に根を張っている。逆らえば、わしだけじゃない。家族も、店も、全部潰される」


 湊は眉をひそめた。


 会津の古い血筋。蘆名の時代から根を張っている者。


「その者の名は」


「言えん」


「名前を言わなくても、手がかりをくれ。どんな者だ」


 店主は長い沈黙の後、震える声で言った。


「湖の、近くだ」


「湖」


「猪苗代の、湖。あの辺りを、昔から仕切っている」


 湊の胸に、一つの名前が浮かんだ。


 猪苗代。


 蘆名の支流でありながら、たびたび独立的に振る舞い、中央の統制を嫌って反乱めいた動きを繰り返してきた家。かつて蘆名に仕えながら、伊達に内通して裏切った者もいた一族。


「猪苗代の者が、この動きの裏にいるのか」


 店主は答えなかった。だが、その沈黙が答えだった。


 湊は深く息を吐いた。


 敵の輪郭が、少しずつ見えてきた。南を狙った襲撃。地下通路。庄内の不審船。そして、この商人筋の動き。すべてが一つの線で繋がり始めている。


 猪苗代。会津に根を張った古い勢力。上杉が入る前から、この土地を自分のものだと思っている者たち。


 彼らにとって、南は邪魔だ。湊も邪魔だ。上杉という新しい支配者に取り入ろうとする者は、すべて敵なのだ。


「店主。お前はこれからどうする」


「わからん。逃げるしかない」


「逃げてどうする」


「知らん。だが、ここにいれば殺される」


 湊は店主を見つめた。この男は、ただの小物だ。だが、小物だからこそ、大きな絵図の一部を担がされている。


「山上道及という名を知っているか」


 店主は首を振った。


「上杉の重臣だ。俺が話をつける。お前が知っていることをすべて話せば、身の安全は保障される」


「本当か」


「約束する」


 店主の目に、わずかな希望が灯った。


            ◆


 店主を安全な場所に匿い、湊たちは宿へ戻った。


 部屋に入ると、湊は深く息を吐いた。脇腹の傷が疼く。だが、それ以上に、胸の奥で燃える何かがあった。


 猪苗代。その名前が、頭の中で繰り返されている。


 蘆名が滅び、伊達が去り、蒲生が治め、そして上杉が入った。その間ずっと、猪苗代の者たちはこの土地に残り続けた。表向きは従順に見せながら、裏では自分たちの勢力を温存してきたのだろう。


 そして今、上杉が会津に根を下ろそうとしている。南という古い影が、上杉と手を結ぼうとしている。それは、猪苗代にとって許せないことなのだ。


 自分たちこそが会津の主だという意識。外から来た者に、この土地を渡すわけにはいかないという執念。


 湊は窓の外を見た。雪は静かに降り続けている。


「湊様」


 浅香が声をかけた。


「猪苗代という名前、どこまで信じられますか」


「店主が嘘をついている様子はなかった。恐怖は本物だった」


「では、次はどう動きますか」


「まず山上殿に報告する。猪苗代の動きを探る必要がある」


 八代が腕を組んだ。


「猪苗代か。厄介な相手だな。会津の古い勢力ってことは、土地の者に根回しも利く」


「だからこそ、南の力が必要になる」


 湊は静かに言った。


「南は、蘆名よりも前からこの土地にいる。猪苗代よりも古い。その南が上杉についたということは、猪苗代にとっては脅威だ」


「つまり、南を潰せば、猪苗代は優位に立てるってことか」


「そういうことだ。だから、南を守ることが、上杉を守ることになる」


 浅香が頷いた。


「敵の正体が見えてきましたね」


「ああ。でも、まだ輪郭だけだ。猪苗代の誰が動いているのか、どこまで根を張っているのか、それを探らないといけない」


 湊は立ち上がった。


「三十日の期限は、まだ残っている。その間に、猪苗代の動きを暴く。南の力を借りて」


 窓の外で、雪は静かに降り続けている。会津の街は白く染まり、静寂に包まれていた。


 だが、その静寂の下で、何かが確実に動いている。


 猪苗代という名前。それが、会津の闇の中心に繋がっている。


 湊は深く息を吸い、冷たい空気を肺に満たした。


 敵は見えた。あとは、その影を追い詰めるだけだ。


 会津の風が、窓の隙間から静かに吹き込んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ