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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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91話:会津地下の影 動き出す黒幕

雪に覆われた会津の空は、朝の冷気を深く抱え込んでいた。


 山々の向こうから差し込む陽が白い大地を照らし、遠くの雲の端が金色に染まっていく。湊は宿の軒先に立ち、その光景をしばし見つめていた。


 庄内の件を山上に報告し、南の動きが正式に上杉の耳に届いた翌朝だった。雪は夜のうちに再び薄く積もり、街道は踏み跡の上に新しい白をかぶせている。


 胸の奥にあるのは、昨日とは違う重さだった。緊張よりも、むしろ期待の重み。三十日の期限の最初の成果を出せた。まだ確定ではないが、南の情報を基に上杉が動けば、南は確実に信用を勝ち取る。


 だが、そこで止まれば意味がない。南を上杉に繋ぎ続け、根を伸ばさせるには、次の動きを自分から仕掛ける必要があった。


 庄内の件は南に任せている。では、自分は何をすべきか。


 その答えは、昨夜の山上の言葉にあった。


 会津の内部の不満。その芽を見つけよ。そこが動けば敵は必ず入り込む。


 会津の最も深い闇は、外ではなく内にある。南が外の影を探るなら、湊は内の火種を探らねばならなかった。


 脇腹の傷はまだ疼くが、昨日ほどではない。歩けぬほどではない。むしろ、この痛みが自分を現実に繋ぎ止めているような気さえした。


 その視線の先で、雪を踏む軽い足音が近づいてきた。


「湊様。ご準備は整いましたか」


 浅香だった。


「うん。今日も歩き回るよ」


「本日はどちらへ」


「城下の商人筋をあたる。庄内の件と無関係とは思えないから」


            ◆


 街へ出ると、雪解けと新雪が混ざり合い、白と灰がまだらに広がっていた。


 行商人が荷車を押し、馬子が馬の背を撫でながら歩く。市場の屋台にはまだ早い時間だが、支度を始めようとする者たちが何人か姿を見せていた。空気は冷たく、鼻の奥が痛む。それでも、街は確かな生活の息を吐いている。


 湊は脇腹の痛みを抱えながら歩を進めた。浅香が横で控えるように歩き、八代は後ろで周囲を警戒している。


 向かったのは、城下の商人が集まる裏通りだった。細い道に店が密集し、表の通りよりも声が飛び交い、噂も流れやすい場所だ。


 そこで、湊は足を止めた。


 通りの向こうで、一人の男が荷袋を肩に担ぎながら、周囲を気にするように歩いている。中年の商人風で、目つきが落ち着かない。何度も後ろを振り返りながら、人混みを縫うように進んでいく。


「湊、あの男」


 八代が低く言った。


「ああ。動きが怪しい」


 浅香が目を細めた。


「ただの商人には見えませんね。何かを警戒している」


「声をかけますか」


「いや、まず尾ける」


            ◆


 男は市場の裏手へと進み、さらに細い横道へと入っていく。薄い雪が積もるその道は、近隣の者でもなければ通らないような場所だ。


 数歩後ろを歩きながら、湊は気配を殺した。浅香も八代も無駄な音を立てない。


 男は周囲を何度も見回し、確認すると古びた倉庫の脇へと消えた。


「湊様」


「ああ。怪しい。完全に誰かと会う動きだ」


 倉庫の奥には、外からでは見えない小さな物置があった。男の姿はそこに吸い込まれるように消えた。


 湊がそっと近づこうとした、その瞬間。


 雪を踏む音とは違う気配が背後から走った。


「湊、伏せろ」


 八代の怒声と同時に、湊は身体をかがめた。次の瞬間、背後の木壁に何かが鋭く突き刺さった音が響く。


 矢だった。


 雪の反射で見えにくい角度から飛んできた一本の矢が、湊の肩の高さを正確に狙っていた。


「弓兵だ。距離は近い」


 八代が槍を構える。


 浅香は湊を押しやり、即座に周囲の死角を確認した。


「追っていた男を追うのは後です。まず敵を」


「いや、待て」


 湊は叫んだ。


「敵はあの男の相手じゃない。俺たちを狙ってきた」


 そして、それはほぼ確信だった。


 この矢の角度と距離。射手は現場を熟知している。そして、あの男の動きとあまりにも近すぎる。


「これは偶然じゃない」


「どういうことですか」


「俺たちが尾けていたことを、向こうも知っていた。つまり、最初から誘い込まれていた可能性がある」


 浅香の表情が険しくなった。


「罠」


「ああ。あの男は囮だったのかもしれない」


 そのとき、再び矢が飛んだ。今度は浅香のすぐ横をかすめて雪を散らした。


「湊様、下がって」


「いや、相手を炙り出す」


 湊は覚悟を決めると、木壁の陰からわずかに身を乗り出し、声を張り上げた。


「狙いがあるなら姿を見せろ。逃げても無駄だ」


 返事はない。だが、確かに気配が揺れた。


 そのとき、遠くで雪を踏む音が一つ響き、気配がすっと遠ざかった。


 射手は撤退した。


「逃げたな」


「追いますか」


「いや。罠の可能性がある」


 湊が息を整えると、脇腹の傷が鈍く痛んだ。浅香が気づいて支える。


「湊様、無理をしすぎです」


「大丈夫だよ。問題は、あそこだ」


 湊は、男が消えた物置の方へ視線を向けた。


「罠の可能性は」


「あっても、確かめるしかない」


            ◆


 物置の前に立つと、雪に押しつぶされかけた古い板戸が微かに軋んだ。中からは気配がしない。


 八代が前に出た。


「俺がやる。湊は下がれ」


「頼む」


 八代が板戸を一気に引く。雪の冷気とともに、暗い内部が露わになった。埃の匂いが立ちこめ、古びた木箱や縄が雑然と積まれている。


 だが、人影はない。


「空だな」


「いや、何かある」


 湊は一歩踏み込み、床の雪の跡を見つめた。湿った雪が靴跡を残しており、それは奥の壁まで続いていた。そして、行き止まりのはずの壁の板が、わずかに浮いている。


「隠し扉か」


「南の者でも気づかないような造りだ」


 八代が低く唸った。


 湊は板を押してみた。板は思った以上に軽く回転し、向こう側の狭い通路を開いた。奥は暗く、狭く、ただ一人分がやっと通れる幅だ。


「あの男は、ここから逃げたんだな」


「敵は最初から湊様を誘い込む気だったのでは」


「そうだとしても、術中に落ちたわけじゃない。むしろ逆に、向こうが痕跡を残した」


 湊は指で壁を撫でた。木片の手触りが粗く、最近開閉された跡がくっきりと残っている。


「湊、入るのか」


「もちろん。でも深追いはしない」


 八代が槍を構え、通路の前に立った。


「俺が先に行く」


「いや、順番を変える。僕が真ん中。浅香が後ろ。八代は前で障害を潰す役目だ」


「あいよ。任せとけ」


 三人は狭い通路を進んだ。雪の反射が届かず、空気は重い。足音を吸い込むような静けさが耳の奥にまとわりついてくる。


 通路は途中で二手に分岐していた。片方は上へ向かう傾斜、もう片方はさらに奥へ深く潜る道。


 湊は右手の壁に触れ、木材の温度差を確かめた。


「上の通路は人の体温が残っている。数刻以内だ」


「あの男か、あるいは矢の射手か」


「両方かもしれない」


 浅香が小さく息を呑む。


「もし敵が上へ向かったなら、出口は街のどこかにある可能性が高い」


「問題は下の通路だな」


「ああ。こちらには何か別の気配がある」


 湊は暗闇に視線を向けた。光の届かない奥で、微かな湿り気と古い土の匂いが混ざっている。


「地下か」


「南の地下と繋がっている可能性が」


「いや、南のものとは造りが違う。これは、もっと古い」


 どこか遠くで水滴が落ちる音がした。


 ぽたり。


 その一滴が、まるで呼吸のように間をあけて続く。


「湿っている。井戸か地下水脈に近いのかもしれない」


「敵が隠れるには都合がいいな」


 八代が槍を握り直した。


「湊、この先は危険が大きい」


「分かってる。だから今日は追わない」


 八代と浅香が同時に湊を見た。


「痕跡は確かめた。南を狙った者が何をしているのか、町の地下に何があるのか、全部、線になる」


「線」


「庄内の不審船。あの男の動き。矢の襲撃。そして、この地下通路。全部が一つの組織の匂いがする」


「伊達か」


「可能性はある。でも、上杉家中の誰かの可能性もある」


「つまり」


「南が表に出ることを恐れている者がいる。そう考える方が自然だ」


            ◆


 三人は通路を引き返した。


 戻る途中、湊はふと、背中に視線を感じた。振り返っても誰もいない。しかし、間違いなく何者かの気配があった。


 敵はここまで来た湊を見ていた。湊が気づいたことも、敵は感じている。


 地上に出ると、雪の白さが眩しかった。冷たい空気が肌を刺し、緊張がほどけると同時に脇腹が再び疼いた。


「湊様、傷が」


「大丈夫。浅香、ありがとう」


 湊は息を整えた。


 南の働きが上杉に届いた今、邪魔をする者が必ず現れる。山上が言っていたことが、こんなにも早く現実になるとは思わなかった。


 だが、これは好機でもある。


 敵が動いたということは、南の存在が脅威になっている証拠だ。南が必要である理由が、また一つ増えた。


「今日はここまでにしよう。山上殿にも報告しなきゃいけない」


「報告すべきことが多すぎるな」


「ああ。でも、そのすべてが南を守る材料になる。敵は動いた。なら、南が必要である証拠にもなる」


 八代が笑った。


「お前らしいな。敵が動けば動くほど、味方にしてしまうんだからよ」


「そんな立派なものじゃないよ。でも、会津の闇を掘り起こせるのは、南と僕しかいない」


「なら、やるしかねえってことだな」


「そう」


 湊は空を見上げた。


 雲の切れ間から射す光は、雪の表面を金色に染めている。冷たい風の中に、春の匂いがわずかに混じった。


 三十日。そのうちの数日が過ぎた。敵は動き出した。南も動いている。上杉の目も、湊を見ている。


 会津の闘いの底で、誰が蠢いているのか。南の影は、どこまで光を照らせるのか。そして、湊はどこまで立ち続けられるのか。


 答えはまだ遠い。だが、進むしかなかった。


 湊は雪を踏みしめ、ゆっくりと歩き出した。その足取りは確かで、迷いはなかった。


 会津の風が、静かに背中を押していた。

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