表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

91/102

90話: 雪解けの兆し、北より届く影

雪雲の隙間から朝日が差し込み、会津の町に淡い光を投げかけていた。


 溶けきらぬ雪が屋根に残り、街道には細い水脈が幾筋も走っている。湊は宿の戸口に立ち、ゆっくりと息を吐いた。白い呼気が冷たい空気に溶けていく。南との協議が終わり、三十日の期限が動き出したその翌朝である。


 脇腹の傷はまだ疼くが、昨日ほどではない。浅香が丁寧に巻き直してくれた包帯が、身体を起こすたびにその存在を確かに知らせる。痛みは残っているが、歩けぬほどではない。むしろ、この痛みが自分を現実に繋ぎ止めているような気さえした。


 胸の奥には緊張が残っていた。同時に、静かな確信も芽生えている。南は動く。だが、その動きをどう上杉の利益に結びつけるか。それが湊に課された役目であり、最も難しい部分だった。


 景勝から与えられた三十日。その最初の一歩を踏み出す日だ。南の者たちはまだ湊を完全には信じていない。朔夜の目は、きっと今もどこかから湊を追っている。昨日の決着は始まりに過ぎなかった。


 今日やるべきことは明確だった。山上道及に南の件を報告し、情報の中継役としての体制を整える。南が集めた情報を、どのような形で上杉に届けるか。その仕組みを作らなければならない。


 宿の入り口で足音がした。振り返ると、八代が槍を肩に担ぎながら近づいてくる。眠気を押し込めるように大きく背伸びをしたあと、湊に声をかけた。


「湊、歩けるか」


「だいぶ楽になったよ。昨日ほど痛くはない」


「そうか。まあ、無茶はすんなよ」


 その横から、浅香が静かに歩み寄った。


「湊様。傷の具合は」


「大丈夫だよ。心配かけてすまない」


「心配するのは当然のことです。決して無理はされませんよう」


 浅香の声は柔らかいが、芯は強い。彼は湊の一挙一動を注意深く見守りながら、僅かに歩調を合わせた。


            ◆


 三人は宿を出て、雪の残る道を歩き始めた。


 会津の街は静かに目覚めつつあった。朝靄が薄く漂い、軒先から垂れる氷柱が陽光を受けて煌めいている。屋根から落ちた雪の塊が道端に小さな山を築き、その合間を縫うように人々が行き交っていた。


 行商人が荷を担いで通り過ぎ、井戸端では女たちが朝の支度をしながら言葉を交わしている。子供たちが雪を蹴りながら駆け回り、その笑い声が冷たい空気に響いた。


 街を抜け、山上道及の屋敷へ向かう道を進む。次第に人家が途切れ、木々が増えていく。足元の雪も深くなり、踏みしめるたびにきゅっと音が鳴った。


 その時だった。


 山沿いの小道を折れた瞬間、木立の奥から軽い足音が近づいてきた。湊はわずかに身構えた。南の者か、それとも別の何かか。


 姿を現したのは、朔夜だった。


 黒い羽織に薄い雪をまとい、気配を消すように歩み寄ってくる。その眼差しは昨日よりも尖りがなく、しかし油断のない鋭さを保っていた。


「湊。今日の動きを伝えに来た」


「早いな。もう動いてくれているのか」


「当然だ。三十日は短い。悠長に構えてはいられない」


 朔夜の声はいつものように冷静だったが、その奥には任務の重さを理解した者の落ち着きが宿っていた。


            ◆


「それで、何かあったのか」


 湊が問うと、朔夜は一度周囲を見回してから口を開いた。


「昨夜、庄内方面から妙な報せが届いた」


 庄内。上杉の北方の要地であり、酒田港を抱える海運の拠点だ。だがそこは同時に、密貿易や海賊が最も活発に動く場所でもあった。


「どんな報せだ」


「酒田の港に、見慣れぬ船が寄った。入港の届けもない。しかも、港の役人は口を閉ざしている」


「口を閉ざしている」


「ああ。誰かに金を握らされたか、上からの命令か。そのどちらかだ」


 浅香がわずかに眉を寄せた。


「敵対勢力の密偵、あるいは海賊の可能性もございます」


「海賊か。倭寇の残党という線もあるな」


 朔夜は頷いた。


「可能性としては低くない。だが、我らでも港の内情まではまだ掴めていない。庄内は伊達との国境に近いだけでなく、商人の出入りが激しい。影が潜り込みやすい場所でもある」


 八代が腕を組んだ。


「で、湊。どうするよ。これ、南の働きとして景勝様に渡せそうか」


「渡せる。いや、渡すべきだ。これは上杉にとって大きな関心事だ。港が乱れれば国が乱れる。景勝公も警戒しているはずだ」


 朔夜が静かに告げた。


「我ら南は庄内に人を送る。港の裏路地、倉庫、船宿。複数の者を潜らせ、二日以内には詳しい情報を届ける」


「ありがとう。助かる」


「礼はいらない。これは我らの役目だ」


 短い沈黙が落ちた。木々の間を風が吹き抜け、枝に積もった雪がはらはらと舞い落ちる。


 朔夜が再び口を開いた。


「湊。言っておくが、まだ信じたわけではない」


「分かっているよ」


「だが、昨日の姿は見た。あれだけの状況で折れなかった。それを見た以上、俺はお前の言葉を無視することはできない」


「朔夜」


「南の頭領も同じだ。お前を試している。だが同時に、お前に賭けてもいる」


 その言葉は、昨日頭領が言ったことと重なっていた。試している。だが、賭けてもいる。その二つの意味を、湊は胸の奥で噛み締めた。


「庄内の件は我ら南が動く。湊、お前は山上道及に報せを届けろ。そして、景勝公の判断を仰げ」


「分かった」


「無理はするなよ」


 朔夜がそう言った瞬間、その声がほんのわずかだが柔らかくなった気がした。次の瞬間にはもう、彼は視線をそらし、木立の中へと姿を消していた。


            ◆


 朔夜が去ったあと、湊はしばらくその場に立ち尽くしていた。


 胸の奥に、小さな熱が灯っている。それは不安を押し流すのではなく、不安と共に進むための力になる熱だった。


 南は動いた。庄内という具体的な場所で、具体的な情報を集め始めている。それは抽象的な約束ではなく、実体のある一歩だった。


 浅香が静かに口を開いた。


「湊様。南の者たちの動き、驚きました」


「僕もだよ。あんなに早く動いてくれるとは思わなかった」


「彼らは確かに湊様を試している。ですが同時に、湊様に期待もしているように見えました」


 期待。その言葉が胸に沁みた。


 裏切られてきた者たちが、百年の闘いに沈んでいた者たちが、初めて誰かに期待を寄せる。その相手に自分が選ばれている。責任の重さはある。だが、それ以上に、胸の内に灯る小さな火があった。


「南を守るためにも、成果を上げるしかない」


 湊は自分に言い聞かせるように呟いた。


 八代が槍の柄を軽く叩いた。


「じゃあよ、腹はくくれたか」


「とっくにくくってるよ」


「ならいい。山上殿のところへ行こうぜ」


 三人は再び歩き始めた。山上の屋敷へ向かう道は、まだ雪に覆われている。だが、その雪の下では、確かに土が春を待っている。


 湊はそんなことを思いながら、足を前へ進めた。


            ◆


 山上道及の屋敷に着くと、玄関先には家臣が二名控えていた。湊の姿を見ると、静かに頭を下げる。


 通された座敷には、山上がすでに膝を正していた。穏やかだが気迫を秘めた眼差しが湊を迎える。その横には書記役が控え、硯の準備を整えていた。今日の話はすぐ景勝のもとへ上がるのだろう。


 湊は深く礼をして座に着いた。


「昨夜の南との協議、そして今朝の動きについて、報告をお願いしたい」


 山上の声は平静で、しかし湊の言葉を逃すまいと耳を澄ましている。


「南は動きました。今朝、庄内の酒田港に不審船が入ったとの報せを得ました」


「酒田か」


 山上の眉がわずかに動いた。


「港の役人は沈黙しているとのことです。上からの圧力か、あるいは買収か。南は庄内に人を送り、詳細を探ります。二日以内には、より確かな情報が届くはずです」


「なるほど。それは確かに看過できぬ動きだな」


 山上は静かに頷いた。


「景勝公が求めるのは、小さくとも確実な成果だ。その初手としては申し分ない」


 湊は胸の奥でほっと息をついたが、その表情には出さなかった。


「湊殿。南を動かせたこと、それ自体がすでに異例だ。だが、彼らの情報が実際に国の役に立つとなれば、景勝公もそなたの働きを無視できまい」


「そのために、南の働きを整え続けます」


「うむ。だが気を付けよ。これが噂として広まれば、中には快く思わぬ者も出よう。家中には影という言葉を嫌う者も少なくない」


「承知しています。だからこそ、私は表に立ち、南は裏に回る。功は私に、実は南に。その形で進めます」


 山上は湊を見つめ、しばし沈黙した。そして微かに笑みを浮かべた。


「若いとは、こうでなければな」


            ◆


 屋敷を出ると、昼の光が雪を照らして眩しかった。


 湊は庭を抜けながら、冷たい風を受け、わずかに目を細めた。胸の奥に小さな重石が置かれたような感覚がある。それは緊張ではなく、責任のかたちをした重さだった。


 南は動いた。山上への報告も終えた。あとは、庄内からの続報を待ち、それを景勝に届ける。三十日の期限は始まったばかりだが、歯車は確かに回り始めている。


 浅香が隣に並んだ。


「湊様。山上殿の反応、悪くありませんでしたね」


「ああ。でも、ここからが勝負だ。南の情報が正確でなければ、逆に首が飛ぶ。僕も、彼らも」


「南はあなたの言葉に応じました。彼らが精一杯動くなら、あなたも精一杯動けばよい。それで道は開けます」


 その確信に満ちた声が、胸の内の揺らぎを少しだけ和らげた。


 八代が大きく息を吐いた。


「一歩前進ってやつだな。よかったじゃねえか」


「ああ。でも、まだ一歩だ」


「一歩でいいんだよ。千里の道も一歩からってな」


 湊は思わず笑った。八代の言葉はいつも単純だが、だからこそ芯を突いている。


 三人は街へ戻る道を歩き始めた。雪解けの水が光を反射し、木々の枝から滴が落ちている。空は高く、雲は薄い。冬の終わりを告げる風が、静かに吹き始めていた。


 湊は空を見上げた。


 三十日後、この街はどう変わっているだろうか。南はどうなっているだろうか。そして、自分は。


 答えはまだ分からない。だが、進むしかない。


 南の未来を賭けた一歩。そして、自分の未来を決める一歩。その両方を、今日踏み出した。


 足取りは重くない。むしろ、胸の奥に灯った熱が身体を前へ押し出していた。


 湊は歩き続けた。傷はまだ痛むが、心は定まっている。


 会津の空は高く、春を待つ風が、静かに街を包み始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ