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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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89話: 影の掟、ほどける夜

南との話し合いから一夜が明けた。


 湊は宿の戸を開け、ひんやりとした空気を胸いっぱいに吸い込んだ。夜明け前に降った細雪が屋根に白く残り、陽が昇るにつれてゆっくりと溶けていく。脇腹の傷はまだ疼き、深く息をすると鈍い痛みが走る。それでも歩けぬほどではない。昨夜浅香が丁寧に巻き直してくれた包帯は堅く締まり、身を起こすたびにその存在を確かに知らせた。


 今日動かねばならない。景勝から与えられた三十日の期限。その最初の一歩を踏み出す日だ。南の者たちはまだ湊を完全には信じていない。朔夜の視線は、きっと今もどこかから湊を追っている。昨日の決着は始まりに過ぎなかった。


 湊は空を見上げた。雲の切れ間から薄い陽光が差し込み、会津の街を淡く照らしている。冬の名残はまだ濃いが、確かに季節は動いている。その動きに自分も乗らなければならない。


 三十日。その間に、南が上杉の役に立つことを証明する。失敗すれば、南は切り捨てられる。湊自身も、上杉の中での居場所を失う。景勝ははっきりとそう言った。


 だが、退く気はなかった。退けば何も変わらない。南は影のまま、会津は分断されたまま、上杉は根を張れないまま。そんな未来を、湊は望まなかった。


 宿の入り口で八代が槍を抱えながら声をかけてきた。夜の見張りを終えたばかりなのだろう、髪にうっすらと疲れが張り付いているが、笑みはいつも通りだ。


「湊、歩けるか」


「動けるよ。鈍く痛むけど、大丈夫」


「昨日の今日だぜ。無茶はすんなよ」


            ◆


 会津の街は静かに目覚めつつあった。


 朝靄が薄く漂い、軒先から垂れる氷柱が陽光を受けて煌めいている。石畳には雪解け水が細い筋を作り、屋根から落ちた雪の塊が道端に小さな山を築いていた。行商人が荷を担いで通り過ぎ、井戸端では女たちが朝の支度をしながら言葉を交わしている。子供たちが雪を蹴りながら駆け回り、その笑い声が冷たい空気に響いた。


 湊たちは宿を出て、まだ雪の残る道を歩き始めた。浅香が静かに隣に並び、湊の歩き方をじっと観察している。


「深手ではございませんが、決して油断は禁物です。今日の場は言葉で済むはずですが、それでも身構えておかねばなりません」


「今日は刃を交える必要はないはずだよ」


「ないはずではなく、そのように運ぶのです」


 その言葉に、湊は自然と背筋を伸ばした。浅香の声は柔らかいが、芯が強い。昨日の戦いで誰よりも湊の傷を案じ、誰よりも動揺していた男が言うのだから重い。


 街を抜けると、道は次第に細くなっていく。人家が途切れ、木々が増え、足元の雪も深くなった。息が白く立ち上り、頬を刺す冷気が意識を研ぎ澄ませる。


 目指すのは街外れの古い蔵だ。人目につきにくく、道も細い。昨日の地下と違い、陽光が差し込む場所だが、周囲には静謐な空気が満ちていた。山上道及が南との仲立ちとして場を整えてくれた。


 蔵が見えてきた。古びた板壁に苔が生え、屋根には雪が厚く積もっている。周囲に人の気配はないが、どこかで見られているような感覚がある。南の者たちが、すでに配置についているのだろう。


 八代が小声で言った。


「あいつら、もう来てるな」


「ああ。気配がある」


「敵意は……薄いな。昨日とは違う」


 浅香が頷いた。


「見定めようとしているのでしょう。湊様が本当に約束を果たすのかどうか」


 湊は蔵の戸の前に立ち、深く息を吸った。ここからが本当の勝負だ。


            ◆


 蔵の戸を叩くと、内側から低い声がした。


「湊か」


「そうだ」


 戸が開くと、南の頭領が姿を現した。昨日よりも顔色が良い。深手ではないとはいえ、湊の一撃は確かに彼を追い込んだ。しかしその表情には疲労よりも、新たな覚悟の色が強く見えた。


「入れ」


 蔵の中には朔夜を含む数人の影がいた。昨日と違い、覆面は外され、顔が露わになっている。その視線にはまだ警戒があったが、敵意は薄れていた。


「湊」


 南の頭領が口を開いた。


「景勝公は、我らを使うと言ったのか」


「使うとは言っていない。役目を与えると言った。三十日の猶予をくれた」


「三十日か。短いな」


「短い。だが、そのぶん確実に成果を出せる」


 朔夜が前に出た。黒い瞳が湊をまっすぐ射抜く。


「その三十日で、我らは何をすればいい」


「会津全域の動きを探る。まずは城下の噂や不満、旅人の流れ、商人の出入り。敵の密偵が紛れ込んでいれば、その足跡も。南の耳が最も生きるところから始める」


「それだけか」


 朔夜の声には不満が滲んでいた。


「南の力はそれだけではない。もっと直接的に動けと言われれば、動ける」


「分かっている。だが、最初の一歩にはそれで十分だ」


「なぜだ」


「表に出るには、段階を踏まなきゃいけない。最初から大きく動けば、上杉の家臣たちに恐れられる。影を味方につけた人間として、俺が排除される可能性もある」


 朔夜は眉をひそめた。


「お前が排除されれば、我らはどうなる」


「だから、小さく始めて、確実に積み重ねる。俺たちは敵じゃないってことを示す必要があるんだ」


 南の頭領が腕を組んだ。


「理に適っている。だが、我らが動いた証は誰が景勝公に伝える」


「俺が伝える。窓口はすべて俺だ」


「危険ではないのか」


「危険だ。でも、これしかない」


 沈黙が落ちた。


 蔵の奥で、年配の男が静かに立ち上がった。白髪が混じり、顔には深い皺が刻まれている。南の長老格だろう。


「湊とやら」


「はい」


「お前は本当に馬鹿なのか」


 その言葉に、蔵の空気が一瞬張り詰めた。だが、老人の声には敵意がなかった。


「百年、影に沈んでいた我らを、表に引き上げる気でいる者など、初めて見た」


「引き上げるんじゃない。一緒に歩くんだ」


「同じことだ」


 老人はゆっくりと湊に近づいた。


「蘆名に追われ、伊達に利用され、蒲生に蔑まれた。上杉も同じだと思っていた。だが、お前は違うのか」


「違うかどうかは、これから証明する。言葉だけじゃ信じられないだろう」


「その通りだ」


 老人は深く頷いた。


「だが、言葉を吐く覚悟だけは本物のようだ。見届けてやる」


 南の頭領が膝に手を置き、低く告げた。


「湊。ここからが、本当の勝負だ」


「分かっている」


「南は動く。だが、裏切れば容赦はせぬ」


「裏切らない」


「信じるとは言わぬ。見届けると言っている」


「それでいい」


 朔夜が歩み出て、湊の前に立った。


「俺も見届ける。三十日、お前が何をするか」


「ああ。見ていてくれ」


「言っておくが、俺はまだ信じていない」


「知っている」


「だが、頭領が決めた以上、従う。それが南の掟だ」


 朔夜の目には、まだ疑念が残っていた。だが、憎悪の色は消えている。それだけで、昨日からの大きな変化だった。


            ◆


 具体的な段取りが決まっていった。


 南の者たちは会津全域に散らばり、それぞれの持ち場で情報を集める。城下の商人、旅籠の主人、寺社の僧侶、街道を行き交う旅人。あらゆるところに南の耳がある。それを束ね、整理し、意味のある形にして湊に届ける。湊はそれを精査し、必要なものだけを山上を通じて上杉に伝える。


 南の存在は表に出さない。すべては湊個人の功績として扱われる。それが南を守る方法であり、同時に湊を危険に晒す方法でもあった。


 浅香が静かに言った。


「湊様。あなたは、お一人で背負われすぎてはいませんか」


「そんなつもりはないよ。みんながいるし、君たちも支えてくれている」


「ですが、南の者たちにとっては、あなたが唯一の橋なのです。落ちれば、皆が落ちます」


 その言葉の重さを、湊は噛み締めた。


 自分が倒れれば、南との繋がりは切れる。南は再び影に沈み、上杉は会津の深部を失う。すべてが元に戻る。いや、元より悪くなるかもしれない。


 だが、それでも進むしかない。


「大丈夫だよ。落ちないように、みんなで支え合うしかない」


「ええ。お支えいたします」


 浅香の声には、静かな決意が込められていた。


 八代が槍を肩に担ぎ、笑った。


「まあ、難しいことは分からねえけどさ。湊が動くなら、俺も動く。それだけだ」


「ありがとう、八代」


「礼なんかいらねえよ。生きて帰ってきたら、酒でも奢れ」


「分かった。約束する」


 湊は蔵の中を見回した。南の者たちは、それぞれの持ち場へ散る準備を始めている。朔夜は最後まで湊を見つめていたが、やがて小さく頷いて姿を消した。


 南の頭領が近づいてきた。


「湊。一つだけ言っておく」


「何だ」


「我らは、お前を試している。だが同時に、お前に賭けてもいる」


「賭ける、か」


「百年、誰も我らに手を差し伸べなかった。お前が最初だ。だから、賭ける価値がある」


 その言葉は、湊の胸に深く沈んだ。


 南は試している。だが、同時に期待もしている。その期待を裏切れば、すべてが終わる。だが、応えることができれば、会津は変わる。


            ◆


 蔵を出ると、陽光が眩しかった。


 雪解けの水が光を反射し、木々の枝から滴が落ちている。空は高く、雲は薄い。冬の終わりを告げる風が、静かに吹き始めていた。


 湊は深く息を吸った。冷たい空気が肺を満たし、張り詰めていた緊張が少しずつほどけていく。同時に、新たな重さが肩にのしかかる。三十日という期限。南の期待。上杉の視線。そのすべてを背負って、これから歩かなければならない。


 だが、不思議と恐怖はなかった。


 昨日までの湊なら、この重さに押し潰されていたかもしれない。だが、南の頭領と刃を交え、景勝の前で言葉を交わし、朔夜の疑念を受け止めた。その経験が、湊を少しだけ強くしていた。


 強くなったというより、覚悟が定まったというべきかもしれない。


 折れないこと。それが、南の頭領が見た湊の強さだった。型もなく、技もなく、それでも立ち続ける。その意志だけが、湊を支えている。


 浅香が隣に並んだ。


「どこへ向かいますか」


「まずは山上殿のところへ。今日の結果を報告する」


「承知しました」


 八代が槍を担ぎ直した。


「よし、行くか。腹も減ったしな」


「お前は本当に、いつでも腹が減ってるな」


「生きてる証だろ」


 その軽口に、湊は思わず笑った。


 三人は雪解けの道を歩き始めた。街外れから城下へ、そして山上の屋敷へ。その道のりは長くはないが、湊にとっては新たな旅の始まりだった。


 南と共に、会津を変える。その第一歩を、今日踏み出した。


 まだ何も成し遂げていない。だが、動き始めた。それだけで、昨日までとは違う。


 湊は空を見上げた。雲の切れ間から、陽光が差し込んでいる。その光が、雪解けの街を温かく照らしていた。


 三十日後、この街はどう変わっているだろうか。南はどうなっているだろうか。そして、自分は。


 答えはまだ分からない。だが、進むしかない。


 湊は歩き続けた。足取りは確かだった。傷はまだ痛むが、心は定まっている。


 会津の空は高く、春を待つ風が、静かに街を包み始めていた。

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