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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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8話:言葉が折れる日

北の村での争いを収めてから、数日が過ぎた。


 湊はそのあいだも城下の巡察を続けていた。

 商人の声、職人の嘆き、農民の不安――

 どの言葉も紙に落とし、夜ごとまとめては直江兼続に提出する。


 ある朝、書院で兼続から新たな命が下った。


「清原。南の用水筋で、不穏な話がある」


「用水、ですか?」


「会津古来の村と、越後から移った村の双方が、

 同じ川筋を“自分たちのものだ”と言い張っておるらしい」


 兼続は、畳の上に一枚の粗い地図を広げた。

 川が一本、南から北へと流れ、その左右にいくつかの村名が記されている。


「上流に越後村、下流に会津村。

 雪解けのこの時期、用水の分け方は命に関わる。

 今、ささいな火種でも放っておけば、夏には大きな争いになる」


「……行って、話を聞いてまいります」


「うむ。ただし――」


 兼続は目を細めた。


「前の北の村とは違う。

 ここは、会津古参の家々の利害も絡む。

 ゆえに、お前ひとりの言葉では収まらぬやもしれぬ」


 それでも、と兼続は続ける。


「お前の目で見てこい。

 そして“何が起きているか”を、まっすぐに報告せよ。

 解けぬ結び目もある。だが、見ぬふりだけは許さぬ」


「……承知しました」



 城を出ると、空は薄曇りだった。

 高いところに細い雲がひと筋かかり、ゆっくりと流れている。

 雨ではないが、空気に重みがある。


 南の用水筋までは、城下から歩いて一刻ほど。

 道すがら、湊は何度も地図を確かめた。


(上流に越後村、下流に会津村……

 水の取り分を巡って争いになるのは、この時代なら当然だ)


 日本史の講義で聞いた、村同士の水争いの話が頭をよぎる。

 だが、教室で聞いた話と、今から向かう現場は次元が違う。


(教科書の中では、誰も怒鳴らないし、誰も殴られない。

 でも、ここでは違う)


 隣を歩く弥藤が、ふいに口を開いた。


「清原」


「はい」


「今日のことは、上へも下へも尾ひれがついて伝わるだろう。

 『直江の若造が口を出して失敗した』となれば、お前だけでは済まぬ」


 脅しではない。

 ただの事実の確認だ。


「怖いか?」


「……怖いです」


 湊は正直に答えた。


「でも、だからこそ逃げたくありません。

 誰かが見て、誰かが伝えないと、

 “何が起きているか”すら分からなくなってしまうから」


 弥藤は小さく笑った。


「そう言えるうちは、まだ折れておらぬということだ」



 やがて、一帯を潤す用水路が見えてきた。

 雪解け水を含んだ水が、軽い音を立てて流れている。

 その両側に、二つの村が向かい合うように広がっていた。


 上流側の田んぼには、越後から移った農民たちの姿。

 下流側には、会津古来の農民たち。


 その中ほど――用水路の分岐点と思しき場所に、人だかりができていた。


「……嫌な気配だな」


 弥藤が足を速める。

 湊もその後を追った。



「お前らが水をせき止めてるせいで、こっちの田が干上がりかけてるんだ!」


「何を言う!

 昨年決めた取り決めでは、この時間までは上流側が多く取ってよいはずだ!」


「そんなの、越後の連中が勝手に決めた話だろうが!」


 互いに頭に布を巻いた農民たちが、棒切れを手に、用水路の土手で睨み合っていた。

 足元の泥には、誰かが転んだらしい形跡と、嫌な色のしみがわずかに残っている。


(……もう、手が出たあとだ)


 湊は息を吸い、声を張った。


「皆さん、落ち着いてください!」


 視線が一斉にこちらを向く。


「どなたです?」


「城から来たのか?」


「上杉様の人間か、それとも――」


 疑いと苛立ちが混ざった視線。

 昨日までの城下とは、空気が違う。


「上杉家の巡察役、清原湊と申します。

 直江兼続様の命を受け、この用水のことを伺いに参りました」


 名を名乗って頭を下げると、一瞬だけざわめきが静まった。

 だが、そのすぐ後に、誰かが吐き捨てるように言った。


「また“直江様の若い衆”かよ」


「紙と筆で世が治まると思ってる口だろう」


「北の村をうまく収めたって話の、あの若造か?」


 どうやら、噂はすでに広がっているらしい。

 それが湊の味方になるのか、敵になるのかは分からない。


「まず、お話を聞かせてください」


 湊は、上流側と下流側、それぞれの代表らしき男たちの前に歩み出た。



 越後側の代表は、四十手前ほどの精悍な男だった。

 日に焼けた顔に、深い皺が刻まれている。


「上流の田を預かる、庄左しょうざと申します」


 会津側の代表は、五十代半ばほどの、いかつい顔つきの男。


「下流の田を守る、三郎右衛門だ」


 どちらも、村の空気の重さをそのまま背負ったような男たちだ。


「取り決めは、昨年の夏、役所の者を交えて決めた。

 雪解けと田植えの時期だけ、上流を少し多く取る。

 その代わり、秋には下流の取り分を増やす。

 そういう話だったはずだ」


 三郎右衛門が唸るように言った。


「だが今年は、上で堰を閉める時間が昨年より長くなっておる。

 このままでは、苗が枯れる」


「そちらこそ、去年より田を広げたではないか」


 庄左が即座に反論する。


「会津の古い家が畑だったところを田に替えたくせに、“去年と同じ取り分”で通ると思うな」


「元々この地を守ってきたのは、わしら会津の者だ。

 越後の田より、先に守られるべきはこっちの田だろうが!」


 声の熱が、じりじりと高まっていく。


(両方の言い分とも、分かる……

 どちらか一方が間違いという話じゃない)


 湊は、必死に頭を回転させた。


「皆さん。

 まず、今ある取り決めを、私にも見せていただけますか?」


 庄左と三郎右衛門は、互いに不満そうにしながらも、

 昨年交わされたという板札と紙切れを持ってきた。


 それを受け取ると、湊は地図と照らし合わせながら、慎重に目を通した。


(……やっぱり)


 紙に残された文言は曖昧だった。

 「雪解けの期間」「田植え前後」「上流を優先」――

 肝心の時間や日数が明確ではない。


(これじゃあ、解釈の違いでいくらでも揉める)


「取り決め自体に、曖昧なところがあります。

 ですから、ここで争っても――」


「“取り決めが悪い”と言うのか?」


 三郎右衛門の目が険しくなった。


「それは、役所がいい加減だったと言いたいのか?」


「い、いえ、そういうわけでは――」


 言いかけたところに、庄左が言葉をかぶせてくる。


「ということは、越後の者が悪いわけでもない、ということか?

 だが現に、下流の田が干上がりかけているのは――」


「上の者がきっちり水を止めていないからだ!」


 二人の視線が、今度は湊ではなく互いに向かった。


 湊は慌てて言葉を挟む。


「待ってください。

 今、責める相手を決めても、用水の水は増えません。

 必要なのは、今年の分け方を“今ここで”決め直すことで――」


「言うは易いわ!」


 三郎右衛門の怒声が、堤の上に響いた。


「若造、あんたはこの地で何年、田を見てきた?

 雪の重みを知っておるのか?

 水が一日足りぬだけで苗がどうなるか、自分の目で見たことがあるのか!」


「……それは……」


 湊の喉が詰まった。


 教科書でなら、何度も読んだ。

 講義でも聞いた。

 だが、この場所で、目の前の人間にそう問われると――

 その知識は、ひどく頼りなく思えた。


「それにな」


 庄左も、不機嫌そうに口を開く。


「越後の田は、今年が二年目だ。

 雪の降り方が去年と違えば、取れる米の量も変わる。

 紙の上だけで去年と同じ分け方を決められては、かなわんな」


「だからといって、上が好き勝手に取っていい理屈はない!」


 二人の声がぶつかり合い、周りの農民たちもそれぞれに声を上げ始める。


「下に水が来なきゃ、うちは終わりだ!」


「こっちだって、去年の分を取り戻さなきゃやっていけねぇんだ!」


「城の若い衆が来たところで、腹は膨れねぇ!」


 怒号が、湊の鼓膜を打った。

 頭の中が、真白になる。


(どうすれば――)


 北の村では、声を聞き、境界の文書を見せ、

 「責任は自分が取る」と言うことで、どうにか収めることができた。


 だが、ここでは同じ手が通用しない気配があった。


 水は、待ってくれない。

 田植えの時期も、待ってくれない。

 曖昧な取り決めのままでは、人の暮らしそのものが危うくなる。


(何か、糸口は――)


 必死に頭を働かせていると、不意に誰かが叫んだ。


「見ろ! また上で堰を絞ってやがる!」


 視線が一斉に用水路の上流に向いた。

 そこでは、越後の若い農民が、必死の形相で木の板を押さえている。


「違う! 水の勢いが強すぎるから、土手が崩れそうなんだ!」


「嘘をつくな!」


「この前だって、そう言いながら自分の田にだけ多く流しただろうが!」


 誰かが泥を蹴り上げ、誰かが肩を押した。

 小さな動きだったはずなのに、その場の均衡は一気に崩れた。


「やめてください!」


 湊の声は、怒号にかき消された。


 棒が振り上げられ、誰かが倒れる。

 泥の中で足がもつれ、押し合いが殴り合いに変わる。


「やめろ! やめろったら!」


 湊は人垣の間に身をねじ込んだ。

 泥が袴に跳ねる。

 誰かの肘が頬に当たり、鈍い痛みが走った。


 視界の端で、人が倒れ、うめき声を上げる。


(止めなきゃ――)


「やめろッ!」


 叫びながら手を伸ばしたとき、逆に誰かに強く押し返された。

 足が滑り、湊は尻から泥の中に倒れ込んだ。


 冷たい水と泥が、背中から一気に染み込んでくる。


「清原!」


 遠くで、弥藤の声が聞こえた。


 だが、その声が届くより先に、

 争いの渦は、湊の手の届かないところへ広がっていった。

泥に倒れ込んだ湊の耳に、争いの怒号が渦を巻くように響いた。

 殴り合い、叫び声、板の折れる音、誰かの泣き声。

 冷えた水と泥の感触だけが、妙に鮮明だった。


(止められなかった……)


 北の村とは違う。

 今回は、湊の声は誰にも届かなかった。

 人と人の間に割って入るだけの力も、威光もなかった。


「清原、下がれ!」


 弥藤が湊の腕を掴み、無理やり人垣から引き剝がす。

 その手にも泥が飛び散っている。


「これ以上は危ない。弁慶でも無理だ」


「でも、止めないと……!」


「止まらん。今は無理だ」


 短く言い切られ、湊は返す言葉が見つからなかった。



 やがて、村の長老たちが駆けつけ、乱闘はようやく収束した。

 しかしその場に漂った空気は、怒りと不信と疲労が濁った泥のように重かった。


「……帰れ」


 三郎右衛門が、どす黒い声で言った。


「城の若い衆が何しに来ようが、もう遅ぇ。

 田のことは田の者が決める。あんたにゃ無理だ」


 言葉は刃だった。

 息を吸うのも痛むほど、胸に刺さった。


 庄左も、険しい目つきで言う。


「直江様に伝えろ。

 取り決めが曖昧だったのが悪い。

 今年の分け方は、こちらで話し合う」


 “お前はもういらない”――

 そう言われているのと同じだった。


 湊は、絞った声で答えた。


「……承知しました」


 何とか立ち上がり、深く頭を下げる。

 泥が膝に張りつき、重くて上がらない。


(自分は、何もできなかった)


 その事実だけが、心に残った。



 城へ戻る途中、湊はほとんど口を開かなかった。

 弥藤も何も言わない。

 沈黙は、責めているのではなく、理解しているからこそ深かった。


「清原」


 ようやく、弥藤が口を開く。


「悪いが、今日のことは……上に厳しく報告せねばならん」


「……はい」


「お前に責任があるわけじゃない。

 ただ、“収まらなかった”という事実だけは曲げられん」


「分かってます」


 声が震えたが、湊は唇を噛んで抑えた。


(自分の言葉が、誰にも届かなかった……

 そんな報告を、兼続さんにするのか)


 胸が重く、苦しかった。



 直江家屋敷に戻ると、兼続は書院にいた。

 水争いの報せはすでに耳に入っていたらしい。


「戻ったか」


 湊は畳の上に膝をつき、深く頭を下げた。


「……争いを止められませんでした。

 双方の代表と話しましたが、言葉が届く状況ではありませんでした。

 取り決めの文にも曖昧な点が多く、それが火種に……」


「うむ。そこまでは聞いておる」


 兼続の声は冷たくはなかった。

 だが、静かで、重かった。


「清原」


「……はい」


「今日のことを、どう思う」


 湊は迷った。

 “自分は至らなかった”とだけ言うのは簡単だった。

 でも、それでは逃げになるような気がした。


 だから、正直に答えた。


「……怖かったです。

 どちらも必死で、どちらも間違っていない。

 僕の言葉では、誰も止まらなかった。

 紙の知識では、何も動かせませんでした」


 兼続は湊を見つめ、静かに言った。


「それが“現場”だ」


「――」


「紙に書かれた法は、世を治めるための道具にすぎん。

 人の怒り、人の不安、人の暮らし――

 それらを知らねば、法は生きぬ。

 今日お前が味わったのは、まさにその重みだ」


 湊は拳を握りしめた。


「……僕では、足りませんでした」


「足りぬのは当然だ」


 兼続の言葉が、湊の動きを止める。


「お前はまだ二十一。

 会津の民を何十年も見てきたわけではない。

 むしろ、今日のように“届かなかった日”からこそ、学ぶものがある」


 言葉は厳しくもあたたかかった。


 だが次の一言は、鋭かった。


「ただし――“直江の名”を背負う者が、今日のように無力であってはならぬ。

 このままでは、清原よ、お前はただの『若い巡察役』で終わる」


 胸に刺さる。


「立ちたいなら、立て。

 学びたいなら、泥の中を歩け。

 今日の失敗を、“ただの失敗”で終わらせるな」


 湊は深く頭を下げた。


「……はい」



 部屋に戻ると、泥に汚れた衣が重く肌に張りついた。

 畳に座り込むと、手が震えているのに気づいた。


(今日は……完全に、負けた)


 自分の力のなさが、嫌というほど分かった。


(でも――)


 悔しい。

 情けない。

 逃げたい。


 その全部を飲み込みながら、湊は膝を抱え、小さくつぶやいた。


「……負けたままでは終われない」


 その声は弱かったが、かすかに震える光を宿していた。

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