8話:言葉が折れる日
北の村での争いを収めてから、数日が過ぎた。
湊はそのあいだも城下の巡察を続けていた。
商人の声、職人の嘆き、農民の不安――
どの言葉も紙に落とし、夜ごとまとめては直江兼続に提出する。
ある朝、書院で兼続から新たな命が下った。
「清原。南の用水筋で、不穏な話がある」
「用水、ですか?」
「会津古来の村と、越後から移った村の双方が、
同じ川筋を“自分たちのものだ”と言い張っておるらしい」
兼続は、畳の上に一枚の粗い地図を広げた。
川が一本、南から北へと流れ、その左右にいくつかの村名が記されている。
「上流に越後村、下流に会津村。
雪解けのこの時期、用水の分け方は命に関わる。
今、ささいな火種でも放っておけば、夏には大きな争いになる」
「……行って、話を聞いてまいります」
「うむ。ただし――」
兼続は目を細めた。
「前の北の村とは違う。
ここは、会津古参の家々の利害も絡む。
ゆえに、お前ひとりの言葉では収まらぬやもしれぬ」
それでも、と兼続は続ける。
「お前の目で見てこい。
そして“何が起きているか”を、まっすぐに報告せよ。
解けぬ結び目もある。だが、見ぬふりだけは許さぬ」
「……承知しました」
◆
城を出ると、空は薄曇りだった。
高いところに細い雲がひと筋かかり、ゆっくりと流れている。
雨ではないが、空気に重みがある。
南の用水筋までは、城下から歩いて一刻ほど。
道すがら、湊は何度も地図を確かめた。
(上流に越後村、下流に会津村……
水の取り分を巡って争いになるのは、この時代なら当然だ)
日本史の講義で聞いた、村同士の水争いの話が頭をよぎる。
だが、教室で聞いた話と、今から向かう現場は次元が違う。
(教科書の中では、誰も怒鳴らないし、誰も殴られない。
でも、ここでは違う)
隣を歩く弥藤が、ふいに口を開いた。
「清原」
「はい」
「今日のことは、上へも下へも尾ひれがついて伝わるだろう。
『直江の若造が口を出して失敗した』となれば、お前だけでは済まぬ」
脅しではない。
ただの事実の確認だ。
「怖いか?」
「……怖いです」
湊は正直に答えた。
「でも、だからこそ逃げたくありません。
誰かが見て、誰かが伝えないと、
“何が起きているか”すら分からなくなってしまうから」
弥藤は小さく笑った。
「そう言えるうちは、まだ折れておらぬということだ」
◆
やがて、一帯を潤す用水路が見えてきた。
雪解け水を含んだ水が、軽い音を立てて流れている。
その両側に、二つの村が向かい合うように広がっていた。
上流側の田んぼには、越後から移った農民たちの姿。
下流側には、会津古来の農民たち。
その中ほど――用水路の分岐点と思しき場所に、人だかりができていた。
「……嫌な気配だな」
弥藤が足を速める。
湊もその後を追った。
◆
「お前らが水をせき止めてるせいで、こっちの田が干上がりかけてるんだ!」
「何を言う!
昨年決めた取り決めでは、この時間までは上流側が多く取ってよいはずだ!」
「そんなの、越後の連中が勝手に決めた話だろうが!」
互いに頭に布を巻いた農民たちが、棒切れを手に、用水路の土手で睨み合っていた。
足元の泥には、誰かが転んだらしい形跡と、嫌な色のしみがわずかに残っている。
(……もう、手が出たあとだ)
湊は息を吸い、声を張った。
「皆さん、落ち着いてください!」
視線が一斉にこちらを向く。
「どなたです?」
「城から来たのか?」
「上杉様の人間か、それとも――」
疑いと苛立ちが混ざった視線。
昨日までの城下とは、空気が違う。
「上杉家の巡察役、清原湊と申します。
直江兼続様の命を受け、この用水のことを伺いに参りました」
名を名乗って頭を下げると、一瞬だけざわめきが静まった。
だが、そのすぐ後に、誰かが吐き捨てるように言った。
「また“直江様の若い衆”かよ」
「紙と筆で世が治まると思ってる口だろう」
「北の村をうまく収めたって話の、あの若造か?」
どうやら、噂はすでに広がっているらしい。
それが湊の味方になるのか、敵になるのかは分からない。
「まず、お話を聞かせてください」
湊は、上流側と下流側、それぞれの代表らしき男たちの前に歩み出た。
◆
越後側の代表は、四十手前ほどの精悍な男だった。
日に焼けた顔に、深い皺が刻まれている。
「上流の田を預かる、庄左と申します」
会津側の代表は、五十代半ばほどの、いかつい顔つきの男。
「下流の田を守る、三郎右衛門だ」
どちらも、村の空気の重さをそのまま背負ったような男たちだ。
「取り決めは、昨年の夏、役所の者を交えて決めた。
雪解けと田植えの時期だけ、上流を少し多く取る。
その代わり、秋には下流の取り分を増やす。
そういう話だったはずだ」
三郎右衛門が唸るように言った。
「だが今年は、上で堰を閉める時間が昨年より長くなっておる。
このままでは、苗が枯れる」
「そちらこそ、去年より田を広げたではないか」
庄左が即座に反論する。
「会津の古い家が畑だったところを田に替えたくせに、“去年と同じ取り分”で通ると思うな」
「元々この地を守ってきたのは、わしら会津の者だ。
越後の田より、先に守られるべきはこっちの田だろうが!」
声の熱が、じりじりと高まっていく。
(両方の言い分とも、分かる……
どちらか一方が間違いという話じゃない)
湊は、必死に頭を回転させた。
「皆さん。
まず、今ある取り決めを、私にも見せていただけますか?」
庄左と三郎右衛門は、互いに不満そうにしながらも、
昨年交わされたという板札と紙切れを持ってきた。
それを受け取ると、湊は地図と照らし合わせながら、慎重に目を通した。
(……やっぱり)
紙に残された文言は曖昧だった。
「雪解けの期間」「田植え前後」「上流を優先」――
肝心の時間や日数が明確ではない。
(これじゃあ、解釈の違いでいくらでも揉める)
「取り決め自体に、曖昧なところがあります。
ですから、ここで争っても――」
「“取り決めが悪い”と言うのか?」
三郎右衛門の目が険しくなった。
「それは、役所がいい加減だったと言いたいのか?」
「い、いえ、そういうわけでは――」
言いかけたところに、庄左が言葉をかぶせてくる。
「ということは、越後の者が悪いわけでもない、ということか?
だが現に、下流の田が干上がりかけているのは――」
「上の者がきっちり水を止めていないからだ!」
二人の視線が、今度は湊ではなく互いに向かった。
湊は慌てて言葉を挟む。
「待ってください。
今、責める相手を決めても、用水の水は増えません。
必要なのは、今年の分け方を“今ここで”決め直すことで――」
「言うは易いわ!」
三郎右衛門の怒声が、堤の上に響いた。
「若造、あんたはこの地で何年、田を見てきた?
雪の重みを知っておるのか?
水が一日足りぬだけで苗がどうなるか、自分の目で見たことがあるのか!」
「……それは……」
湊の喉が詰まった。
教科書でなら、何度も読んだ。
講義でも聞いた。
だが、この場所で、目の前の人間にそう問われると――
その知識は、ひどく頼りなく思えた。
「それにな」
庄左も、不機嫌そうに口を開く。
「越後の田は、今年が二年目だ。
雪の降り方が去年と違えば、取れる米の量も変わる。
紙の上だけで去年と同じ分け方を決められては、かなわんな」
「だからといって、上が好き勝手に取っていい理屈はない!」
二人の声がぶつかり合い、周りの農民たちもそれぞれに声を上げ始める。
「下に水が来なきゃ、うちは終わりだ!」
「こっちだって、去年の分を取り戻さなきゃやっていけねぇんだ!」
「城の若い衆が来たところで、腹は膨れねぇ!」
怒号が、湊の鼓膜を打った。
頭の中が、真白になる。
(どうすれば――)
北の村では、声を聞き、境界の文書を見せ、
「責任は自分が取る」と言うことで、どうにか収めることができた。
だが、ここでは同じ手が通用しない気配があった。
水は、待ってくれない。
田植えの時期も、待ってくれない。
曖昧な取り決めのままでは、人の暮らしそのものが危うくなる。
(何か、糸口は――)
必死に頭を働かせていると、不意に誰かが叫んだ。
「見ろ! また上で堰を絞ってやがる!」
視線が一斉に用水路の上流に向いた。
そこでは、越後の若い農民が、必死の形相で木の板を押さえている。
「違う! 水の勢いが強すぎるから、土手が崩れそうなんだ!」
「嘘をつくな!」
「この前だって、そう言いながら自分の田にだけ多く流しただろうが!」
誰かが泥を蹴り上げ、誰かが肩を押した。
小さな動きだったはずなのに、その場の均衡は一気に崩れた。
「やめてください!」
湊の声は、怒号にかき消された。
棒が振り上げられ、誰かが倒れる。
泥の中で足がもつれ、押し合いが殴り合いに変わる。
「やめろ! やめろったら!」
湊は人垣の間に身をねじ込んだ。
泥が袴に跳ねる。
誰かの肘が頬に当たり、鈍い痛みが走った。
視界の端で、人が倒れ、うめき声を上げる。
(止めなきゃ――)
「やめろッ!」
叫びながら手を伸ばしたとき、逆に誰かに強く押し返された。
足が滑り、湊は尻から泥の中に倒れ込んだ。
冷たい水と泥が、背中から一気に染み込んでくる。
「清原!」
遠くで、弥藤の声が聞こえた。
だが、その声が届くより先に、
争いの渦は、湊の手の届かないところへ広がっていった。
泥に倒れ込んだ湊の耳に、争いの怒号が渦を巻くように響いた。
殴り合い、叫び声、板の折れる音、誰かの泣き声。
冷えた水と泥の感触だけが、妙に鮮明だった。
(止められなかった……)
北の村とは違う。
今回は、湊の声は誰にも届かなかった。
人と人の間に割って入るだけの力も、威光もなかった。
「清原、下がれ!」
弥藤が湊の腕を掴み、無理やり人垣から引き剝がす。
その手にも泥が飛び散っている。
「これ以上は危ない。弁慶でも無理だ」
「でも、止めないと……!」
「止まらん。今は無理だ」
短く言い切られ、湊は返す言葉が見つからなかった。
◆
やがて、村の長老たちが駆けつけ、乱闘はようやく収束した。
しかしその場に漂った空気は、怒りと不信と疲労が濁った泥のように重かった。
「……帰れ」
三郎右衛門が、どす黒い声で言った。
「城の若い衆が何しに来ようが、もう遅ぇ。
田のことは田の者が決める。あんたにゃ無理だ」
言葉は刃だった。
息を吸うのも痛むほど、胸に刺さった。
庄左も、険しい目つきで言う。
「直江様に伝えろ。
取り決めが曖昧だったのが悪い。
今年の分け方は、こちらで話し合う」
“お前はもういらない”――
そう言われているのと同じだった。
湊は、絞った声で答えた。
「……承知しました」
何とか立ち上がり、深く頭を下げる。
泥が膝に張りつき、重くて上がらない。
(自分は、何もできなかった)
その事実だけが、心に残った。
◆
城へ戻る途中、湊はほとんど口を開かなかった。
弥藤も何も言わない。
沈黙は、責めているのではなく、理解しているからこそ深かった。
「清原」
ようやく、弥藤が口を開く。
「悪いが、今日のことは……上に厳しく報告せねばならん」
「……はい」
「お前に責任があるわけじゃない。
ただ、“収まらなかった”という事実だけは曲げられん」
「分かってます」
声が震えたが、湊は唇を噛んで抑えた。
(自分の言葉が、誰にも届かなかった……
そんな報告を、兼続さんにするのか)
胸が重く、苦しかった。
◆
直江家屋敷に戻ると、兼続は書院にいた。
水争いの報せはすでに耳に入っていたらしい。
「戻ったか」
湊は畳の上に膝をつき、深く頭を下げた。
「……争いを止められませんでした。
双方の代表と話しましたが、言葉が届く状況ではありませんでした。
取り決めの文にも曖昧な点が多く、それが火種に……」
「うむ。そこまでは聞いておる」
兼続の声は冷たくはなかった。
だが、静かで、重かった。
「清原」
「……はい」
「今日のことを、どう思う」
湊は迷った。
“自分は至らなかった”とだけ言うのは簡単だった。
でも、それでは逃げになるような気がした。
だから、正直に答えた。
「……怖かったです。
どちらも必死で、どちらも間違っていない。
僕の言葉では、誰も止まらなかった。
紙の知識では、何も動かせませんでした」
兼続は湊を見つめ、静かに言った。
「それが“現場”だ」
「――」
「紙に書かれた法は、世を治めるための道具にすぎん。
人の怒り、人の不安、人の暮らし――
それらを知らねば、法は生きぬ。
今日お前が味わったのは、まさにその重みだ」
湊は拳を握りしめた。
「……僕では、足りませんでした」
「足りぬのは当然だ」
兼続の言葉が、湊の動きを止める。
「お前はまだ二十一。
会津の民を何十年も見てきたわけではない。
むしろ、今日のように“届かなかった日”からこそ、学ぶものがある」
言葉は厳しくもあたたかかった。
だが次の一言は、鋭かった。
「ただし――“直江の名”を背負う者が、今日のように無力であってはならぬ。
このままでは、清原よ、お前はただの『若い巡察役』で終わる」
胸に刺さる。
「立ちたいなら、立て。
学びたいなら、泥の中を歩け。
今日の失敗を、“ただの失敗”で終わらせるな」
湊は深く頭を下げた。
「……はい」
◆
部屋に戻ると、泥に汚れた衣が重く肌に張りついた。
畳に座り込むと、手が震えているのに気づいた。
(今日は……完全に、負けた)
自分の力のなさが、嫌というほど分かった。
(でも――)
悔しい。
情けない。
逃げたい。
その全部を飲み込みながら、湊は膝を抱え、小さくつぶやいた。
「……負けたままでは終われない」
その声は弱かったが、かすかに震える光を宿していた。




