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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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88話:影を抱く城、志を問う間者

南との地下での決着から一夜が明けた。


 湊の身体はまだ痛みを抱えていた。脇腹の傷は熱を持ち、腕を動かすたびに鈍い痛みが走る。浅香が夜通し傷口を見張り、八代が替えの布を用意し、上泉が薬草を煎じてくれた。眠れたのはほんの数刻だったが、目覚めた時には不思議と頭が冴えていた。


 昨夜の地下で交わした言葉が、まだ胸の底で燃えている。南の頭領の覚悟。朔夜の迷い。そして、影たちが膝をついた瞬間の静寂。あの場で終わったものと、あの場から始まったものがある。湊はそのことを、身体の痛みとともに噛み締めていた。


 そして今日、その続きが待っている。


 直江兼続。上杉景勝の片腕にして、最も頭脳の冴えた男。越後から会津へ移り、新たな領国経営の要となっている人物だ。その兼続が、湊の話を聞くために動き出した。山上道及を通じて昨夜のうちに連絡が入り、今朝、城へ出向くよう命じられていた。


 湊は宿を出る前に、鏡のない部屋で自分の姿を確かめた。着物の乱れを直し、帯を締め直す。刀は腰に差したが、今日の戦いは刃ではなく言葉だ。そのことを自分に言い聞かせながら、湊は戸を開けた。


 外は冷たかった。しかし、昨日までの刺すような寒さとは違う。どこかに春の兆しが混じっている気配があった。


            ◆


 湊は雪の残る石段を登りながら、会津城下を見渡した。


 朝の霧が薄く漂い、屋根に積もった白がゆっくりと陽に溶けていく。軒先から垂れる氷柱が光を受けて煌めき、石畳には雪解け水が細い筋を作っている。城下の人々は寒さに肩をすくめながらも、確かに生活の鼓動を刻んでいた。荷を担ぐ商人、井戸端で言葉を交わす女たち、走り回る子供の姿。


 上杉が会津に入ってまだ日が浅い。土地の者たちの心は揺れている。新しい支配者を受け入れるのか、それとも機を見て寝返るのか。その判断を、誰もがまだ留保している。湊にはそれがわかった。空気の中に、かすかな緊張が溶けている。


 城が近づくにつれ、道の両側に武家屋敷が増えていく。塀は高く、門は堅く閉ざされている。上杉の家臣たちが住まう区画だ。彼らもまた、越後から移ってきたばかりで、この土地に馴染もうとしている最中だろう。


 南の者たちは、今は地上に姿を見せていない。配置についたまま息を潜め、静かに待ち、静かに観察している。湊の言葉が本物かどうかを見極めるために。昨夜、朔夜が言った言葉が耳に残っている。「俺は信じたわけじゃない。見極めさせてもらう」と。その視線が、今もどこかから湊を追っているような気がした。


 城門が見えてきた。石垣は高く、堀の水は薄く凍っている。門番が槍を構え、出入りする者を厳しく検めている。湊が近づくと、門の横に一人の男が立っているのが見えた。


 細い目。凛とした立ち姿。そして、静かな気迫。


 直江兼続だった。


            ◆


「湊殿、こちらへ」


 兼続の声は冷静だった。しかしどこかで湊を値踏みしている気配がある。


「兼続殿。お忙しい中、時間をいただきありがとうございます」


「こちらが聞く価値があると判断しただけのこと」


 兼続の言葉は飾り気がない。だが刺すような冷たさもなく、誠実に向き合う気配があった。


 二人は並んで歩き始めた。城内の廊下は静かで、足音だけが響く。


「南が百年、影として会津に潜り続けていたとは」


 兼続が口を開いた。


「驚かれましたか」


「驚いたとも。だが、それ以上に会津という土地の深さを痛感した」


 兼続は前を向いたまま続けた。


「蘆名、伊達、蒲生……この地を治めた者たちは多くいたが、地の底まで理解した者はいない。我ら上杉も同じだ。まだ根が張りきれていない」


「だからこそ、南の力が必要だと思いました」


「理解している。だが、これは危うい賭けだ」


 兼続の声が低くなる。


「影の一族を表へ引きずり出すことは、彼らの矜持を揺さぶる。同時に、我らの秩序を揺るがす」


 湊は黙って聞いた。


「そして湊殿。そなた自身が、上杉の中で異物になりかねない」


 湊の足が一瞬止まった。


 兼続は立ち止まらず、静かに歩き続けた。


「南を動かした。彼らを説得した。その事実だけで、そなたは多くの者に恐れられる。功績は大きい。しかし、恐怖もまた大きい」


 湊はその言葉を胸の奥に落とした。


 やがて本丸の廊下へ入ると、空気が変わった。冬特有の乾いた静寂。張り詰めた気配。家臣たちは遠巻きに二人を見ている。


 兼続が低く告げる。


「湊殿。今日、そなたが南の話を述べる相手は、私ではない」


「と申しますと」


「我が主、上杉景勝公だ」


 本丸奥の襖の前で、兼続が足を止めた。


「ここから先は、そなた自身の言葉で道を切り開け」


 襖が開かれた。


 眩い光が差し込み、湊は一歩を踏み出した。


            ◆


 襖が閉じられると、外の冷気が遮られ、代わりに静謐な重みが部屋を満たした。


 湊は思わず背筋を伸ばした。


 部屋の奥に座る上杉景勝は、動かぬ岩のように静かだった。物腰に派手さはない。しかし、その沈黙こそが権威だった。ただそこにいるだけで、空気の密度が変わる。視線を合わせた瞬間、湊は自分の呼吸が浅くなるのを感じた。


 隣に直江兼続が控え、さらに後方には山上道及が膝をついている。


 湊は深く礼をし、景勝に向き合った。昨日の地下での立ち合いよりも、ある意味でこの場の方が恐ろしかった。刀を振るうより、言葉を振るう方が難しい。しかも、相手は上杉の頂点だ。


「湊、と申すな」


 景勝の声は低く、重く、しかし不思議な柔らかさもあった。


「はい」


「兼続より聞いた。南の隠れ里に入り、彼らと刃を交え、なお言葉を交わしたと」


「事実にございます」


「南は、上杉に従うか」


「従わせることはできます。しかし、従わせるのではなく、共に働かせるべきだと考えます」


 景勝の眉がわずかに動いた。


「理由を述べよ」


「南は、蘆名より前からこの地に根づいてきました。土地の道、地形、水脈、人の流れ、商人の往来、寺社の裏側……会津に関するあらゆる情報に通じています。武力ではなく、影としての耳を持っている。これを切り捨てるのは、上杉にとって大きな損失です」


「南は、過去に蘆名にも、伊達にも、蒲生にも利用され、捨てられた。上杉は、彼らと何が違う」


「南の力を影として使うのではなく、会津の一部として扱う点です」


「言葉では容易い」


「だから段階を踏みます。最初は私を窓口とし、南の名は表に出しません。情報収集と監視を任せ、成果を積み重ねてから、少しずつ上杉家中に認めさせていきます」


 景勝は湊を見据えた。視線は深く、揺れない。


「南を支配するのではなく、南に役目を与えるのです。奪うための影ではなく、会津を守る影として」


 沈黙が落ちた。


「湊。そなた、己が危うい橋を渡っている自覚はあるか」


「あります」


「南が裏切れば、そなたが責を負う覚悟はあるか」


「あります」


「南と共に動き、会津を乱すようなことがあれば、そなたは命を失う」


「承知しております」


 景勝は目を伏せ、少しだけ呼吸を整えた。そして顔を上げる。


「兼続」


「は」


「そなたは湊の案をどう見る」


「湊殿は、南を味方に引き込むために必要な条件を、自ら整えております。力で押さえつけず、利益で縛らず、役目で繋げる。これはこれまで誰も成し得なかった形です」


「妙案と言えるか」


「妙案とは言い切れませぬ。しかし、今の上杉が会津を支えるためには、外の敵より内の空白が危険です。南がその空白を埋める可能性は大きい」


「可能性だけでは、国は動かぬ」


「ならば湊殿に試す機会を与えればよいのです」


 景勝が、湊に向けてゆっくりとうなずいた。


「湊。そなたに、その役目を任せる」


「ただし、期限を設ける」


 景勝は淡々と続けた。


「三十日以内に、南の者らが上杉の役に立つ情報を一つでももたらせ。伊達でも、最上でも、佐竹でもよい。あるいは、城下の不穏でも構わぬ」


「承知しました」


「もし何もなければ、南は切り捨てる。その時は、そなたが矢面に立つ」


「覚悟しております」


 景勝はふと目を細めた。


「湊。そなた、恐れぬのか」


「恐れています」


「では、なぜ退かぬ」


「退けば、南も会津も、何も変わらないからです」


 景勝の表情に、わずかな変化が走った。それは、ほんの一瞬の、微笑に近いものだった。


「湊。そなたの言葉、気に入った」


「会津を変える者は、武でなくともよい。知でなくともよい。志があれば、それでよい」


 景勝の声は静かだったが、その言葉には重みがあった。


「南を、会津の影から、会津の支えとせよ」


 湊は深く深く頭を下げた。


            ◆


 本丸を出ると、雪解けの光が眩しかった。


 湊は足を止め、深く息を吸った。冷たい空気が肺を満たし、張り詰めていた緊張が少しずつほどけていく。同時に、遅れてきた震えが足に走った。膝が笑っている。それほどまでに、あの場は重かった。


 景勝の視線。兼続の言葉。そして、三十日という期限。


 すべてが湊の肩にのしかかっている。失敗すれば、南は切り捨てられる。湊自身も、上杉の中での居場所を失う。それどころか、命を落とすかもしれない。景勝ははっきりとそう言った。


 だが、退く気はなかった。


 退けば何も変わらない。南は影のまま、会津は分断されたまま、上杉は根を張れないまま。そんな未来を、湊は望まなかった。


 城門を出ると、街の喧騒が戻ってきた。商人の声、荷車の音、子供の笑い声。何も知らない人々が、日常を生きている。その日常を守るために、湊は動かなければならない。


 南の者たちは、今もどこかで見ている。湊が本当に約束を果たすのか、それとも裏切るのか。朔夜の疑いの目が、まだ消えていないことを湊は知っていた。


 信頼は言葉では得られない。結果で示すしかない。


 三十日。その間に、南が上杉の役に立つことを証明する。伊達か、最上か、佐竹か。あるいは城下の不穏か。どこかに必ず、南の耳が拾える情報があるはずだ。


 湊は空を見上げた。雲の切れ間から、薄い陽光が差し込んでいる。まだ冬の名残が濃いが、確かに季節は動いている。


 会津もまた、動き始めている。


 地下の影と、地上の権力。その狭間に立つ自分の姿を、湊は初めてはっきりと自覚した。どちらにも属さず、どちらにも繋がっている。それは危うい立場だが、同時に、誰にもできないことができる立場でもある。


 湊は腰の刀に軽く触れた。昨日、この刀で南の頭領と斬り合った。今日は言葉で景勝と向き合った。明日からは、また別の戦いが始まる。


 南と共に、会津を変える。


 その決意が胸の奥で静かに燃えていた。冷たい風が頬を撫でたが、湊は寒さを感じなかった。身体の内側から、確かな熱が湧き上がっている。


 一歩を踏み出した。


 石畳を踏みしめ、城下町へと続く道を歩き始める。背後に城を残し、前には雪解けの街が広がっている。


 三十日後、この街はどう変わっているだろうか。南はどうなっているだろうか。そして、自分は。


 答えはまだわからない。だが、進むしかない。


 湊は歩き続けた。足取りは確かだった。傷はまだ痛むが、心は定まっている。


 会津の空は高く、冬の終わりを告げる風が、静かに吹き始めていた。

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