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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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87話:影の終焉、光の始端

 鉄がぶつかる高い音が、閉ざされた地下空間に鋭く響いた。濁った空気が揺れ、松明の火が細く震える。湊の腕に走った痛みは鋭く、裂けた皮膚から滲む温かい血が袖の内側をゆっくり伝った。だが倒れない。南の男もまた、肩口を浅く斬られながら、静かに呼吸を整え湊を見据えていた。


 互いに致命傷ではなく、しかし確実に斬り合った。南の男が初撃で決めるつもりだったのは明らかだ。それを湊がぎりぎりでいなし、そこから先は「殺すため」ではなく「互いの覚悟を測る」ための刃となった。


 影たちは動かない。ただ沈黙のまま勝負の行方を見届けていた。浅香は息を潜め、八代は槍を握り直し、上泉は負傷した腕を押さえながら湊の動きを追う。山上道及は細く目を細め、若き者が越えるべき急峻な壁をただ静かに見つめていた。


 湊は左手の甲で口元を拭った。噛み締めた拍子に切れた口の内側から、わずかな血が滲んだだけだ。吐き捨てるほどの量ではない。痛みも震えもあるが、それでも足は前へ出る。ここで退けば、南だけでなく、南の背後で息を潜めてきた百年の掟そのものから逃げることになる。それだけは、絶対に許されなかった。


 南の男が低く言う。


「……侮ったわけではない。だが、ここまで立つとは思わなかった」


 湊は口元を歪めた。その痛みに混じった笑みは、確かな意思を帯びていた。


「俺も……自分が立ってるとは思ってなかったよ」


 南の目がわずかに揺れた。湊の動きには武芸の型がない。しかし、生き残るためだけに研ぎ澄まされた反応には迷いがなかった。南の男にとってその刃は、久しく忘れていた生への執念だった。


 二人は、同時に踏み込んだ。


 短い激突。しかし刃の交差は先ほどより深く、激しく、決定的だった。


 湊の刃が南の腕に走り、深い傷を刻む。南は即座に身を引き、致命傷は避けるが、完全に後手へ回った。


 湊の脇腹にも鋭い痛みが走った。切り込まれた部分が熱を持ち、足が揺れる。だが倒れない。


 南の男は、長く息を吐いた。


「……負けだ」


 その声音には、屈辱ではなく、張り詰めた糸が切れたような静けさがあった。


 影たちがざわめいた。一人が前に出る。


「頭領、お待ちください」


 若い声だった。覆面の下から鋭い眼光が湊を射抜く。


「たかが一度の立ち合いで、百年の掟を曲げるおつもりか」


 南の男は振り返らない。だが、その背中がわずかに強張った。


「黙れ、朔夜」


「黙れませぬ。我らは影として生き、影として死ぬ。それが南の道。この男一人に負けたからといって、なぜ――」


「負けたからではない」


 南の男の声が、地下に低く響いた。


「……俺が見たのだ。この男の中に、俺たちが失ったものを」


 朔夜と呼ばれた若者が息を呑む。他の影たちも動きを止めた。


 南の男は続けた。


「百年、俺たちは折れぬために影に沈んだ。奪われぬために闇へ潜った。だが……折れぬとは、こういうことだったのではないか」


 湊を見据える。


「型もなく、技もなく、それでも立ち続ける。奪うためではなく、守るために」


 朔夜が食い下がる。


「守る? 我らが何を守るというのです。会津は我らを捨てた。蘆名に地上を奪われ、伊達に利用され、蒲生に蔑まれ、今また上杉に警戒されている。誰が我らを守った? 誰も守らなかった。だから我らは影に堕ちた」


「だから奪い返してきた。だが――」


 南の男は自らの傷口を見下ろした。


「奪い続けて、俺たちは何を得た?」


 沈黙が落ちた。


 朔夜の拳が震えている。怒りなのか、戸惑いなのか、あるいはその両方か。


 湊は一歩前に出た。痛みが全身を走るが、声だけは揺らさない。


「南の者たち。俺はお前たちを敵だと思っていない」


 朔夜が睨む。


「敵でなければ何だ。利用するつもりか」


「違う。力を借りたいんだ。会津のために」


「会津のため?」


 朔夜の声に嘲りが混じった。


「会津が俺たちに何をしてくれた。影に追いやり、人として扱わず、それでも会津のためだと?」


「だからこそだ」


 湊の声が強くなった。


「お前たちが会津を変える。影としてではなく、会津の一部として」


「綺麗事を――」


「綺麗事じゃない」


 湊は朔夜の目を真っ直ぐに見た。


「具体的に言う。南には『耳』がある。人の動きを読み、噂を集め、誰よりも早く情報を掴む力がある。違うか」


 朔夜は答えない。だが、否定もしなかった。


「会津には今、四方から脅威が迫っている。伊達、最上、佐竹、そして徳川。上杉が会津に入って日が浅い。土地の者たちの心はまだ定まらず、隙あらば寝返る者も出る。だが上の者たちは目の前の戦にかかりきりで、足元の動きまで見えていない。なぜだかわかるか」


「……情報がないからだ」


 答えたのは南の男だった。


「そうだ。お前たちは蘆名より前からこの土地にいる。地下の道も、水脈も、会津の隅々まで誰より知っている。その『耳』を上杉のために使ってくれ。影として暗躍するんじゃない。諸国の動き、敵方の内情、土地の者たちの不満、商人の噂。それを集め、整理し、然るべき者に届ける。それが最初の役目だ」


 朔夜が眉をひそめる。


「それだけか」


「それだけじゃない。南には『足』もある。誰にも気づかれずに動ける者たちがいる。その力を、国境の監視に使う。伊達や最上の間者が会津に入れば、南が最初に気づく。上に報告し、対処させる」


 湊は続けた。


「さらに言えば、『腕』もある。いざという時、表の武士では手が出せない相手を抑える力がある。ただし、これは最後の手段だ。基本は情報と監視。それでも足りない時だけ、力を借りる」


 朔夜は黙り込んだ。他の影たちも、互いに顔を見合わせている。


 南の男が口を開いた。


「湊。一つ聞く」


「なんだ」


「俺たちがそれをやったとして、上杉は俺たちをどう扱う。蘆名も伊達も蒲生も、最初は利用すると言った。だが結局は捨てられた。上杉も同じではないのか」


「同じにはさせない」


「どうやって」


「まず、南の存在を直江兼続殿に伝える。敵としてではなく、会津の隠れた守り手として。兼続殿が認めれば、南は影ではなくなる」


 南の男の目が見開かれた。


「直江殿に……?」


「山上殿を通じて話を通す。すでに了承は得ている」


 湊は山上道及に目を向けた。山上が静かに頷く。


「左様。湊殿の申し出、この山上が仲立ちをいたす。兼続殿もまた、会津の安定を望んでおられる。上杉が会津に根を下ろすには、土地の者たちの心を掴まねばならぬ。お主らのように、蘆名以前からこの地を知る者の力は、何より貴重よ」


 影たちの間にどよめきが走った。


 朔夜が声を荒げる。


「信じられるものか! 蘆名の時も同じことを言われた。伊達の時も、蒲生の時も。結局は使い捨てられた。今さら表に出ろと言われて、俺たちがどうなる! 上杉の者どもに首を刎ねられるだけだ!」


「わかっている」


 湊の声は静かだった。


「すぐには無理だ。だから段階を踏む。最初は情報だけ。南の名は出さない。俺が窓口になる。成果が出れば、少しずつ監視も任せる。信頼が積み重なってから、ようやく南の存在を明かす。一年か、五年か、十年か。それは俺にもわからない。だが――」


 湊は朔夜に向き直った。


「お前たちの子供は、影として生まれなくて済む。地下ではなく、陽の当たる場所で生きられる。そういう未来を作りたいんだ」


 朔夜の表情が凍りついた。


 沈黙が長く続いた。


 地下の冷たい空気が、誰の肌にも等しく触れていた。松明の炎だけが揺れ、影たちの顔を照らしては消す。


 やがて、朔夜の肩から力が抜けた。


「……俺には、まだ子はいない」


「だからこそだ。これから生まれてくる者たちのために」


「…………」


 南の男が朔夜の肩に手を置いた。


「朔夜。お前の言い分はわかる。俺も同じことを考えていた。蘆名に裏切られ、伊達に利用され、蒲生に蔑まれた。上杉も同じだと、そう思っていた」


 南の男は湊を見た。


「だが、この男は違う。俺たちに『奪う』以外の道を示した。今までの支配者は、誰もそんなことを言わなかった。信じるかどうかは、これから決めればいい。だが……試す価値はある」


 朔夜は長い間、湊を見つめていた。その目には、まだ疑念が残っている。だが、憎悪の色は薄れていた。


 やがて、ゆっくりと膝をついた。


「……頭領がそう仰るなら。だが、俺は信じたわけじゃない。見極めさせてもらう」


「それでいい」


 湊は頷いた。


「信じろとは言わない。結果で示す」


 他の影たちも、一人、また一人と膝をつく。だが全員ではない。何人かは立ったまま、湊を睨み続けている。


 南の男が言った。


「全員が納得したわけではない。それはわかっているな」


「ああ」


「だが、俺は決めた。南は湊の話を聞く。従うかどうかは、これからの働き次第だ。それでいいか」


「十分だ」


 立ったままだった影たちが、互いに顔を見合わせた。やがて、一人が膝をついた。もう一人も続く。最後まで立っていた者も、長い沈黙の後、ようやく膝を折った。


 南の男が深く息を吐いた。


「これで……南は一つだ。少なくとも、今この場では」


 上泉が深く頷いた。


「これでようやく……前へ進めるな」


 浅香は安堵と怒りが混じった視線で湊を見た。


「死にかけてんじゃねぇよ……!」


「死なないよ、俺は」


「その傷でよく言うわ。血、止まってねぇぞ」


 八代は槍を肩に担ぎ、笑った。


「まあ、生きてりゃなんでもいいさ。死んだら話になんねえ」


 湊は浅香に支えられながら、南の男に向き直った。


「これから話を詰める。場所を移そう」


「そうだな。ここでは、古い空気が重すぎる」


 南の男が影たちに目配せすると、道が開かれた。湊たちはゆっくりと地上へ向かう。


 地下の湿った空気から、雪解け直後の冷たく澄んだ夜気へと変わった瞬間、湊は胸の奥で何かがほどけるのを感じた。


 百年続いた影の掟が、静かに形を変え始めたのだ。


 だが、終わりではなく始まりだった。まだ全員が心から納得したわけではない。朔夜のような若者たちの疑念は消えていない。これから成果を示し、信頼を積み重ねなければならない。


 それでも、一歩を踏み出した。


 湊は夜空を見上げた。雪の雲は消え、いくつかの星が姿を見せていた。


 冷たい風が頬を撫でる。傷が熱を持ち、身体が重い。だが、心は不思議と軽かった。


 その星々を見ながら、湊は静かに息を吐いた。


 ――会津は変えられる。南と一緒に。


 その確信だけが、冷えきった夜の風の中で温かく灯っていた。


 だが同時に、この夜が本当の試練の始まりであることも、湊は知っていた。南の信頼を勝ち取り、上杉の中で居場所を作り、会津という土地に根を下ろす。その道のりは、今夜の戦いよりもはるかに長く、険しいものになるだろう。


 それでも、進むしかない。


 湊は一歩、また一歩と、夜の道を歩き始めた。

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