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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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86話: 闇よりの召喚 — 景勝、動く夜

 南の影が井戸に消えた。


 湊は闇を見つめたまま、一歩も動けなかった。松明の火が雪に落ち、じゅうと音を立てて消える。残されたのは月明かりだけだった。


「来い。井戸の底で決着をつけよう」


 その言葉が、まだ耳の奥で響いている。


 浅香が刀を構えたまま近づいてきた。


「湊……追うのか」


「追う」


「正気か。罠に決まってるだろ」


「罠でも行く」


 湊は井戸の縁に手をかけた。石が冷たい。指先から体温が奪われていくのがわかる。


 八代が槍を雪に突き立て、大きく息を吐いた。


「おいおい……マジで降りんのかよ。底が見えねえぞ」


「だから降りる」


「理由になってねえよ」


 上泉が静かに歩み寄った。先ほど影を倒した一撃の余韻か、その右腕をわずかに押さえている。剣聖の孫といえど、あの速さの敵を相手にすれば、体に負担がかかる。


「湊殿。南は我らを誘っております。井戸の底こそが、彼らの本拠。地の利は完全に向こうにある」


「わかってる」


「それでも?」


「それでも、だ」


 湊は振り返った。月光が雪に反射し、四人の顔を青白く照らしている。浅香の険しい表情、八代の困惑、上泉の静かな眼差し。そして少し離れた場所で、山上道及が黙って立っていた。


「山上殿」


 湊が呼びかけると、山上は静かに頷いた。腰には脇差だけでなく、打刀も差している。絵図師の姿ではなかった。


「この井戸の構造、ご存知ですか」


「……知っております。関八州詳細図を描いた折、会津の地形も調べ尽くしました」


 山上は雪を踏みしめ、井戸の縁まで歩いてきた。その足取りには、老いを感じさせない確かさがあった。


「南山の井戸は、ただの井戸ではありません。かつて蘆名の時代、いや、それよりも前から存在した地下道の入口です。会津盆地の地下には、いくつもの横穴が走っている。そのうちのひとつが、ここに繋がっておりまする」


「地下道……」


「はい。南の一統は、その地下道を使って会津の裏側を支配してきた。領主が誰であろうと関係ない。地上の権力は変わっても、地下の道は変わらぬ」


 浅香が舌打ちした。


「つまり、降りたら敵の縄張りってことか」


「左様です」


 山上は打刀の柄に手を添えた。その仕草には、何十年も戦場を駆けてきた者の重みがあった。


「しかし、わしは佐野四天王として北条とも佐竹とも戦い、太閤殿下の使者として奥州、関東を駆け巡った身。地下道の闇程度、恐れる道理がありませぬ」


 八代が目を丸くした。


「じいさん……佐野四天王?」


「昔の話です。今は上杉家に拾われた老いぼれに過ぎませぬ」


 山上は淡々と言ったが、その目には戦国を生き抜いた者の光が宿っていた。


 湊は山上を見つめ直した。首供養を何度も行った猛者。秀吉の惣無事令を携えて諸国を巡った使者。関八州詳細図を描き上げた知恵者。そのすべてが、この老人の中に眠っている。


「山上殿。力を貸してください」


「無論です」


 山上は静かに笑った。


「わしがこの地に来たのは、上杉家に召し抱えられたからだけではありませぬ。会津の闇を、この目で見届けたかった。そして、できることなら——」


 言葉を切り、井戸の闇を見つめた。


「——終わらせたかった」


 浅香が肩をすくめた。


「決まりだな。んじゃ、降りるか」


「おいおい、俺まだ覚悟できてねえんだけど」


 八代が情けない声を上げたが、すでに槍を担ぎ直している。


 上泉が右腕を軽く振り、感覚を確かめた。


「某の腕、まだ保ちまする。先に降りましょう」


「頼む。だが、無理はするな」


「ご心配なく」


 上泉は井戸の縁に足をかけた。内側には古い石段があり、螺旋状に下へ続いている。


「では、参る」


 上泉の姿が闇に沈んでいった。


 足音が反響し、やがて遠くなる。しばらくして、下から声が上がった。


「……敵影なし。降りられます」


 湊は頷き、井戸に足を踏み入れた。


 冷気が一気に体を包んだ。地上の寒さとは質が違う。湿り気を含んだ、重い冷たさだった。石段は苔むして滑りやすく、一歩ごとに慎重に足場を確かめなければならない。


 後ろから浅香、八代、山上が続く。松明の火が石壁を照らし、赤い影が揺れた。


 十段、二十段、三十段。


 降りるほどに、闘が濃くなる。やがて月光も届かなくなり、松明の明かりだけが頼りになった。


 山上が低い声で言った。


「この井戸は、小田原征伐の折に調べた佐野の抜け穴と構造が似ております。おそらく、同じ時代に掘られたものでしょう」


「同じ時代?」


「戦国の初め頃。各地の豪族が、いざという時のための逃げ道を掘った時代です。南の一統も、その頃から地下に根を張ったのかもしれませぬ」


 五十段を過ぎた頃、石段が途切れた。


「……ここか」


 湊は足を止め、周囲を見回した。


 井戸の底は、思っていたよりも広かった。直径十間ほどの円形の空間。天井は高く、松明の光では届かない。壁には古い紋様が刻まれており、この場所が単なる井戸ではないことを物語っている。


 山上が壁の紋様を見つめ、目を細めた。


「これは……蘆名以前の紋ですな。わしも見たことがない」


「それほど古いのですか」


「おそらく。この地を最初に拓いた者たちの印でしょう」


 そして正面には、横穴が口を開けていた。


「あれが地下道か」


 山上が頷いた。


「左様です。この道は南へ延び、かつての南町屋敷の地下に繋がっております。さらにその先は……」


「その先は?」


「会津の中心部。若松城の地下へ通じていると言われております」


 浅香が眉をひそめた。


「城の地下だと?」


「あくまで伝承ですが。南の一統は、いざという時に城を内側から落とすための道を持っていた。それがこの横穴だと」


 湊は横穴の入口を見つめた。闇が奥へ続いている。その先に、南がいる。


「行こう」


 湊が一歩を踏み出した時、横穴の奥から声が響いた。


「待て」


 低く、静かな声だった。


 全員が足を止める。上泉が即座に刀を抜き、浅香が湊の前に出た。山上も打刀を抜き、腰を落とした。その構えには、佐野四天王と呼ばれた男の風格があった。


 闇の中から、足音が近づいてくる。一人分の足音。ゆっくりと、しかし淀みなく。


 やがて松明の光の中に、一人の男が姿を現した。


 歳は五十ほどか。痩せた体躯に、色褪せた装束。しかしその目だけが、異様な光を湛えていた。深く、冷たく、それでいてどこか疲れたような光。


「……お前が南か」


 湊が問うと、男は薄く笑った。


「南という名は、役割の名だ。俺の名ではない」


「では、何と呼べばいい」


「呼ぶ必要はない。お前と俺が言葉を交わすのは、今夜が最初で最後だ」


 男は湊を見つめた。その視線には、敵意だけではない何かが混じっていた。


「清原湊。会津に来て、まだ一年も経たぬ若造。それがなぜ、ここまで辿り着けた」


「仲間がいたからだ」


「仲間、か」


 男は浅香、八代、上泉、そして山上を順に見た。


 山上で、その視線が止まった。


「……山上道及」


「知っているのか」


「佐野四天王。太閤の使者。関八州詳細図の作者。首供養を何度も行った猛者。知らぬ者がいるものか」


 山上は刀を構えたまま、静かに言った。


「わしのことを知っているなら、話が早い。南の一統よ、お前たちの時代は終わりだ」


「終わり、だと?」


「そうだ。わしは戦国の終わりを見てきた。北条も滅び、佐野も変わり、天下は太閤の手に収まった。そして今、上杉がこの地を治めている。お前たちが地下でどれだけ足掻こうと、時代は変わる」


 南の男は、しばらく山上を見つめていた。


「……山上道及。お前は変わったな」


「変わらねば生きられなかった」


「俺たちは変われなかった。だから、ここにいる」


 奇妙な沈黙が流れた。


 山上と南の男。二人の間には、言葉にならない何かがあった。戦国を生き抜いてきた者同士の、共感とも諦念ともつかない感情。


 南の男は視線を湊に戻した。


「お前の仲間には、強者が揃っているようだな。だが、それでも俺たちを倒すことはできん」


「倒すつもりはない」


 湊の言葉に、南の男は眉を上げた。


「何?」


「俺は、お前たちを倒しに来たんじゃない。話をしに来た」


「話だと?」


「お前たちの目的を聞きたい。なぜ、地下に潜って会津を操ろうとする」


 南の男は長い沈黙の後、低く笑った。


「話、か。いいだろう。どうせ、お前たちはここから生きて出られん。最後に真実を聞かせてやるのも、慈悲というものだ」


 男は一歩前に出た。


「この土地は、本来俺たちのものだった」


「蘆名より前から、と聞いた」


「そうだ。俺たちの祖先は、この会津盆地を最初に拓いた者たちだ。しかし、力を持った者たちが次々と押し寄せ、俺たちは追いやられた。地上の支配権を奪われ、地下へ潜るしかなくなった」


 男の声に、静かな怒りが滲んだ。


「蘆名が来た。俺たちは地下へ逃げた。伊達が来た。蒲生が来た。そして今、上杉が来た。領主が変わるたびに、俺たちは息を潜め、機を窺ってきた」


「それで民は幸せになるのか」


 南の男の目が、わずかに揺れた。


「何?」


「お前たちが会津を取り戻したとして、民の暮らしは良くなるのか。密造酒を広め、寺領を乱し、地下から領主を脅かす。それが民のためになるのか」


「黙れ」


「黙らない」


 湊は一歩前に出た。


「お前たちは会津を愛しているのかもしれない。だが、愛し方を間違えている。地下に潜って支配しても、会津は良くならない。お前たち自身も、日の当たる場所で生きられない」


「俺たちに日の当たる場所などない」


「なら、作ればいい」


 南の男は目を見開いた。


「何を言っている」


「俺は制度を作ろうとしている。誰もが守らなければならない規則を。領主が誰であろうと、民が守られる仕組みを。その中に、お前たちの居場所を作ることもできる」


「……馬鹿なことを」


「馬鹿じゃない」


 山上が口を開いた。


「湊殿の言葉は、正しい」


 南の男が山上を見た。


「太閤殿下の惣無事令を、わしは関東、奥州に届けて回った。あれは、戦を終わらせるための制度だった。刀ではなく、言葉と規則で天下を治める。それが太閤の目指したものだ」


「太閤は死んだ」


「ああ、死んだ。だが、制度は残った。お前たちも、制度の中で生きることを選べば、日の当たる場所に出られる」


 南の男は黙って山上を見つめていた。


 長い沈黙。


 やがて、南の男は深く息を吐いた。


「お前たちの言葉は、筋が通っている」


 湊の胸に、わずかな期待が生まれた。


「だが」


 男の目が、再び冷たく光った。


「俺たちは百年以上、この方法で生きてきた。それが、南の宿命だ。宿命は、変えられるものではない」


「変えられる」


 湊は言った。


「山上殿は変わった。佐野四天王から、上杉の家臣へ。北条と戦い、太閤に仕え、今は会津にいる。人は変われる。お前たちも変われる」


 南の男は湊を見つめた。


 松明の火が揺れ、二人の影が石壁に踊る。


「……お前は、俺たちを悪だと思っていないのか」


「思っていない。間違っているとは思うが、悪だとは思わない」


「なぜだ」


「お前たちは、会津を守ろうとしている。方法が間違っているだけだ。方法は、変えられる」


 南の男は長い間、何も言わなかった。


 やがて、男は静かに首を振った。


「……俺には、変える力がない」


「何?」


「俺は南の頭領だが、南のすべてを動かせるわけではない。百年以上続いた掟は、俺一人では変えられん」


 湊は目を見開いた。


「では、どうすればいい」


「俺を倒せ」


 全員が息を呑んだ。


「俺を倒せば、南の掟が揺らぐ。頭領が敗れれば、従う者たちも考えを改めざるを得なくなる。それが、唯一の道だ」


 南の男が手を上げた。


 横穴の奥から、影のような人間たちが姿を現す。十人、二十人……。皆、黒い装束に身を包み、手には刃を持っている。


「だが、俺も易々とは負けられん。南の頭領として、全力でお前たちを迎え撃つ」


 浅香が刀を構えた。


「湊、どうする」


 湊は拳を握った。


 南の男は、変わりたいと思っている。だが、変われないでいる。百年の掟に縛られ、宿命に囚われている。


 それを断ち切るには、力が必要だ。


「一騎打ちだ」


 南の男が目を細めた。


「俺とお前、一対一で決着をつける。俺が勝てば、南は俺の話を聞く。お前が勝てば、俺たちは引き下がる」


「お前は武芸者ではないだろう」


「ああ、違う。だが、これが一番いい」


「なぜだ」


「お前は、変わりたいんだろう」


 南の男の目が、わずかに揺れた。


「お前を倒すことで、南の掟を揺るがす。それがお前の望みなら、俺がやる。俺が、お前を解放する」


 長い沈黙。


 松明の火が揺れ、影が踊る。


 やがて、南の男は静かに笑った。


「……面白い男だ。お前のような奴は、初めてだ」


「受けるか」


「受けよう。お前の覚悟、この身で受け止めてやる」


 影たちが左右に分かれ、二人のための空間ができた。


 湊は腰の刀に手をかけた。握りなれない柄の感触。震える指。それでも、退くわけにはいかなかった。


 山上が静かに言った。


「湊殿。南の剣は、速い。初太刀で決まりまする」


「わかった」


 上泉が付け加えた。


「呼吸を読まれぬよう。吐く瞬間を狙うのが、影の流儀です」


「ああ」


 浅香が湊の肩を叩いた。


「死ぬなよ」


「死なねえよ」


 湊は前に出た。


 南の男が構えた。その構えには、百年の重みがあった。


 湊も構えた。


 地下の冷気が、二人の間を漂う。


 松明の火が、一瞬だけ大きく揺れた。


 二つの影が、交錯した。

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