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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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85話: 闇、井戸へ沈む

雪は、吐息ひとつで砕けそうなほど静かに降り続いていた。

 南山へ向かう道は白く沈み、踏みしめる音さえ吸い込まれていく。


 湊は歩を止めず、ただ前だけを見ていた。

 風は弱いが、空気が薄氷のように張りつめている。

 近づくほど、山の影は深くなり、夜の匂いが濃くなる。


(――今夜で終わらせる)


 影の男が死に際に吐いた言葉が、まだ耳の奥に残っていた。


 ――お前のやり方は、“南より怖え”。


 褒め言葉ではない。

 だが、敵が恐れ、認めざるを得なかった評価だった。


 湊は深く息を吸い、小さく吐いた。


 後ろには浅香、八代、上泉泰綱、山上道及。

 いつもの顔ぶれなのに、雪の闇の中では誰もが重い影を背負っているように見えた。


「湊……ほんとに行くんだな。井戸の底まで」


 浅香が小声で呟く。

 顔は笑っているが、目は少しだけ揺れていた。


「行く。ここで逃げたら、全部無駄になる」


「逃げる気なんて最初からねぇくせに」


 浅香は笑ったが、その笑いはどこか震えていた。


 八代が腰の刀の柄を軽く叩く。


「しかしな……井戸の底が“隠れ里”って話、どこまで本当なんだ?」


「山上さんが道を整えたって言ってた。信じるよ」


「もうちっと疑えよ……」


 そう言いながら、八代は山上の背中をちらりと見た。


 老人は雪を払うように歩きながら、黙して語らない。

 だがその背中には、どこか覚悟が宿っていた。


(山上さんも……ここで終わらせるつもりなんだ)


 湊はそう感じた。


 上泉泰綱が歩を合わせ、静かに声をかける。


「湊殿。今宵は、争いでは済みませぬ。

 ここで南の一統は動けなくなるやもしれぬ……それほどの場でございます」


「わかってる。でも……殺すのは最小限にしたい」


「またそれを言われまするか」


 泰綱は苦笑した。


「南は湊殿を排除しようとしておりますぞ?

 情けをかければ、それが命取りになりまする」


「情じゃない。仕組みで囲えるなら……生かす価値がある」


「……ほんとお前、怖ぇよ」


 浅香が小声で吐き出し、八代が肩をすくめた。


「敵を“組織改革の材料”にする奴、どこにいんだよ……」


「ここにいる」


 湊が言うと、上泉が少しだけ笑った。


「湊殿は、敵を斬るのではなく、機能を奪うお方。

 戦ではなく、仕組みで勝つお方でございますな」


(違う……ただ、無駄が嫌いなだけだ)


 だが、それがこの戦国では“異常な強さ”になる。


 井戸に着いたのは月が雲に隠れた頃だった。


 黒く深い穴が、ぽっかりと雪の中に開いていた。

 周囲の霧は薄く漂い、底から冷気が音もなく流れ出している。


 湊は井戸の縁に手を置いた。

 石は冷たく、古い。けれども、不思議なくらい整っている。


 山上が一歩前に出た。


「……ここです。南が“最後の道具”として使う場所」


「道具?」


「水を汲むための井戸ではありません。

 地下へ続く“通り道”です。

 この山の下には――隠れ里があります」


 浅香が息を呑む。


「隠れ里……」


 上泉が井戸を覗き込みながら言う。


「南は……そこにおるので?」


「はい。

 湊殿を排除するか、取り込むか。

 今夜、その判断を下すために」


 湊は深く息を吐いた。


(来いよ……ここで終わらせる)


 その時――


 ――ぱちり。


 乾いた小さな音が雪の静寂を裂いた。


 八代が刀に手をかける。


「……来やがったな」


 上泉が前に出て、雪面を凝視する。


「湊殿、後方へ」


 湊は軽く身を沈ませ、闇を見据えた。


 木々の陰から、黒い影がゆっくりと現れた。

 松明がかざされ、炎がゆらゆらと揺れ、雪面に黒い影が伸びる。


 先頭の男が、薄く笑った。


「……湊殿。初めまして、ではないな」


(――南)


 姿を見せたその男は、噂よりも静かだった。

 声は低く、表情は薄い。

 だが、その一歩ごとに空気が冷たくなる。


 南は松明を掲げ、湊を指した。


「お前は……我らにとって危険だ。

 排除すべきか。

 あるいは――」


 唇が歪む。


「利用すべきか。

 今から決めてやろう」


 その瞬間、炎が風に揺れ、闇が踊った。


 湊は前へ一歩踏み出した。


「決めるのは、そっちじゃない。

 ここからは、俺が決める」


 南の瞳が細くなる。


「ほう……?」


「お前の“支配”は終わりだ。

 会津は、お前の私物じゃない」


 浅香、八代、上泉が同時に構えた。

 山上は震える手で背負子を押さえる。


 南が指を鳴らした。


 ――その音だけで、闇が裂けた。


 雪の中から、いくつもの影。

 短刀、槍、鎖鎌――すべてが湊たちに迫る。


 南が薄笑いを浮かべる。


「――見せてもらおう。

 お前の“仕組み”の本当の価値をな」


 雪が舞い、影が襲い来る。


 今夜、全てが決まる。

影が雪を蹴り、闇を裂いて迫ってくる。

 湊は息を殺し、わずかに体を沈めた。

 雪を踏み締める音はほとんどしない。

 寒気が肌を刺すよりも、敵の殺気のほうが強かった。


(来る……!)


 最初の影が短刀を逆手に走り込んできた。

 直前で足を滑らせ、雪を払って体勢を低くする。

 軌道が読みにくい。

 訓練された動きだ。


「湊、下がれ!」


 浅香の声より早く、上泉泰綱が動く。

 影の腕が振り上がる瞬間、その手首を柄で弾き上げた。


 乾いた骨の音。

 短刀が宙を踊り、雪面に突き刺さる。


「……やはり腕は立つな」


 南が低く笑った。


 だが、泰綱は微笑すら見せなかった。


「あなたも……“間に合わせの刺客”で我らが揺らぐと思わぬことです」


 泰綱が踏み込み、影の胸元へ柄頭を叩きつける。

 刺客の体が後ろへ跳ね、雪を舞い上げて倒れ込む。


 その間に、別の影が湊へ迫る。


(……浅い!)


 湊はとっさに身を翻し、相手の腰へ雪を蹴り上げた。

 視界を奪われた影はわずかに動きが鈍る。


 その隙に浅香が横から刀で受け、弾き飛ばす。


「ちょっと待てよ湊! なんでお前まで戦い慣れてんだよ!」


「慣れてない! ただ……動かないと死ぬ!」


「だよな!!」


 浅香が叫び返し、二人の影が八代へ向かった。


「おっと……そう来るか」


 八代は雪を蹴り、体を斜めに滑らせる。

 敵の刃が頬をかすめ、血が一筋落ちる。


「痛ぇぞ、こら!」


 怒鳴ると同時に八代の拳が影の顎をとらえた。

 鈍い音が響き、相手が雪に沈む。


「っし……次!」


 戦場は混沌ではなく、均衡していた。

 だが、湊は気づいていた。


(これ……“揺さぶり”だ)


 刺客の質は高いが、全力ではない。

 南が本命を出していない。


 南本人は一歩も動かないまま、湊を見つめていた。

 獲物を見る目ではない。

 敵を見る目でもない。


(……評価してる)


 その目には、湊を“使えるかどうか”値踏みしている色があった。


「湊殿!」


 山上が震える声をあげ、背負子を抱えて下がる。


「このままでは……井戸へ逃げられます!」


「逃がさない。ここで終わらせる」


 湊は進んだ。

 雪の上に息が白く広がり、冷気が肺へ刺さる。

 だが、胸の中は不思議と静かだった。


(南を倒すことで……会津の“根”がひっくり返る)


 そう確信していた。


 刺客が最後の一人となり、八代が蹴り飛ばした瞬間――


 南が手を叩いた。


 ぱん、と乾いた音が雪の夜に響く。


 井戸の底から、風が吹き上げた。

 同時に――


 ずるり。


 井戸の内壁に張り付いていた闇が、ゆっくりと上がってくる。


「……っ」


 浅香の顔が強張る。


「これ……今までの奴らと違う……!」


「南の“本命”か」


 上泉が刀を静かに構えた。


 井戸の縁に現れた影は、先ほどの刺客よりもさらに静かだった。

 呼吸が見えない。

 立ち姿が揺れない。

 雪を踏んでも音がしない。


「……湊殿。お気をつけくだされ。こやつは……手練れを超えておりまする」


 南は松明の火をわずかに掲げた。


「紹介しよう。

 我らが“南の爪”――影衆の本流だ」


 影の男は顔を覆面で隠し、ただ湊を見た。

 感情がない。

 殺しも恐怖もない。


(……これが、南の本気か)


 湊の喉がひとりでに鳴った。


「排除するか……それとも利用するか。

 お前の力、ここで測る」


 南は一歩も動かない。

 その場から、ただ湊だけを見ている。


 影が滑るように動いた。


「――っ!」


 瞬間、湊の視界から消えた。

 雪の上には足跡すら残らない。

 浅香が叫ぶ。


「湊! 伏せろ――!!」


 刃が湊の首へ迫る。

 冷気が皮膚を裂く直前――


 金属音が轟いた。


 上泉の刀が影の短刀を受け止めていた。


「ここを通すわけには参りませぬ!」


 激しい火花が散り、雪へ舞う。

 影の体勢がわずかに崩れた瞬間、八代が横から殴りかかる。


「舐めんな!!」


 だが――影は消えた。

 八代の拳は空を切り、勢いのまま雪へ倒れ込む。


「はっ……はや……っ!」


 影はすでに湊の背後に立っていた。


(まずい……!)


 湊は反射で身をひねる。

 刃が頬に触れ、薄く血が散った。


 痛みよりも、対処しきれない速度への恐怖が勝る。


「お前は……排除に値する」


 影が冷たい声で言い、腕を振り上げた。


 その瞬間――


「湊殿、下がれ!」


 山上の叫びが響いた。


 背負子から飛び出したのは――縄。


「……は?」


 湊が驚く暇もない。


 縄が影の腕に絡みついた。

 影がわずかに動きを止める。


 その一瞬を、泰綱は逃さなかった。


「――喝ァッ!!」


 泰綱の一撃が影のこめかみを捉えた。

 雪が爆ぜ、影が地面へ沈む。


 南が初めて動いた。

 松明の火が揺れ、わずかに目元が歪む。


「山上……お前が裏切るとはな」


「裏切りなどではござらぬ。

 わしはただ……真にこの地を救う方につくだけです」


 山上の声は震えていたが、目は静かだった。


 湊が前へ歩み出る。


「南……終わりだ」


「終わり……?」


 南は小さく頭を振った。


「違うぞ、湊。

 これは始まりだ。

 お前の“仕組み”は、我らの利権すべてを奪う。

 だから恐れているのだ。

 我らではない。

 ――この会津の“地”そのものが」


 湊の足が止まる。


 南が一歩踏み出した。


「湊。

 会津を変えようとするなら……必ず“血”を踏むことになる。

 古い地侍も、蘆名の残党も、農民も、商人も、僧も――

 すべて、お前の前に立ちはだかる」


「それがどうした」


 湊は拳を握った。


「変わらないまま死ぬ土地より、変わって生きる土地の方がいい。

 俺が選ぶのはそれだけだ」


 南の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。


「……ならば、生き残れ。

 この先、お前は“南”より恐れられるぞ」


「上等だよ」


 湊は前へ進む。


「南。

 会津はお前の私物じゃない。

 ここから先は……俺が仕切る」


 南はゆっくりと微笑した。

 その笑みは、敗北ではなく了承だった。


「ならば――」


 松明を放り投げ、闇の中へ身を投げる。


「来い。

 井戸の底で決着をつけよう」


 闇が、南を飲み込んだ。


 湊は井戸を見下ろし、深く息を吸った。


 雪が舞い、夜が沈む。


 湊は言った。


「……行くぞ。

 ここから先は、会津の“根っこ”だ」


 仲間たちが頷いた。


 雪の夜は、まだ終わらない。

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