84話: 雪の夜、二つの影が動く
夜の帳が、南山一帯を静かに覆い始めていた。
雪雲が低く垂れ込め、山の稜線は黒く沈み、麓の村々は白い気配に沈む。
会津の冬は、闇が深い。手を伸ばせば、闇そのものに触れられるような錯覚を覚える。
湊は、長い吐息をひとつ落とした。
鼻先から漏れた白い息が、夜気に消えていく。
(……今日で終わらせる)
山上道及から告げられた言葉は、まだ胸の奥でくすぶっていた。
黒幕は複数。
しかも「最初から会津にいた者たち」。
村々を揺らした寺領不正、密造酒の蔓延、南山の井戸……
どれも一本の線で繋がっていた。
(すべての根が、この南山にある)
冷たい風が吹き、雪面が波のように揺れた。
「湊、寒くないか?」
背後から声がした。
浅香が肩に雪を払いつつ追いついてくる。
「平気だよ。……それより、準備は?」
「上泉殿と八代は先に南山の麓に向かった。あとは、田島殿からの文待ちだな」
「田島さん……俺たちを試してるんだよな」
「試してるというより、お前の腹を見てるんだろ。黒幕を“暴く覚悟”があるかどうか、とな」
浅香の声には、わずかに緊張が混じっていた。
湊は歩を進めながら、山の闇を見つめた。
雪はしんしんと降り続き、夜の音を奪う。
ただ、遠くで風が枝を揺らす音だけがかすかに響いていた。
山道を進むと、ふいに視界が開けた。
雪の白、その中央にぽつりと黒い影。
上泉泰綱が、刀を鞘に収めたまま立っていた。
周囲の雪に、彼の足跡だけが規則正しく刻まれている。
「遅かったな、湊殿」
「先に来てたんですか」
「南山は、足音の響きを隠さぬ。敵がここを使うなら、必ず“聞こえる場所”がある。……それを確かめていた」
静かな返答。
上泉の瞳は、暗闇を射抜くように細められている。
「田島殿からの知らせは?」
「まだだ。だが――」
上泉は雪を払うように視線を横へ動かした。
「気配がひとつ。湊殿の足取りを追ってきた者がおる」
その瞬間、浅香の表情が変わった。
「南の刺客か?」
「断定はできぬ。しかし、雪を踏む音が“迷い”を含んでおらぬ。武の心得がある者の歩き方だ」
湊は、胸の奥が冷えたような感覚を覚えた。
(……来たのか)
自分を排除しに来る者が、
この夜に、
南山に。
それは山上が言った通りだった。
「湊、どうする?」
浅香が問う。
「ここで迎え撃つ気か、それとも井戸まで引き寄せる気か?」
湊はひと呼吸置き、山の闇へ視線を滑らせた。
(ここで潰すべきか……
いや、山上は“井戸で会え”と言った)
黒幕そのものが井戸へ現れるなら、
刺客は誘い水に過ぎない。
「……井戸まで引き寄せよう」
決断の声は、意外なほど静かだった。
「俺たちが先回りする。敵の動きを読めば、井戸で確実に捕らえられる」
「湊殿、肝が据わっているな」
上泉がわずかに口端を上げた。
「状況を読む目がある。戦において重要なのは“先の先”を取ることだ。あなたの判断は理に適っている」
その言葉に、湊は胸の奥が少しだけ熱くなる。
(……俺は本当に、戦の何を知っている?)
生前は大学の講義を遅刻し、レポートを追われ、
戦略も用兵も、ただの知識でしかなかった。
なのに今は――
仲間の命の重みが、判断に乗る。
(後戻りなんて、もうできないよな)
雪が激しく舞い、山影が揺れた。
その時だった。
木立の奥、雪を踏む音がひとつ響いた。
キュッ……
キュッ……
三人の視線が一斉に向く。
闇の向こう、わずかに黒が揺れた。
(来た……!)
湊の胸が一瞬だけ高鳴る。
だが、それは恐怖ではなく――覚悟の音だった。
上泉が静かに鯉口を切った。
浅香は体勢を低くし、雪を蹴る準備をする。
風の音が止んだ。
闇が膨らむ。
黒い影が一歩踏み出し――
「湊様」
聞き慣れない声だった。
若くも老いてもいない、平板な声音。
敵意もなく、だが人間らしい温度を欠いている。
「……誰だ?」
「田島重右衛門様よりの伝令にございます」
その言葉に、湊だけでなく、浅香も上泉も硬直した。
「伝令……? こんな時刻に?」
「“井戸の入口まで案内せよ”との仰せ。
湊様、お急ぎくだされ。
南は――予想より早く動いております」
雪明かりに、伝令の顔がかすかに浮かぶ。
浅黒い肌、細い目、無駄のない体躯。
どこか、戦場の空気をまとっていた。
(田島さん……本気なんだ)
湊の喉が、かすかに鳴った。
この夜、命がいくつ消えるのか。
この先にあるのは、決して交渉でも対話でもない。
刃だ。
闇だ。
会津の底に潜む、血の歴史そのものだ。
「南山の井戸まで――案内しよう」
湊は、わずかに拳を握った。
(今日で終わらせるんだ……この闇を)
伝令が深く頭を下げる。
「では――参りましょう。
湊様。
“闇の底”は、すぐそこです」
雪が舞い、風が唸り、
南山の闇が、湊たちを飲み込むように口を開けていた。
南山の雪道は、月の光さえ届かないほど深い闇に沈んでいた。
伝令の足取りだけが一定のリズムを刻み、湊たちはその背を追う。
雪は降り続き、風が吹くたび、白い粉が顔に当たった。
(ここから先が……境界なんだろう)
湊は、胸の奥に重い塊が沈んでいくのを感じていた。
これまでの密造酒、寺領不正、地侍の動き……
すべては「南」という謎の存在に通じていた。
そして今、それがようやく姿を現そうとしている。
だが、“南”とは何者なのか。
複数の黒幕の中心か、それともその象徴か。
答えは、山の底にある。
「ここから下ります」
伝令が振り返った。
その表情は淡々としているが、雪明かりに照らされた顔には、緊張が確かにあった。
「湊様、足元にお気をつけて。
南山の井戸は、古く……深い。
もとは蘆名の軍井戸でございます」
「軍井戸……?」
浅香が眉を上げる。
「会津を守るため、籠城時に水を得る“裏の井戸”。
表の井戸が敵に押さえられた時に備えて、地侍衆が秘密裏に掘ったものです」
上泉泰綱は静かに頷いた。
「なるほど。会津の古い地侍衆が絡んでいる理由が、ようやく読めてきたな」
伝令は小さく息をつく。
「ええ。南が“会津の血”と繋がるという山上様のお言葉は……まことに的を射ております」
道は急に傾斜し、雪に覆われた斜面が続く。
足が沈むたび、冷たさが脛を刺す。
やがて、森の奥に黒い“穴”が現れた。
雪の白さの中、ぽっかりと口を開けた、漆黒の穴。
地面はわずかに凹み、周囲の木々は風に揺れ、井戸を囲むように立っていた。
「……これが」
「はい。南山の軍井戸でございます」
伝令が松明を掲げると、井戸の縁が浮かび上がった。
石積みは古く、苔が張りつき、雪が薄く積もっている。
井戸の底は見えない。
闇が吸い込むように深い。
「敵はまだ来ていないのか?」
浅香が問う。
「南は……必ず来ます。“湊様を排除するため”に」
「排除、か……」
湊は、井戸の闇を見つめた。
胸の中が、一瞬だけざわつく。
(……怖いのか?)
自分に問いかけてみても、答えは返ってこない。
それでも足は動いている。
腹の奥には、確かに火が灯っている。
(逃げるわけにはいかない。
ここまで来て……後ろを向くのは違う)
湊は、ゆっくりと井戸の縁に手をかけた。
「湊殿」
静かな声で上泉が呼びかけた。
「恐れは、あってよい。
だが、飲まれてはならぬ。
武は“心の置き所”を誤ったときに崩れる」
「……分かってる」
「あなたは、この会津に必要な人だ。
正面から南と向き合い、
“あなた自身のやり方”で勝てばよい」
浅香も隣で笑ってみせる。
「湊、お前は強いよ。俺も知ってる。上泉殿も知ってる。八代も、山上も。……田島殿だってそうだ」
その言葉が、胸に刺さった。
(俺は……強いのか?
本当に?)
湊はゆっくり息を吐いた。
凍える空気の中、胸が少しずつ温まる。
「伝令さん。南はどこから来る?」
伝令は、井戸の向こう側――森の闇を指さした。
「“影の道”と呼ばれております。
昔、蘆名が夜間伝令のために整えた細道。
雪でも足跡が残りにくく、音が響かぬ構造になっております」
「じゃあ……もう近くまで来てる可能性は?」
「高いでしょう。南は足音を立てぬ。南の配下も同じです」
その時――
風が止んだ。
森が、息を飲んだように静まり返る。
(来た……)
湊の背筋が、自然と伸びた。
影が、森の奥でふるりと揺れた。
一人ではない。
二つ、三つ……いや、もっとだ。
黒い影が、雪の白にじわりと滲み出してくる。
「湊殿、構えを」
上泉が鯉口を切る。
浅香はすでに二刀を握っていた。
伝令は、一歩だけ後ろに下がった。
(やるしかない)
心臓が高鳴る。
だが、足は震えない。
影たちが、雪面を踏みしめて近づいてくる。
「湊殿――」
影の中から、ひときわ大きな男が声を発した。
「南の命により、“お前を裁く”」
「裁く……?」
「会津に“余計な風”を吹かせた報いだ」
男が踏み出すたび、雪が圧し潰されるように沈む。
「密造酒を破り、寺領を動かし、賄賂を断ち、南山の底に触れた。
お前は……触れてはならぬ“地力”に手を伸ばした」
「だから……俺を消しに来たわけだ」
「当然だ」
影たちが、一斉に構えを取った。
(上泉さんでも……多勢相手は厳しい)
湊は唾を飲み込んだ。
だが、そこで伝令が静かに言った。
「湊様。
“地力”とは、誰のものか分かりますか?」
「……誰のものなんだ?」
伝令は、影の群れではなく、湊を見つめた。
「――民のものです。
地侍のものではない。
南のものでもない。
ましてや黒幕のものではない」
影たちがざわりと揺れた。
「お前……何者だ?」
影の頭領が叫ぶ。
伝令は雪の上に足を開き、深く息を吸った。
「田島重右衛門配下――
“会津の底を守る者”。
南の勝手は、今日で終わりだ」
「裏切り者かああああ!」
影たちが一斉に動いた。
雪が跳ね、闇が裂けた。
上泉の刀が最初に閃いた。
白い線が走り、影の腕を弾く。
浅香が続き、影を横へ叩き飛ばす。
伝令は武術に長けていない。
それでも身軽に動き、影の進路を塞いだ。
湊は――一歩前に出た。
(逃げない……
ここで終わらせるんだ!)
雪を蹴り、影へ拳を叩き込む。
打撃は軽い。だが、動きを止めるには十分だった。
上泉の柄打ちが追撃する。
影が倒れ、雪に沈んだ。
「ぐ……う……
湊……てめぇ……
“南より……怖ぇ”よ……」
掠れた声が、吹雪の中に消えていった。
静寂。
風が戻り、雪が舞い始めた。
湊は、強く息を吐いた。
(終わった……?
いや、違う)
影は南の“使い”。
本体は井戸の底にいる。
伝令が近づき、静かに告げた。
「湊様。
ここからが――本当の“底”です」
上泉も浅香も、湊を見る。
雪は深く、闇は濃く、井戸は沈黙している。
(行くんだ……必ず)
湊は、井戸を見つめた。
その底に――
すべての答えが待っている。




