83話:南山の影
行くぞ。明日は……もっと深く踏み込む。
湊がそう言い切ったとき、雪を踏む足音は四人分だった。湊、慶次、田島、そして“誰にも気づかれぬよう”距離を置いて歩く男――斥候役の吉之丞である。夜気は張り詰め、雪の冷たさは足首からじわりと染みてきたが、湊の心に迷いはなかった。
南町屋敷の井戸――あそこには何かが隠されている。金の流れ、名の伏せられた黒幕、“南”という存在。全ての線が今、井戸の底へ向かって収束している。
宿へ戻る途中、雪明かりのなかで慶次がふと横目を向けた。
「湊。おまえ、今日は何も言わねぇな」
「言葉にするより、考えることが多すぎる」
「……だろうな」
慶次の声は低く、冬の夜の空気によく馴染んだ。
田島が小走りで追いつき、息を白くしながら言った。
「湊殿。さきほどの“あれ”……密使が告げた言葉は、本気であるとお考えですか」
湊は雪を踏みながら答えた。
「本気だ。あれは脅しではない。こちらが一歩踏み込めば、向こうもためらわず刃を出す」
「ですが……湊殿、向こうはまだ、あなたを殺すつもりはないように見えました。もし本気であれば、井戸に近づいた瞬間に斬っていたはず」
「そうだな。だからこそ、余計に厄介なんだ」
“生かしておく理由”がある――その事実が湊の胸に重く乗っていた。
宿へ戻ると、雪から逃げるように閉じた戸の隙間から、温かな灯火が漏れた。湊たちは廊下を静かに進み、部屋へ入る。囲炉裏の火はまだ赤く残っている。湊は外套を脱ぎ、黙って腰を下ろす。
田島が湊の前に座り直し、慎重に話を切り出した。
「湊殿。“南”について……少し、考えがございます」
「聞こう」
「南町屋敷の井戸。あれは、古い会津の屋敷の造りでは常に“あるもの”です。ですが、あの井戸は……妙でした」
「妙?」
「はい。水を汲むための縄の跡が浅いのです。つまり――」
「長く使われていない」
「ええ」
湊は顎に手を当て、天井を見上げる。
(使われぬ井戸……それでも金が流れ込む)
慶次が火箸で炭をつつきながら言った。
「なら、そこに“何かを隠してる”ってことか。もしくは、出入り口になってるとかよ」
「地中の通路……か?」
湊が呟くと、田島は深くうなずいた。
「会津には古い抜け穴や横穴が多いのです。特に蘆名の旧家が使ったものが。地形的に、館跡の地下には通路が残っている可能性があります」
「蘆名……」
湊の胸に、あの密使の言葉が蘇る。
――“戻している”のです。かつての“ある家”に。
囲炉裏の火がパチリと弾けた。
その音に重なるように、部屋の外で誰かの足音が止まった。
吉之丞だ。
「湊殿……ひとつ、お耳に入れたいことが」
「入れ」
吉之丞は周囲を確認してから、そっと膝をついた。
「井戸の周囲を軽く探りました。……妙な跡がございました」
「妙な跡?」
「ええ。雪の上の……“四人の足跡”です」
湊の目が鋭く光った。
「四人?」
「はい。井戸の周囲を囲むように、一定の間隔で立っていたように見えます。番をしていたのでしょう」
「つまり、“井戸を守る者”がいる」
「はい。……しかも、足跡の深さから、おそらく全員が武士」
湊は短く息を吐いた。
(やはり、南は一人ではない)
その時だった。
宿の戸が、静かに、ほんのわずか――軋んだ。
慶次が即座に刀へ手を伸ばす。
「来やがったか……?」
「待て。音が軽い」
湊は手で制し、耳を澄ませた。
戸の外から聞こえるのは、雪を払うかすかな衣擦れ。
次の瞬間――
コン……と、遠慮がちな戸叩きが鳴った。
「湊殿……おられますか……」
聞き覚えのない声だった。だが、その口調には妙な落ち着きがある。
吉之丞が戸を開ける。
荒縄を巻いた杖をつき、年配の男が静かに立っていた。雪まみれの肩から湯気が立っている。
湊はその姿を見るなり、息を呑んだ。
「……あなたは」
田島が小さく声を漏らす。
「湊殿……この方は……山上道及殿です」
慶次が刀から手を離し、湊は静かに姿勢を正した。
――山上道及。
かつて天正十八年、宝衍とともに関八州の絵図を描き、佐野家改易後には牢人となり、近年は上杉家の下で地形・城郭の調査を行っていたという男。
井戸。
抜け穴。
地中の構造。
そして“古い会津”を知る者。
全てに繋がる人物が、ついに姿を現した。
山上は深く頭を下げた。
「湊殿。……お待ちしておりました」
湊の眉がわずかに動いた。
「待っていた?」
「はい。南町屋敷の井戸――あれは“入口”にすぎませぬ。
湊殿。あなたが踏み込もうとしている“その先”……私は、その全てを知っております」
囲炉裏の火が一瞬だけ揺らいだ。
湊は静かに息を吸い込んだ。
「山上殿……あなたは、どこまで知っている」
山上の口元が、わずかに震えた。その声音は、雪より冷たく、しかし深い悲しみを孕んでいた。
「――会津の“底”まで、すべて」
湊は拳を握り、目を細めた。
(ついに核心へ届く――)
その瞬間、外の夜風が戸を鳴らし、雪が舞い込んだ。
まるで、会津そのものが息を呑んだかのように。
闇が一段と深くなる。
湊は覚悟を決めた。
ここから先は、もう引き返せない。
戸を揺らす風が止むと、途端に室内は静寂に包まれた。
先ほどまで燃えていた囲炉裏の火すらも、息を潜めているように見える。湊は、凍える空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
(ここから先は……戻れん)
覚悟というより、腹の底に落ちる“重み”だった。もう、この冬の闇と真正面から向き合うしかない。
「湊殿」
山上道及が静かに声を掛けた。
白髪まじりの髷、細いが鋭い眼光。上方で磨かれた所作のはずなのに、どこか野太さが混じっている。それが、彼が歩んできた戦乱の歳月を物語っていた。
「……先ほどの話、詳しく聞かせてもらえますか」
湊の声は低く、しかし濁りはなかった。
山上は頷き、膝を少し寄せて座り直した。まるで、今話す内容が“外へ漏れるだけで命を落とす”と心得ているかのようだ。
「湊殿。あなたは、お優しい」
「優しい……?」
「会津へ来てまだ一年も経たぬ身。
にもかかわらず、村と寺の争いを収め、密造酒も潰さず、三奉行すら煙に巻いた。
――だが、それゆえに危うい」
「どういう意味です」
「あなたは、まだ“会津の闇”を知らぬ」
山上の声音は、雪の底から響くように冷たかった。
「蘆名、伊達、蒲生――領主が変わるたび、地図も制度も作り替えられた。
わしはその都度、絵図を描いた。
城下の裏路地、地下へ伸びる導水路、領主館へ通じる隠し階段。
絵図を描く者は、領主よりもこの地を知ることになる」
湊の背筋に、ひやりとした感覚が走った。
「……だから、“横穴”を知っている」
「そうです。南山の井戸の背後にある横穴――あれは蘆名でも伊達でもない。もっと古い時代、会津の‘ある家’が造ったものです」
その言葉に、浅香が眉をひそめる。
「ある家、とは……?」
「蘆名以前から、この地に根を張っていた‘地侍の一統’です。
名は……ここで言うのは危険でしょう」
山上はわずかに首を横に振った。
「今、名を出せば雪が色を変えますよ。
――それほど根深い」
曽根が低い声で呟く。
「……じゃあ、そいつらが“南”か」
「南は“名前”です。しかし、“名代”のようなもの。
地侍の古い一統が動く時に使う、表向きの顔」
「では、黒幕はその地侍の……?」
「まだ早い」
山上の声が鋭くなった。
「湊殿がここへ来た時、会津は二十年の濁りを抱えていました。
蘆名が滅び、伊達が入り、すぐに蒲生。
そして蒲生が会津を離れ、上杉が入る。
その混乱の中で、“ある者たち”が城の底で息を吹き返したのです」
「…………」
「寺領の乱れも、密造酒も、南山の井戸の封印も――すべて繋がっています。
湊殿、あなたが見たものは、ほんの‘入口’です」
室内の空気が、さらに冷え込んだ。
湊は、思わず山上の目を見た。
「……では、彼らは何を望んでいる?」
山上は、囲炉裏の灰を指で掬い、ぽとりと落とした。
「“戻ること”です」
「戻る……?」
「はい。かつて自分たちが治めていた場所へ。
会津という大地の主であった頃へ。
領主が何度変わろうとも、地中深くに眠る井戸と横穴は奪われません。
彼らは、城の下を通じて“かつての主の座”を取り戻そうとしているのです」
浅香が歯を食いしばった。
「ふざけるな……。上杉家を乗っ取る気か」
「乗っ取る、というより――“戻す”のです。
彼らにとっては、それが正義であり、歴史ですから」
山上は、どこか哀しげに言った。
湊は拳を握った。
雪の冷たさよりも、胸の奥が冷える。
(上杉でも、蒲生でも、伊達でもない……
もっと古い、会津そのものの“地脈”)
「山上殿」
「はい」
「何故、あなたは私に協力を?」
山上は、少しだけ目を伏せた。
「……わしは、もう絵図を描けません。
この地に潜む闇を知りすぎた。
だからこそ、“外から来た者”に託すしかないのです」
「外から……?」
「湊殿。あなたは会津の血ではない。
上杉でもなければ、古い地侍でもない。
だから、“色”がつかない。
あなたの手だけが、会津の闇を掬い上げられる」
その静かな言葉が、湊の体の奥に響いた。
(俺は……だから呼ばれたのか)
「では、どうすればいい」
「明日、南山へ向かいなさい。
井戸の底まで降りる覚悟で」
「井戸の底……?」
「南は、そこに来ます。
そして、あなたを“排除するか、仲間に引き入れるか”を決めに来る」
八代が大げさに肩をすくめた。
「なんだよそれ……殺すか抱き込むかって話かよ」
「その通りです」
山上は淡々と答えた。
「湊殿。明日の夜は、生きて帰れぬかもしれません」
その静けさが、逆に重かった。
湊は深く息を吸った。
「だが……行きます」
山上は、少しだけ目を細めた。
「――その覚悟こそ、わしがあなたを選んだ理由です」
立ち上がり、戸口へ向けて歩き出す。
「では、わしは“道”を整えておきます。
湊殿……明日、生きて会いましょう」
戸を開くと、外の雪が一気に吹き込んだ。
山上の影が雪の闇に消えた後、
室内には湊たちだけが残された。
浅香が低く問う。
「湊……どうする?」
湊は、ゆっくりと拳を握った。
「行く。
南山の井戸へ。
すべてを……暴く」
雪の夜が、深く深く、彼らを包み込んでいった。




