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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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82話: 井戸の影

会津若松の夜は深かった。城下に降りた雪が光を吸い、闇は重く沈み込んでいる。湊は、田島重右衛門と別れた寺の裏道をひとり歩いていた。遠くから聞こえるのは、風が屋根瓦を撫でる音と、行灯の火が揺れる微かなざわめきだけ。人の声はなく、城下はまるで息を潜めているようだった。


 胸の奥では、田島の言葉がまだ冷たい棘のように刺さっていた。


(“南”は地名ではない。人物……そして、黒幕は一人ではない)


 それは湊が最も恐れていた形だった。敵が一人なら斬れる。しかし複数、それも古くから会津の地に根ざした者たちならば――。


 白い息が、夜気に溶けて消える。


(戻している……かつての“ある家”に。田島の言葉……あれは確信だ)


 その「ある家」とは誰か。

 蘆名の残党か。それとも蒲生家の旧臣か。

 あるいは――もっと古い勢力か。


 湊は眉を寄せ、歩みを少しだけ速めた。


 城下の南へ向かう途中、路地の角に影があった。行灯に照らされた雪が銀色に光り、その中で何かが動いた。手は自然と脇差へ添えられたが、足は止めずゆっくりと歩く。


「湊」


 影から現れたのは、浅香だった。雪を肩に乗せ、息を白く吐いている。


「村から戻った。酒の“運び手”を追ったが……半人前の若い衆ばかりだ。黒幕の名前までは辿り着けねぇ」


「動きはあったか?」


「……ああ。今夜、“南町屋敷の井戸”で荷を動かす。寺の僧が言っていたのは本当だった」


 湊は足を止めず、ただ顔だけで浅香を見た。


「やはり……動くか」


「黒幕が“待っている”動きだな。お前が出てくるのを」


 浅香の声には、怒気にも似た刺があった。


「湊、気をつけろよ。相手は、お前を殺すために網を張ってる」


「わかってる」


 静かに答えると、浅香は舌打ちした。


「わかってるなら、なんでそんな落ち着いてんだよ」


「落ち着いてない。ただ……夜はまだ長い。焦ったら負けだ」


 その時、別の影が合流した。

 雪の中にも似合わぬほど堂々とした気配――前田慶次だった。


「小僧。寺と藩府の間で揺れてたみてぇだが、腹は決まったか?」


「決まったよ。黒幕を追う。会津を壊すなら――必ず止める」


 慶次が大きく笑った。


「よし、その目だ。死ぬなよ、小僧。死んだらつまんねぇ」


 さらに、三雲成持と名古屋山三郎も現れた。雪に覆われた道に、六つの影が並ぶ。その気配は、冬の夜を切り裂くほど強かった。


「湊殿。福地屋の商人からの聞き取り、終わりました」


 名古屋が息を整えながら言った。


「“南”の名は、商人の口には出てこぬ。ただ……“南の方角”に荷を送る者がいることは確か。場所は、南町屋敷の裏手。井戸です」


「井戸……」


「はい。ただの水場ではありません。かつての藩主が使っていた“外の通路”が、あの井戸に繋がっていたという話もあります」


「抜け道か……」


 慶次が鼻を鳴らす。


「黒幕どもは、逃げ道まで確保してやがるらしいな」


 三雲が眉を寄せた。


「湊殿。黒幕が複数であれば、必ず“会津の旧支配層”に関係があります。蘆名、蒲生――そして……」


「……そして?」


「“会津に残り続けた者”です。領主が変わろうとも、生き残り、根を張り続けてきた者たち」


「田島重右衛門は、それを言いたかったのか……」


 湊は深く息を吸い、寒気で肺が痛むのを感じた。


(南町屋敷の井戸……あそこに、黒幕の手が潜む)


 その時だった。


 背後の細い路地から、老人の息が混ざったような足音が近づいた。


「差配殿……!」


 あの寺の下僧だった。肩で息をし、顔は煤で黒く汚れている。


「どうした」


「“次の荷”、今夜……動かします。黒い直垂の御方が……“お前の動き次第で、寺の行く末が決まる”と……」


 湊の仲間たちが一斉に表情を変えた。


「湊。これは罠だ」


 浅香が即座に言う。


「寺を人質にして、お前を南町屋敷へおびき出すつもりだ」


「……わかってる」


 だが、湊の瞳には迷いがなかった。


「行く」


「おい、湊!」


「寺を見捨てるわけにはいかない。黒幕の狙いが何であれ、この夜を逃せば証拠はすべて消える」


 慶次がふっと笑った。


「なら、決まりだな。行くぜ、小僧。死地ってのは、踏み越えてこそ戦よ」


 名古屋が頷き、三雲が短く息を吐いた。


「湊殿。井戸の周囲は、南町屋敷の外壁と森に囲まれております。逃げ道は多いが……敵の潜み口も同じほどある」


「了解した。八代と曽根は?」


「寺の周囲を見張っているはずです」


 湊は城下の南を見た。

 闇が濃く、雪は静かに降り続いている。


 その闇の向こうに――

 密造酒の流通。

 寺と村の対立。

 藩府の影。

 そして“南”と呼ばれる者たち。


 すべての糸が、南町屋敷の井戸へ向かっていた。


「行くぞ」


 湊の声は、夜の空気を切り裂いた。


 六つの影が、雪の中へと歩み出す。


 ただの井戸ではない。

 そこには、この冬の会津を揺るがす“答え”が待っている。


 湊は、胸の奥の恐怖を押し潰すように息を吸った。


(逃げずに向き合う。俺が来た理由は、それだけだ)


 南町屋敷へ――

 黒幕との“初めての対面”へと、夜の雪を踏みしめて進んだ。

南町屋敷へ向かう道は、雪が深く積もり、足を踏み入れるたびにキュッと冷たい音がした。月は雲に隠れ、行灯もまばら。城下の南外れは、まるで“音そのものが凍った”ような静けさだった。湊は仲間たちの気配だけを背中で感じ取りながら、歩みを止めなかった。


(今夜で、すべてが動く)


 田島重右衛門の言葉、寺の下僧の告白、そして南町屋敷へ向かう荷の話――すべてが一本の線を結んでいる。ほんのわずかな違和感すら見落とせば、命を落とす。そんな空気が、この夜には満ちていた。


「湊」


 浅香が小声で呼んだ。雪を踏む音にも紛れない、鋭い声。


「南町屋敷までは、あとわずかだ。気配が変わった。……誰かいる」


「感じるか?」


「ああ。森の奥に“潜んでる”。人の息が混ざってる匂いがする」


 名古屋がわずかに前へ出た。視線は闇の奥、井戸があるはずの方向へ向いている。


「湊殿。井戸は森に隠れております。かつて町屋敷の裏通路として使われていたため、周囲には古い溝や石垣の名残がある。伏兵が潜むには、絶好の場所です」


「なら、敵は必ず仕掛けてくる」


 三雲が低く頷いた。


「湊殿。寺の僧が恐れていた“黒い直垂の人物”――おそらく今夜、姿を現します。密造酒の荷を流すだけでなく、あなたを排除するために」


 慶次が笑った。


「なら上等だ。網を張るってんなら、真っ向からぶち破ってやりゃいい」


 岡左内は鼻を鳴らした。


「気楽に言うなよ、前田殿。相手は会津の地に何十年も根を張り続けた“地の者”だ。地形も、逃げ道も、伏せ場所も全部知ってる」


「だからこそ面白ぇじゃねぇか」


 対照的な二人の言葉に、湊の胸の中で緊張と覚悟が細く張り合った。


(敵は小手先では動かない。寺を揺さぶり、商人を使い、村を巻き込み、藩府の隙を突く……それが“黒幕”の仕事だ)


 南町屋敷の裏へ続く小道が見えた。その先――深い闇の中に、井戸の影がかすかに浮かんでいる。湊は深く息を吸い、雪の冷気で肺が刺されるような痛みを感じた。


 歩みを進めるにつれ、空気が変わった。

 重い。

 固い。

 どこかで何かが“息を潜めている”。


 上泉伊勢守が、ふっと声を落とす。


「湊殿。敵の刀気が、風に混じっております。井戸の近くに、最低三。森の陰に二。……いや、もっとおりますな」


「……わかりました」


 湊は仲間たちの顔を一人ひとり確かめた。


「ここから先は、俺が先に行く」


 浅香がすぐに噛みついた。


「バカ言え。お前一人で行かせるかよ。命狙われてるってのに」


「狙われてるからこそ、俺が出るんだ」


「理由は?」


「俺を出すために仕掛けてきた。なら、俺が出なければ“黒幕が動かない”。」


 その言葉に、静かに頷いたのは三雲だった。


「確かに。差配殿を見せなければ、敵は姿を現しません。狙いは“湊殿の排除”。敵の中心が動く瞬間を捉えなければ、黒幕には辿りつけぬ」


 名古屋が短く息を吐く。


「湊殿一人では危険すぎる。だが……今回はそれしかないのも事実」


 湊は雪の積もった地面に目を落とした。

 白い。

 静か。

 冷たい。


 その下に――血が流れる未来が、薄く見えた。


「……俺は逃げない。寺も村も、この地も守るって言った。なら、今夜ここに立たなきゃ嘘だ」


 慶次がふっと笑みを深めた。


「小僧。よく言った。なら俺らの役目は一つだ」


「逃げ道を塞がず、ただ見守ってください。敵の本丸が出てくる瞬間を――逃さないために」


「まかせろ。獲物が出てきたら、真っ二つにしてやらぁ」


 上泉が静かに手を添えた。


「私は湊殿の“後ろの間合い”を守りましょう。敵が横から襲っても防ぎます」


 湊は深く息を吸った。


(行くぞ)


 ゆっくり、足を前へ出した。


 井戸の周りは雪が少しだけ薄く、まるで“人が踏み固めた跡”のように見えた。夜風が吹き、井戸の板蓋がカタリ……と鳴る。


 湊は蓋の方へ歩み寄る。敵はまだ姿を見せない。

 だが――気配は濃く、吐息すら震えそうなほど近い。


(来い)


 その瞬間だった。


 井戸の向こう――雪の中に、黒い直垂がふわりと揺れた。


 湊の視界が研ぎ澄まされる。

 雪が舞う音すら消え、世界が一瞬、息を飲む。


 黒い直垂の人物が、井戸の陰からゆっくりと姿を現した。


(……あれが)


 寺を脅し、密造酒を黙認し、村を揺さぶり、商人を使い、藩府の目をかすめ続ける影――。


「お待ちしておりました、差配殿」


 声は低く、柔らかく、そして刺すように冷たい。


 湊は一歩、前に出た。


「貴方が“南”か?」


「南? ……さて。人は皆、いくつもの名前を持ちましょう。どれを呼ばれたいかは、時と相手次第」


 仮面のような笑み。

 細い体。

 冬の闇に溶けるような声。

 寺の僧が怯えた理由が、湊にははっきりと理解できた。


「密造酒、封戸、寺領……そして藩府の金の流れ。それらを操っていたのは貴方か」


「操る、とは。……見えぬところを繋ぎ直していただけです。“戻すべきところへ、戻すために”」


 田島重右衛門の言葉が脳内で再び響く。


(戻している……“かつてのある家”に)


「その“ある家”とは――蘆名か?」


 黒い直垂がわずかに揺れた。

 笑ったのかもしれない。


「差配殿。貴方は会津へ来て、まだ二か月。だというのに……随分と深いところまで手を伸ばされましたな」


「会津を壊すつもりなら――止めるだけだ」


「壊す? まさか。壊れていたものを、元に戻すだけでしょう。“主を失った家”が、主君を取り戻すのは罪ですか?」


 雪が風で巻き上がり、二人の間を白く隔てる。


 湊は言葉を選ばなかった。


「罪だ。今の主は景勝様だ。俺たちは会津を守るために来た」


「守る……? この地を、たった二か月で?」


 その声音には、冷笑が混ざった。


「会津は二十年、主を失い続け、領土を削られ、民は彷徨った。蘆名が倒れ、伊達が去り、蒲生が死に、今は上杉。……誰がこの地に根を張ってきたと?」


 湊は拳を握りしめた。


「だからこそ、今は上杉の地なんだ」


「上杉? ……やがて去るでしょう。殿下がどう動かれるか、ご存じないと?」


(伏見……家康……景勝様の召集……)


 湊の背に、冷たい流れが走った。


 黒い直垂が、さらに低い声で囁いた。


「差配殿。“主を取り戻したい者”は、貴方を敵に回します。ですが……敵でなければ、味方にもなれましょう。会津は広い。誰を守り、誰を捨てるか――選べます」


「……俺は、会津全部を守る」


「その言葉が命取りですよ」


 黒い直垂がわずかに手を伸ばした。


 その瞬間――

 木々の陰から飛び出した影があった。


「湊、伏せろ!」


 浅香の叫びが夜を切り裂いた。


 何本もの矢が闇から放たれ、雪を裂いて飛んだ。


 湊は横へ跳び、地面に転がる。


 慶次が前に出て刀を抜き、三雲は背後へと回り、名古屋が周囲を警戒する。


 和泉守兼定の抜き打ちが閃き、矢を打ち払うように風切り音が響いた。


「おい、小僧! やっぱり狙われてんじゃねぇか!」


「わかってた!」


 黒い直垂は井戸の影に戻り、その背を森の闇に溶かしていく。


「待てっ!」


 湊が追おうとする。


 だが――

 井戸の向こうで、黒い直垂が最後に静かに振り返った。


「差配殿。また“明日”」


 次の瞬間、その姿は雪の闇に消えた。


 残されたのは、白い息と、舞い散る雪だけ。


 慶次が舌打ちした。


「逃げやがったか。クソ狡い野郎だ」


 三雲が雪の上の足跡を確認する。


「井戸の向こう……森の小道を使ったようです。地形を完全に把握している」


 名古屋が息を吐いた。


「湊殿。黒幕の輪郭が見えてきました。ですが……まだ名は掴めません」


「いい。今夜はこれで十分だ」


 湊は深く息を吐いた。

 胸の奥が痛むほど強く、そして静かに。


(必ず――暴く)


 黒幕の名も、目的も。

 会津の地に残された“古い血”の形も。

 すべてこの手で、暴く。


「行くぞ。明日は……もっと深く踏み込む」


 湊の足が雪を踏む。

 その後ろを、仲間たちが静かに続いた。


 雪の夜は、まだ終わらない。

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