81話:雪影に潜む者
霜月の会津若松は、冬の入口をゆっくりと閉じつつあった。薄い朝靄が城下の屋根を包み、まだ凍りきらぬ水面のように静かに揺れている。若松城の天守だけが群青色の空気を突き刺し、遠くを睨むようにそびえていた。
湊は、白い息を吐きながら城下町のはずれを歩いていた。藩へ入ってまだ二か月。越後とは違う空気が肌にまとわりつく。新参者を値踏みするような視線。土地に根を下ろす前の、どこか浮ついた地面の感覚。
(落ち着かない……いや、会津の方が俺を観ているのだ)
三奉行から与えられた役目――「金の流れを洗え」。
それは、帳簿の齟齬を探すだけではない。帳簿に“書かれないもの”を掬い上げる仕事だった。寺、村、商人……どこかで金が消えている。消えた金の先に、“南”がある。
(南……誰だ? 何者だ?)
城下に近づくほど、人影が増える。だが、湊の背筋を刺すような視線は、別の場所からだった。
(……また尾けられている)
ここ数日ずっとだ。雪道を歩けば、遠くで同じ足音が鳴る。曲がれば、曲がった先に影が揺れる。尾行は巧妙だったが、やりすぎだ。こちらを試しているとさえ思える。
湊は、あえて尾行を無視した。
今日は、どうしても会わねばならぬ人物がいる。
田島重右衛門――直江家の与力筋で、上杉家中では堅実な働き手として知られる。人の好き嫌いがはっきりしており、情に流されず、淡々と務めをこなす男だと聞く。
(だが、三雲さんが言っていた。“あの男は、何かを抱えている”と)
田島の屋敷は、城下の南にあった。雪を踏む音が近づき、湊の脇を風が抜ける。
「湊殿、お待ちしておりました」
門の前に立っていたのは、噂通りのきっちりした男だった。五十近いが背は高く、痩せている。その目はまっすぐだが、底に何か沈んでいるように見えた。
「お初にお目にかかります。田島重右衛門です」
「湊です。お時間をいただき、ありがとうございます」
短く挨拶すると、田島は淡々と頷く。
「……帳簿の件でございましょうな」
「ええ。寺と村、そして町の商人――それぞれの帳簿が合いません。金の“抜け道”を探しております」
「なるほど。では、座敷へどうぞ」
屋敷に入ると、静寂が支配していた。どこか冷たく、風が抜けないのに寒い。人の気配が薄い。
(……家人が少ない? いや、減らしているのか)
田島の足音は重かった。座敷に入ると、古い帳面が積み上げられていた。
「これは、わたしが預かっておる“福地屋”の帳面です。先日、湊殿が聞き込みされた町の商人ですな」
「はい。“南へ流れている”と」
「ええ、その通りです」
田島は一冊を開き、湊へ差し出した。
「この“南”――地名ではありません。人物の名です」
湊は息を呑んだ。
「人物……?」
「はい。福地屋は毎月一定額を“南”とだけ記した相手に納めております。酒代、油代、薪代……名目は変わるが、すべて“南”へ」
「どこの誰なのかは?」
「職名も家も書いておりません。ただ……」
田島は帳面の端に指を置いた。
「一年ほど前から、急に“南”の記述が増えました。越後の上杉家が会津移封を命じられた頃からです」
湊の胸がひやりとする。
(会津移封と同じ時期……つまり、上杉家が来る“前”から動いている)
「田島殿は、この“南”に心当たりが?」
「すぐに名を出すのは難しい。が……」
田島はふと声を落とした。
「湊殿、“南”を追う前に、ひとつお伝えしたいことがあります。
三奉行――あの三人は、それぞれ考えが違います」
「違う……?」
「はい。ひとりは“改革”を望み、ひとりは“均衡”を重んじ、もうひとりは“利”を求める」
「利……」
「湊殿、これは藩中の噂話ではありません。わたしがこの目で見てきた“動き”です」
湊は思わず膝の上で拳を握った。
「三奉行の中に、密造酒に関わる者が?」
「そう断言はできません。しかし、湊殿が寺で押さえた密造酒――あれを黙認できる立場は限られています」
「つまり、“南”は三奉行の誰かの手の者……?」
「あるいは、本人かもしれません」
湊の呼吸が深くなる。
冬の空気を吸いすぎて肺が冷たい。
(まさか……いや、最初からそうだと感じていた)
湊は帳面をそっと閉じた。
「田島殿。なぜ、協力してくださるのです?」
湊の問いに、田島は初めてわずかに表情を揺らした。
微笑とも、苦笑ともつかない影のある笑みだった。
「湊殿。会津へ移ってまだ二か月のあなたに――この地の矛盾が見えますか?」
「……見えています。いや、見え始めています」
「ならば、それで十分です」
田島は湊の目をまっすぐ見つめた。
「わたしは、この会津が崩れるのを見とうありません。
蘆名が去り、伊達が去り、蒲生が去り……人が移るたび、この地は痩せました。
そして今――上杉が来た。
湊殿、あなた方は“最後の機会”なのです」
湊は、言葉を失った。
(最後の……機会)
田島は静かに続けた。
「だからこそ、あなたには“真実”を掴んで頂きたい。上杉が会津を治められるかどうかは、この冬に決まります」
「冬……」
「はい。この冬に、金の流れを押さえ、“南”を断たねば、上杉家は根を張れません」
田島重右衛門の声音には、覚悟があった。
湊は深く頷く。
「田島殿……感謝します。必ず“南”を見つけます」
田島は湊の言葉に応じ、ゆっくりと立ち上がった。
「では、湊殿。もうひとつお渡しするものがございます」
「……まだあるのですか」
「はい。“帳簿よりも正確なもの”です」
田島は棚の奥から小さな木箱を取り出し、そっと湊の前に置いた。
「これは、商人から密かに受け取った“実物”です。
帳簿に残らない金は、必ず“物”で流れます」
湊は木箱をそっと開いた。
中には――。
(……酒?)
酒の香りがふわりと立ち上がった。
だが、ただの酒ではない。甘く、重く、濃い。
「密造酒です。寺のものと同じ匂いでしょう?」
「……間違いありません。だが、これはどこから?」
「“南”が受け取った荷の一部を、商人が恐れてわたしに渡しました。
湊殿、これが何を意味するか……お分かりですね?」
湊は静かに息を吸った。
(“南”は、寺からの密造酒を受け取っている……
つまり――)
「……藩府が、動いている」
「ええ。湊殿。
あなたはもう、“黒幕の影”に手を触れてしまったのです」
座敷の空気が、痛いほど張り詰めた。
(黒幕は――南。
南とは、三奉行の誰か……
この会津で最大の権限を持つ者)
湊は木箱を閉じ、深々と頭を下げた。
「田島殿。必ず、真実を掴みます」
「頼みますぞ。湊殿……どうか、“会津を守る方”であってください」
屋敷を出る頃には、日はすっかり沈みかけていた。
雪は細かく、静かに降り続けている。
(“南”は必ず見つける……)
湊は足を踏み出した。
その瞬間――背後で雪がきしりと鳴った。
また尾行者だ。
だが、今日は違う。
尾行は“近い”。
(……来るか)
湊が歩みを止めると、雪の向こうの影もぴたりと止まった。
白い闇の中――黒い直垂が、ゆっくりと揺れた。
(明日を待たずして……動き出したか)
湊は無言で、その影と向き合った。
冬の会津は、静かに軋み始めている。
会津の城下を包む夜気は重く、言葉にできぬ緊張だけが薄い白の中に潜んでいた。湊は足を止め、背後から近づいてくる気配に、そっと手を槍の柄へ添える。振り返らずとも分かる。これは、ただの通行人ではない。
(尾けてきた気配……間違いない)
だが、殺気はない。むしろ、こちらの出方を見ているような、妙に探る足取り。
湊は深く息を吸い、ゆっくりと振り返った。
白い息が闇に散る。その向こう、林の影から黒い直垂がにじみ出るように現れた。
「……止まれ」
湊の声に、影は足を止めた。
雪がかすかに音を立て、静寂が落ちる。
「敵意はない。……湊殿に、どうしてもお伝えせねばならぬことがある」
低く抑えた声。若くはないが、老成しすぎてもいない。湊は眉をわずかに寄せた。
「名を名乗れ」
「田島家中――重右衛門様の密使にございます」
湊の瞳がわずかに揺れた。
(田島……?)
田島重右衛門――上杉が会津に入った際、旧伊達・旧蒲生領からの行政継承において実務の大半を担った人物の一人だ。堅実で、表舞台に立つことは少ないが、民政においては信頼厚い。
その田島が、密使を?
「なぜ、私を尾けた」
「湊殿が“南の流れ”を追っておられると聞き……重右衛門様は、それを放置できぬと判断されました」
「放置できぬ?」
密使は雪を踏みしめ、一歩前に出た。その顔が月光に照らされ、険しく引き締まった輪郭が現れる。
「そなたが追っている金の流れ――その先には、会津の古い闇がございます。触れれば、藩内で誰かが必ず傷を負う。それゆえ……止めたく思ったのでございます」
湊は息を呑む。
止める――ではなく、“止めたく思った”。
そこに宿るのは、警告ではなく、哀しみだ。
(田島は……南の黒幕の正体を、知っている?)
だが同時に、湊の胸に一つの疑念が生まれる。
(もし本当に味方なら、なぜ今まで動かなかった?)
密使は湊の視線の揺れを察したかのように、静かに口を開いた。
「湊殿。今宵お目にかかったのは、重右衛門様の“本心”をお伝えするためにございます」
「本心……?」
「――会津は、壊れかけております」
湊は息を呑んだ。
密造酒、封戸の乱れ、寺・村・町の対立。そこに加えて“南”に流れ続ける金。
湊が追ってきた問題の全てが、一本の線になり始めていた。
「そなたが追っている金は、もとは藩の救済金――すなわち、民を立て直すために上方から入った金子。その一部が、会津の“南”に向けて流れている」
「南……南とはどこだ? 誰だ?」
密使は口を開くが、言葉をこらすように一瞬沈黙した。
湊は踏み込む。
「言えないのか。あるいは――言えばそなたの命が危うくなるのか」
「……湊殿」
密使は小さくかぶりを振った。
「わたしは重右衛門様より“全てを語るな”と命じられております。しかし……一つだけ、どうしても伝えねばならぬことがある」
湊は黙って耳を傾ける。
「“南”は、外の者ではございません。会津の……血の中にございます」
湊の胸に寒風とは違う冷たさが走った。
外部の勢力ではない。伊達でも蒲生でも、上方の商人でもない。
会津内部――しかも血。
(血……家中の誰か。いや、家中の“ある流れ”……?)
密使はさらに口を開いた。
「湊殿。黒幕は……一人ではございませぬ。複数です。そして、皆“最初から会津にいた者”」
「……!」
「ゆえに重右衛門様は、そなたに深入りしてほしくなかった。どれほど正義があろうと、会津はまだ上杉の地となって一年。深く踏み込めば、必ずや軋みが生まれる」
湊は目を閉じ、一瞬だけ静かに息を整えた。
会津は表向きこそ従順に見える。だが内実は、旧蘆名、旧伊達、旧蒲生の三つの民政文化が混在し、領主が代わるたびに制度も価値観も変動した土地だ。
(会津の“血”――それは、代々この地を支配してきた者たちの残した影ということか)
密使は続けた。
「詳しく語れぬこと……お許しください。しかし一つだけ申し上げる。
湊殿、そなたが追う真相は――三奉行の誰も手を出せぬ場所まで続いております」
「三奉行でも手出しできぬ……?」
「はい。ゆえに、そなたに“金の流れを洗え”と命じたのです。奉行方も、真相そのものには触れられぬ。触れれば、自らの身が裂けるから」
湊は背筋に冷たいものが走る。
(奉行たちの“本心”……やはり、ただの命令ではなかったのか)
密使は、雪を見つめながら静かに語った。
「湊殿。会津は――次の領主が決まらぬまま、この二十年を過ごしてきました。主君が変わるたび、しがらみが積み重なり、人の恨みが地層のように溜まっていった。
そこへ上杉家が来られた。民は救いと思いましたが……同時に、古き傷が疼いたのです」
湊は問いかける。
「それで“南”が動き、金を奪っていると?」
「奪っているのではございません。――“戻している”のです」
「戻す……?」
「はい。かつての“ある家”に」
その瞬間、湊の胸に稲妻のような仮説が走った。
(会津の旧支配層……蘆名家の残党か?
いや、単なる残党では金の流れは作れぬ。組織が必要だ。ならば――もっと古く、もっと深い層……)
湊の思考が鋭く深まるのを見て、密使は慌てて口を閉ざした。
「これ以上は申し上げられませぬ。わたしが語れば……会津の均衡が壊れます」
湊は密使を見つめ、静かに言った。
「そなたは、それでも私に会いに来た。それはなぜだ」
「……湊殿なら、会津を壊さぬと。重右衛門様はそう信じておられるからです」
その言葉は雪よりも静かに、しかし深く湊の胸に落ちた。
密使は頭を下げる。
「湊殿。どうか――ご自分をお守りください。
“南”の者たちは、そなたが近づいていることに気づき始めています」
「だから尾けてきたのか」
「はい。そなたに危害を加える気配があれば、止めるために」
湊は苦笑した。
「それであの……不自然な距離か」
「お見通しでございましたか」
「気配だけは、戦場で鍛えられているのでな」
二人の間に、短いが確かな信頼の気配が生まれた。
やがて密使は背を向けた。
「今宵のことは、どうか御内密に。わたしが誰に会ったか知られれば、重右衛門様もただでは済みませぬ」
「承知した。……伝えてくれ。田島殿に」
湊は静かに言葉を続けた。
「会津を壊す気はない。だが、見過ごす気もない。真相が“血”に根ざすものであれ――必ず形にしてみせると」
密使は振り返り、深く一礼した。
「……湊殿。どうか、お命を」
そう言い残し、闇に溶けるように姿を消した。
湊はその背を見送りながら、雪に足跡を刻む。
(会津の“血”に潜む闇……複数の黒幕……そして“戻す”という言葉)
すべてが収束しつつあるようで、まだ霧の向こうにある。
だが湊は歩き出した。
雪の冷たさの中、心だけは燃えるように熱かった。




