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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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80話:井戸の影

会津若松の朝は、薄い靄に包まれていた。雪がやんだあとの静けさが城下を覆い、家々の屋根からはときおり小さな雪片が落ちてくる。その落雪の音すら、街の空気を引き締めるように感じられた。


 湊は南門へ向かって歩いていた。昨夜、福地屋の主から得た情報――。


(密造酒は、城下の“南”へ流れている)


 その一言が、胸の奥に重く沈んでいる。寺でも村でもなく、町でもない。もっと外側の、藩府の目が薄くなる場所。そこに何者かが密造酒を“待つ者”がいる。


 南門の近くは、城下屈指の物流地帯だ。米、薪、織物、鉄、馬具……会津を出入りする物資の大半がここを通る。その雑多な気配が、湊の足を自然と速めた。


「……気を抜くな。昨夜は尾けられていた」


 隣で歩く浅香が低く言った。雪の踏みしめる音の合間に、昨夜の“黒い直垂の影”が脳裏に蘇る。


「ああ。今日もつけられる可能性は高い。だが、それでいい。泳がせてもらう」


「強気だな。まあ、お前ならやれるか」


 浅香はふっと笑うが、その目は真冬の水面のように鋭い。


「南に流れてる――って情報、商人たちはどこまで知ってるんだ?」


「福地屋の主は“流れているのは知っているが、誰が受け取るかは知らない”と言っていた。商人ですら尻尾がつかめないなら……黒幕は相当慎重に動いている」


「つまり、“藩府の上の方”ってわけだ」


「そうなるな」


 二人の会話を追うように、後方から三雲成持が静かな足音で追いついた。


「差配殿。昨夜の件……尾行者がいたという話、私にも聞かせていただきました。敵は、こちらの動きをすでに読んでいる」


「ああ。だが、それは逆に言えば“焦っている”証拠だ」


「……なるほど。南門付近を調べれば、黒幕の縄張りに触れる可能性が高い、ということですな」


「そういうことだ」


 三雲は軽く頷いた後、少し声を落とした。


「一つ、気になることがあります」


「何だ?」


「南門は、もともと“蒲生家の倉庫群”があった場所です。上杉家に移ってからもそのまま使われ、藩府の財物が一時的に集められることも多い。密造酒の流れを隠すには、実に都合が良い」


「倉庫……か」


「はい。しかも、倉庫番は藩士ではなく“町方役人と古い商人の混合”」


「黒幕が動きやすい、というわけか」


「ええ。誰が何を持ち出しても、帳面上は融通が利く。南門の商人たちが“知らない”と言った理由も、おそらくそこにあります」


 湊は口を引き結んだ。


(南の倉庫……密造酒の受け渡し場所としては最適だ)


 風が吹き、粉雪が頬をかすめた。冷たいが、思考を冴え渡らせるには十分だ。


 南門が見えてきた。


 分厚い木戸の両側には、荷を運ぶ馬や人足の姿が絶えない。男たちの掛け声、馬の鼻息、雪を踏む音。生活の匂いが濃くしみ込み、会津の“出入り口”としての力強さがある。


 だが、その中に――湊はひとつ、不自然な気配を見た。


「……あの男」


 三雲が小さく呟いた。


 湊も気づいていた。南門近くの荷車の陰、地味な町人の姿――だが、動きが妙に硬い。荷物を持っているふりをしているが、手の力が入っていない。視線は一定の幅で揺れ、周囲を探っている。


(……尾行者だ)


 昨夜の黒い直垂とは違う。だが、この男は“観察する側”の視線をしている。


 浅香が低く言う。


「湊。どうする?」


 湊は歩みを止めず、わずかに口を動かした。


「無視だ。俺たちは“調べに来た”のではなく、“いつも通り南門を視察しているだけ”を装う」


「了解」


 三雲が頷く。


 尾行者は距離を保ちつつ、湊たちの動きをじっと見ていた。黒幕は、すでにここにも目を配っている。だが、それでいい。敵が焦って近づくほど、尻尾は掴みやすくなる。


 南門を抜けると、倉庫群が姿を現した。


 雪に埋もれた横長の建物が並び、屋根には深い雪が乗っている。薪を運ぶ人足たちの掛け声が響き、大樽や俵が整然と積まれている。


 冬の倉庫は特に重要だ。食料と物資がここで管理される以上、藩府が最も警戒すべき拠点でもある。だからこそ――黒幕は“ここ”を使う。


「三雲。どの倉庫が怪しい?」


「一つあります」


 三雲は迷いなく指を差した。


 南端、他から距離を置くように建つ古い倉庫。扉の前に積まれた薪は妙に少なく、雪の踏み跡が片側だけ深い。


「……人が出入りしているのに、物が出ていないな」


「その通りです。正規の荷が動いていない倉庫なのに、雪が揺れている」


「中身を見たいところだが……」


「はい。今はまだ危険です。尾行者がいますから」


 湊は視線だけで尾行者の方向を確認した。距離は変わらず、こちらの動きを見張っている。


(あの倉庫……密造酒の受け渡し場所“かもしれない”)


 だが、証拠なしに踏み込めば、湊の立場は一瞬で崩れる。三奉行に任命されたばかり――敵にとって今の湊は“利用も排除もできる”絶妙な位置だ。


(焦るな……敵は必ず痕跡を残す)


 湊はそう自分に言い聞かせる。


「湊」


 浅香が小声で言う。


「尾行者が……増えた」


「なに?」


 湊は動きを止めず、視界の端で確認する。


 確かに――先ほどの男に加え、もう一人、倉庫の陰に小柄な影が立っている。足の動きが軽く、商人でも人足でもない。


(藩府の探索方か……あるいは黒幕直下の連中)


 三雲も低く囁く。


「――差配殿。敵は“湊殿が倉庫に近づくと睨んでいる”ようです」


「なら、逆を突く」


 湊は倉庫から目を離し、道の中央へ向けて歩き出した。


「浅香、三雲。予定通り“南の市”へ行くぞ。密造酒を買った可能性のある商人を探す」


「了解」


「承知しました」


 尾行者は一瞬、動揺したように足を止めた。


(昨日からの流れを断ち切る……これで尾行者の行動が乱れる)


 湊は静かに息を吐いた。


(黒幕よ……焦れ)


 南の市は、冬でも驚くほど活気に満ちていた。


 干し野菜、乾物、鉄具、薪、油、織物、塩、干し魚――生活を支える物資がずらりと並び、商人たちの声が途切れない。雪の中でも人々の熱気が立ち上るようだった。


 湊は人いきれの中をゆっくり歩きながら、ひとりひとりの視線と言葉を拾うように耳を澄ませた。


 そして、その中で――ひとつ、ひっそりとした噂が聞こえた。


「……最近、南の倉庫の灯りが夜遅くまで消えねえらしい」


「なんだ、荷の出し入れか?」


「いや。荷は動いとらん。だが、あそこには“酒臭え風”が吹いてるって話だ」


「酒……?」


「しっ。聞こえるぞ。あの倉庫は昔から藩の“表に出したくないもの”が置かれるんだとよ」


 湊の胸が強く脈打った。


(やはり……南の倉庫だ)


 尾行者は、湊たちの後方を歩きながらも落ち着かない様子で視線を泳がせている。


(敵は、倉庫を見られたくない……それだけは確かだ)


 その時だった。


 市の奥、雪の影に――黒い直垂が、淡く揺れた。


 昨夜見た“黒い影”と同じ色。


(……来たな)


 胸の奥が、静かな炎のように熱を帯びた。


 湊は歩みを止めず、さらに奥へ進んだ。


(来い。今日は“南の影”を引っ張り出す)


 雪が舞い、市の喧騒が遠のく。


 その裏で――黒幕の影が、静かに湊へ迫り始めていた。

市の奥へ進むほど、雪音は柔らかくなった。人の足が多く踏み固め、白い雪が薄い灰色へと変わっている。だが、その中に――明らかに、ひとつだけ“重い雪音”が混ざっていた。


 キュッ……キュッ……


(……同じだ。昨夜、寺の裏で聞こえた足音と)


 湊は視線を向けずに歩いた。まるで背後の気配を気づかないふりをするが、全身の神経はその一点へ集中している。


 浅香もわずかに顎を引き、三雲は袖の中で指を軽く動かした。名古屋山三郎は無邪気な顔で串焼きを食べているが、その視線は鋭く揺れる。


「湊。尾けてきてるぞ。黒い直垂のやつじゃねぇが……同じ“匂い”だ」


「わかってる。焦らせろ。走らせるな」


「了解」


 市の喧騒を抜けると、南門からさらに外側へ続く細道が伸びている。雪の壁が両側に立ち、冬の風が高い音を鳴らして吹き抜けた。


 その道の先には――問題の“倉庫群の裏手”がある。


(黒幕の配下は、俺たちがあの倉庫に向かうと決めつけている)


 つまり、今はひたすら泳がせる。


(……焦れ。焦れ。出てこい)


 その時だった。


 市の陰から、商人風の男がそっと声をかけてきた。


「差配様。ひと言……」


「あんたは?」


「南の倉庫に……何か探しに行かれるんですか?」


「どうしてそう思う?」


「いや……その……」


 男の視線は、湊の背後――“尾行者の方向”へ恐る恐る向けられた。


「あそこで、ずっと誰かが差配様を見てます。気味が悪くて……」


「……ありがとう」


 湊が礼を言うと、男は雪の間に飲まれるように走り去った。


(民も気づくほどに尾が雑になっている……黒幕は焦っている証拠だ)


 雪風に紛れた一行は、南門の外へ出た。


 町の喧騒が遠ざかり、静けさが戻る。雪は細かく、しかし絶え間なく降り、風に流されて白筋を描く。


 雪道の先――古い倉庫群の裏側に出た。


 屋根は重く雪を載せ、壁の板は黒く濡れている。扉の前の雪は、人の出入りで荒れていたが、荷車の轍は少ない。


(荷が動いていないのに、人だけ動く……やはりここだ)


「湊殿」


 三雲が倉庫の横に刻まれた“ある痕跡”に気づいた。


「見てください。この踏み跡……荷を担いだ者のものではありません。軽い。だが数が多い」


「密造酒の樽を……持ち出す量じゃないな」


「はい。恐らく“帳面を弄る者”か、“配下の連絡役”です」


「黒幕の動きが急だ……南門を通さずに、裏から動いている」


 そう言って倉庫の裏手を確認したとき――。


 湊は、雪の上に半ば埋もれた“あるもの”を見た。


 布切れ。


 黒い、上質な直垂の袖の一部。


「……昨夜の黒い直垂の、破れか?」


「雪で隠したつもりでしょうが……雑ですな」


 三雲は布を拾い、指先で軽くこすった。


「これは……藩士のものです。町人はこんな生地を着ません」


「昨夜の寺の裏で見かけた影だ……」


 浅香が急に、低く短く言った。


「湊。尾行者が動いた」


「……どこへ?」


「倉庫の反対側へ回ってる。こっちの動きを見失った」


「なら――今だ」


 湊は深く息を吸った。


(決める。今日中に“南の受け渡し役”を掴む)


 が、その時。


 倉庫の影から、細身の影がひとつ――雪煙の中に姿を現した。


 雪の白と、影の黒が、冬空の下で強く対比する。


 衣は地味な茶色だが、動きは軽い。雪に足を取られない。粗野な人足ではなく、訓練を受けた“探索方”の動き。


(黒幕の部下か……)


 影は通り抜けようとしたが、湊たちを見て一瞬動きを止めた。


 その“躊躇い”が、すべてを物語る。


(――ここで何かしていた)


「浅香、回るな。俺が行く」


「おう」


 湊はまっすぐ影に向かって歩いた。


 距離が、雪の音と共に詰まっていく。


「お前、どこの者だ?」


 湊が問うと、男は唇を固く閉ざした。


 その顔は――昨夜寺に現れた男とは違う。だが、その目は同じ“闇”を宿している。


「ここは藩府の倉庫だ。何をしていた?」


「……」


「答えないか。なら、こちらから聞く。密造酒はどこへ運ばれている?」


 男は肩を震わせた。恐れではない。迷いだ。


 その迷いを見逃さず、湊はさらに踏み込んだ。


「お前たちは、黒い直垂の男の指示で動いているな?」


 影の目が大きく揺れた。


「誰だ? 三奉行の誰かか? それとも……」


「……言えぬ」


 初めて男が口を開いた。その声は、緊張と罪悪感で震えていた。


「言えば……俺は、消される」


「誰に?」


「……それを言えば、寺も……村も……」


 男は雪の上に落ちるように膝をついた。


 湊の胸に、冷たい鼓動が走る。


(寺も村も……“守られている”のか? それとも……“利用されている”?)


「密造酒は――どこへ流れている?」


 湊は、静かに、しかし逃げ道を与えぬ声で問う。


 男の唇は震え、しばし空気を噛むように沈黙した。


 やがて、かすかに声が漏れた。


「……南……“南町屋敷”だ」


「南町屋敷……?」


 三雲が息をのむ。


「そこは、藩士の住む場所です。商人や農民は近づけぬ」


「密造酒の受け渡しを……藩士の屋敷で?」


「違う……屋敷ではない……裏手の……“古井戸”だ……」


「古井戸?」


 浅香が眉をひそめた。


「なんで井戸なんだ?」


「……“夜は誰も来ぬ”からだ……そして……井戸なら……音が消える……」


「音が……消える?」


 湊の眉がわずかに動く。


(三奉行レベルの者なら、“音が消える場所”を利用する……)


 井戸は、地中の空洞と水面が音を吸い、外に漏れにくい。密談や受け渡しには最適だ。


「密造酒は、南町屋敷の裏手の井戸へ運ばれる……」


「……はい……」


「そこに現れる人物は?」


 男は顔を上げ、雪の向こうを見た。目は恐怖と忠義の間で揺れている。


 だが――湊の視線に押され、ついに言った。


「……“細身で、控えめな声の男”……」


「昨夜寺にいた男と同じだな」


「……はい……三奉行の……」


 その瞬間、倉庫群の反対側で――。


 パキンッ!


 雪の枝が折れるような鋭い音が響いた。


 湊が振り向いた瞬間、影は――逃げた。


「浅香!」


「おうっ!」


 浅香が雪を蹴って追う。


 名古屋は反対方向へ走り、三雲は倉庫を守るように立つ。


 湊も追おうとしたが――


 雪煙が激しく舞い、視界が白く塗りつぶされた。


「ちっ……!」


 影は雪の中へ消えていた。


(逃げた……だが十分だ)


 湊は息を整え、冷気を吸い込んだ。


(黒幕は、南町屋敷の井戸に現れる)


(受け渡しは夜。なら、今日の夜――黒幕は必ず来る)


 倉庫の前に戻ると、三雲が静かに言った。


「差配殿。黒幕は、密造酒を自ら捌いている可能性が高いようですな」


「ああ。野心のためか……それとも、藩府内での地位のためか」


「ただひとつだけ言えることがあります」


「何だ?」


 三雲は雪の中で目を細めた。


「黒幕は、“湊殿の存在を恐れている”。だからこそ、焦って尾けを増やしている」


 浅香と名古屋が戻ってきた。


「駄目だ。逃げられた」


「こっちも同じ。雪が深すぎる」


「いい。追う必要はない」


 湊は静かに首を振った。


「敵は、今夜――南町屋敷の井戸に現れる。それを、確かめに行く」


 三雲が頷く。


「罠の可能性もあります」


「わかっている。だが、行くしかない」


(黒幕よ。待っていろ。今度は逃がさない)


 風が雪を巻き上げ、倉庫群の影を揺らした。


 その奥で、確かに“何者か”が息を潜めている気がした。


 湊は城下の方へ向き直る。


(この冬で決着をつける)


 雪の冷たさが、決意をさらに強くした。


 ――その夜、“南町屋敷の井戸”で、すべてが動き出す。

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