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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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79話: 南へ落ちる影

薄い霧が、会津城下をゆっくりと押し包んでいた。

 夜明け前の冷気は鋭く、肌をかすめるたびに意識が覚醒してゆく。湊は城下の裏道を抜けながら、先ほどまで福地屋で聞いた言葉を、何度も反芻していた。


 ──南に、流れている。

 ──大量の銭が、だ。


 一見すれば、ただの商人の噂話に過ぎない。だが湊には、そこに“確かな意思”が働いている気がしてならなかった。


 会津一帯で密造酒が一気に広がったのは、ここ半年ほど。封戸の歪みを突くように、貧しい農家を巻き込みながら、あっという間に根を張った。金の流れを追えば必ず黒幕に辿りつく——三奉行の言葉は、その重みを失っていない。


 湊は歩きながら、掌で白い息を払う。


「……南山、か」


 南山郡。会津の南端、山深く、越後から連れてきた上杉旧臣たちが固める地帯。

 大国実頼を筆頭に、直江家と縁の強い者たちが多い。

 治安は良いとは言い難く、地侍も多い。蘆名旧臣の残り火もくすぶり続けている。


 そこへ大量の金が流れる——。

 考えれば考えるほど、嫌な予感が濃くなった。


 湊は城門近くの茶屋に入り、暖を取りながら、懐にしまった一枚の紙を取り出した。

 黒々と書かれた文字は、三奉行からの命である。


 ──金の流れを洗い、根を断て。


 命は簡潔だ。しかし、その裏には“藩府の内部に不審あり”という暗い示唆がある。

 三奉行のうちの誰か、あるいは背後に別の力が働いているのかもしれない。


「……やれやれだな。こんな大役、若造に回ってくるなんて」


 苦笑しつつも、心の奥は鋭く緊張していた。

 今回ばかりは、失敗すれば命に関わる。

 密造の規模からして、ただの百姓の集まりではない。

 裏で“組織”が動いている。


 茶屋の女中が湯気の立つ蕎麦を置く。

 湊は礼を言い、一口すする。

 冷えた身体に温かさが広がるが、心は逆に冷えていった。


 ——南山には、なぜ越後筋ばかりが置かれたのか。


 上杉が会津へ入封した際、家臣団の再配置は急で、荒れた。だが、そのなかでも南山郡は“異様なほど越後筋だらけ”だ。

 越後の気風が、そのまま山の奥へ入り込むように。


 そこへ金が流れる。

 偶然では済まない。


 湊が箸を置いたその時、戸が開き、堂々たる体躯の男が入ってきた。


「よお、湊。朝から難しい顔してんな」


 前田慶次であった。

 赤い羽織を肩にかけ、寒風をものともしていない。


「慶次さん……どうしてここへ?」


「ん? なんとなく、お前がここにいる気がしてな」


 その言い草は相変わらずだ。

 だが、慶次の勘は異常なほど鋭い。

 湊は軽くため息をつきながら、対面の席に誘った。


「南に、金が流れているらしい」


「ほう……南山郡か?」


 湊が頷くと、慶次の表情から軽さが消えた。

 その変化に、湊は嫌な確信を覚えた。


「何か知っているんですか」


「いや……ただな。南山は、直江の連中の影が強い。地侍も多い。会津の中じゃあ、最も“濁りやすい水場”だ」


 湊の胸がひやりと冷えた。


 慶次が続ける。


「もしそこで金が動いてるなら、裏にいるのは百姓じゃねえ。藩府の連中の中にも、通じてる奴がいるだろうよ」


「……やはり、そうですか」


 湊は、昨夜から胸の奥に引っかかっていた予感を思い返した。


 三奉行は言葉を濁した。

 “藩内に不審あり”と。

 湊はすでに、その不審が誰なのかを考え始めていた。


 だが、まだ確証はない。

 この状態で名前を挙げれば、ただの疑心暗鬼だ。


「湊。ひとつ、聞きてえことがある」


「なんです?」


「もし相手が藩の要職だったら……どうする?」


 慶次の問いは、重かった。

 逃げ道のない問いだった。


 湊はしばらく沈黙し、ゆっくりと口を開いた。


「……暴くか、利用するか。どちらかしかありません」


 その答えに、慶次が薄く笑った。


「そりゃあ、お前らしい。だが——どちらにしても、命を賭けることになるぜ?」


「分かっています」


 湊は湯気の向こうで、静かに拳を握った。

 南へ流れる金。

 密造酒の増殖。

 南山に偏った越後筋の家中。

 藩府の内部に潜む影。


 それらが一本の糸で結ばれつつある感覚があった。


「……行きます。南山へ」


「よし。付き合ってやるよ。どうせ俺も暇だ」


「慶次さんは暇なんですか?」


「ん? いや、忙しい。だが行く」


「どっちですか!」


 茶屋の女中がクスクス笑った。


 だが、その軽口の裏で、湊の胸は重かった。

 南へ向かうということは、闇の中心へ踏み込むことだ。

 生きて戻れない可能性すらある。


 それでも——

 やらなければならない。


 湊は立ち上がり、腰の刀に軽く触れた。

 その刃はまだ一度も“本物の敵”を斬ったことがない。

 だが、そろそろ覚悟を決める時なのだと、湊は感じていた。


「慶次さん。出ます」


「おう。南の風は冷てえぞ。気ぃ引き締めろ」


 二人は霧の残る町並みへ踏み出した。


 南山へ向かう道は、まだ長い。

 だが、湊は確かに感じていた。

城下を抜け、南へ向かう街道に入ると、風の温度がわずかに変わった。

 山裾に沿う道は細く、ところどころで溶け残りの雪が光を跳ね返している。冬の気配が戻ってきたかのようだった。


 湊と慶次は馬を歩ませながら、周囲を静かに観察していた。

 街道の両脇には薄暗い林が続き、所々に小さな祠や廃屋が見える。

 暮らしの匂いは薄く、人の気配が妙に少ない。


「……人気がないですね」


「南山ってのは、元々こういう場所だが……それにしても、ちょいと静かすぎるな」


 慶次が馬上で鼻を鳴らす。

 湊もまた、言い知れぬ違和感を覚えていた。


 道に人がいないわけではない。

 薪を担いだ村人、畑に向かう老夫婦、子どもを背負った母親。

 だが彼らは、湊たちを見ると、どこか怯えたように視線を逸らす。

 旅人には珍しい反応だ。


(……恐れている? それとも、関わりたくないのか)


 湊が考え込んだ瞬間、慶次がふと声を低めた。


「湊。三つ先の村で、止まるぞ」


「理由、聞いても?」


「匂いがする。……人の動きじゃねえ、金の動きの匂いだ」


 湊は思わず口元を固くした。

 慶次の“嗅覚”は、戦場だけでなく、世の裏にも通じる。


「行きましょう」


 二人は馬を進め、やがて道の脇に、朽ちた木札と三軒の家が並ぶ小さな村が見えてきた。

 村というより、山間の集落だ。


 しかし——

 その静けさは、普通ではなかった。


 窓は固く閉ざされ、戸口には縄が張られ、家の前に置かれた桶も空っぽ。

 人の生活の匂いが、まるで消えている。


「……これは」


「湊、身構えとけよ」


 慶次が馬を降り、腰の刀に手を添える。

 湊も続いて地面に降り立った。


 その時だった。

 村の奥、崩れかけた倉の裏から、二人の男が慌てて飛び出してきた。


「だ、誰だおめぇら!」


 粗末な麻の着物、だが腰には短刀。

 眼は血走り、頬はやせ細っているが、妙な熱を帯びた緊張がある。


 湊は穏やかな声で口を開いた。


「旅の者です。村に人の気配が少ないので、何かあったのかと」


「関係ねえ! 帰れ!」


 男たちは異常なほど警戒していた。

 まるで“村に知られてはならないものがある”と言わんばかりに。


(……隠し事だ)


 湊は直感する。

 それも、村全体を巻き込んだもの。


 慶次が一歩前に出た。


「おい、兄弟。無理に聞かねえ。だが——」


 二人が腰の短刀へ手を伸ばした瞬間、慶次の声が低く鋭く変わった。


「その短刀を抜けば、お前たちは二度と村に戻れねえぞ」


 その迫力。

 男たちは息を呑み、動きを止めた。


「お、おめぇ……何者——」


「ただの旅人さ。だが湊は、会津藩士だ」


 男たちの顔から血の気が引いた。


「さ、藩士……!?」


 湊は静かに頭を下げる。


「驚かせて申し訳ありません。ただ、南山で金の流れに不審があると聞き、調べているだけです」


 村人たちは互いに目を合わせ、しばらく沈黙した。

 やがて、一人が震える声で言った。


「……藩に逆らうつもりはねえ。だが、言えねぇこともある」


「誰かに命じられて動いている、ということですか」


 男の肩がびくりと震えた。

 湊は確信した。


 この村は——

 金の流れの通り道だ。


 湊が問いを重ねようとした瞬間、奥の倉の裏から、呻くような咳が聞こえた。


「……っ、ゴホッ……!」


 湊は音へ向かって駆け出す。

 慶次も続いた。


 倉の裏で座り込む老人。

 痩せ細り、口元には酒の匂い。


 だが湊は、その香りに違和感を覚えた。


(……これは、酒か?)


 鼻をくすぐった匂いは、“酒”としてはあまりに刺々しい。

 まるで、荒縄のように喉を切る匂いだ。


 湊は老人に近づき、声をかけた。


「大丈夫ですか。水を持ってきます」


 だが老人は湊の手を震える指で払った。


「さ、さわるな……! ここは……お前さんらが来るとこじゃ……」


「どういう意味です?」


 老人は喉を鳴らし、苦しげに続けた。


「言えば……殺される……。わしも、飲んじまった……“あの酒”を……」


(あの酒……密造酒か)


 湊の心臓が大きく跳ねた。


「誰が作らせているんですか」


「……“山の上”の……連中……だ……」


「山の上? 南山の奥ということか?」


 老人は震える指を南の山の方角へ向け、かすれた声で囁いた。


「“あの方”の……言いつけじゃ……。逆らえば……村ごと……焼かれる……」


 そこまで言い、老人は力尽きるように目を閉じた。


 湊は拳を強く握りしめた。


 ——村を脅し、密造を強要する者がいる。

 ——その者を村人たちは“あの方”と呼ぶ。


 黒幕の輪郭が、また一つ線を結んだ。


 慶次が低く言う。


「湊。これは……藩の“上側の人間”じゃねえと、村を焼くなんて脅し方はできねえぞ」


「……ええ。そうでしょうね」


 湊の眼は、南山の奥へ向けられていた。

 深い森が、不気味なほど沈黙している。


(あの奥に……いるのか。“黒幕”が)


 その瞬間、頭の中で三奉行の姿がよぎる。

 だが湊はすぐに打ち消した。


(まだ決めつけるな。証拠がいる)


 老人の言葉は重要だが、誰が命じたかまでは分からない。


「慶次さん。先へ進みます」


「おうよ。南山の闇ってのは深えぞ。気ぃ引き締めろ」


 二人は再び馬へ戻り、村を後にした。

 背後で、男たちが静かに戸を閉じる音だけが響いた。


 午後の陽が山影に沈みかける頃、湊は南山のさらに奥へと馬を進めながら、心の中でひとつの決意を固めた。


(必ず、暴く。……たとえ藩の内側が相手でも)


 その決意は、静かだが鋼のように固かった。

南山の奥へ進むにつれ、空気はさらに冷たさを増していった。

 枝を揺らす風は細く鋭く、湊の頬を切るように掠める。

 雪は降っていない。だが、森に満ちる静けさは、雪よりも重く、不穏な影を帯びていた。


「……湊。気配が変わったな」


 慶次の言葉に、湊も静かに頷いた。

 馬の歩みが自然と遅くなり、二人は耳を澄ませる。


 鳥の声も、枝を踏む獣の音もない。

 ただ、止まったような沈黙だけが続く。


(ここは……人が“意図的に”近づかない場所だ)


 そんな確信すら湧いてくるような異様な空気だった。


 やがて道が途切れ、雑木林の奥に——

 ひっそりと、だが人の手で彫り固められた“細い抜け道”が現れた。


「これは……」


「普通の村人が使う道じゃねえな。何度も踏まれた跡がある」


 慶次の声は低く、慎重だった。


 湊は馬を降り、道の土を指でつまむ。

 湿り気が少ない。つい最近、誰かが通った跡だ。


「南への流れ……この道の先でしょうか」


「十中八九な。物の流れってのは、人が生きる匂いと同じなんだ。隠しても必ず痕が残る」


 慶次の言葉は、戦場で培った勘そのものだった。

 湊はそれを信じていた。


 二人は木々の間を抜け、森の奥へゆっくりと歩みを進める。


 足元には、踏み固められた痕跡。

 さらに進むと、細い“溝”が地面に続いていることに気づいた。


「慶次さん。これ……“そり”の跡です」


「なるほど。冬の荷運び用か。人目につかねえ道で荷を動かしてる」


 湊の背筋に寒気が走った。


(密造酒を“運んでいる”……。山奥から、南へ)


 福地屋が言っていた「南への流出」が、形を持ち始めた。


 さらに奥へ進むと、木々の影から、小屋のようなものが見えてきた。

 粗末ではあるが、ただの山小屋には見えない。


 入口の周りは踏み荒らされ、軒下には大きな桶が二つ並べられている。

 そのひとつからは、かすかなアルコールの匂いが漂っていた。


「……密造場だな」


「ええ。寺の庫裡とは別口、ということですね」


 湊の胸が重くなる。


 寺だけではない。

 村だけでもない。


 南山の奥で、“組織的に”密造が行われている。


(これは……村人たちが勝手にやっている規模じゃない)


 藩府の庇護か、あるいは強制。

 そのどちらかがなければ成立しない規模だ。


 小屋へ近づこうとした瞬間だった。


「止まれ」


 背後から、硬い声が落ちた。

 湊と慶次が同時に振り返る。


 木陰から三人の男が現れた。


 軽装だが、腰の太刀の質が明らかに違う。

 そして足の運びは村人のそれではなく、武の心得がある者のそれだった。


 先頭の男がわずかに目を細める。


「この先は藩の御用場につき、立ち入りは禁じられている」


 湊の胸が脈打った。


(……御用場?)


 表向き“藩の御用場”であれば、村人が黙る理由は分かる。

 しかし——


(こんな場所で、何の“御用”がある?)


 湊は一歩前に出た。


「失礼ですが、どこの組の方ですか。差配の湊と申します」


 男は瞬間、わずかに表情を揺らした。

 だがすぐに、無表情へ戻る。


「我らは藩命に従うのみ。差配殿とて、この場へ入る許しはない」


「南山での密造の噂があり、調べています。もしここが御用場なら、その旨を文書で示していただければ——」


「差配殿。これ以上は踏み込みすぎです」


 男の口調が鋼のように固くなる。

 そのうしろで、太刀に手を添える者もいた。


(これは……)


 湊は悟った。


 ——「御用場」は嘘だ。


 証拠はない。

 だが、この場に漂う空気、男たちの表情、動き。

 全てが、湊にそう告げていた。


 慶次が一歩前に出る。


「おい。“御用場”ってのは、もっと胸張って言うもんだ。お前ら、何隠してやがる?」


「退け。今は藩の仕事だ」


「だったらなおさらだな。……藩の仕事に“藩士”が近寄れないってのは、妙な話じゃねえか」


 緊張が走る。


 三人の手が太刀へ触れた。

 慶次の手もまた、ゆっくりと柄へ伸びる。


 湊は慌てて一歩前に出た。


「待ってください」


 湊の声は静かだが、強かった。


「争うつもりはありません。ただ——」


 湊は足元の“そりの跡”を指した。


「ここが御用場であるなら、なぜ夜中に“荷”を南へ運んでいるのです?」


 三人は息を呑んだ。


 沈黙。

 風の音だけが、森を揺らす。


 湊の視線が一段と鋭くなる。


「御用場なら、堂々と城下へ運ぶはずです。……なのに、なぜ“南”なのですか?」


「……」


 三人の視線が揺れた。


 湊はさらに踏み込む。


「誰の命です? 三奉行のうち、どなたの命でここを守っている?」


 その瞬間、先頭の男が湊を睨みつけた。

 怒りでも憎しみでもない——“恐怖”の色があった。


(やはり、関わっている……)


 しかし男は、決して名前を言わない。

 その沈黙こそが、湊の疑念を確信へと変えた。


「ここは……藩のための場所ではない。誰か“個人”のための場所だ」


 湊の言葉に、三人の男は顔色を変えた。


「これ以上の詮索をすれば——」


 先頭の男が太刀を抜きかけた。


 だが次の瞬間、慶次の声が森に響いた。


「抜いてみろ」


 その声音は静かだが、底に凄絶な刃を宿していた。

 男たちは、一歩も動けなかった。


 静寂。

 張り詰めた空気。


 やがて、先頭の男が小さく舌を打ち、手を離した。


「……今日は帰れ。二度と来るな。ここは、“深入りして良い場所”ではない」


 湊と慶次が何も言わぬまま視線を返すと、男たちは森の奥へと姿を消した。


 風がようやく吹き抜け、張り詰めた空気が溶け始める。


 湊は小屋を見つめた。


(南山の奥に、密造の本拠がある。そして……そこを守っている者は、藩の権力を使っている)


 湊は静かに息を吸った。


「慶次さん」


「なんだ」


「……いよいよ、“黒幕”を絞れます」


 湊の眼は、深い決意を宿していた。

福地屋を出ると、春とは名ばかりの風が頬を刺した。陽はまだ沈んでいないはずなのに、若松の冬空は昼でも薄闇がかかったままだ。湊は肩に乗った雪を払い、南へ伸びる街道へ視線を向けた。


 南へ向かう荷は多い。だが、その量が異様なのだ。


 “冬にこれほどの荷駄が動くのはおかしい”

 商人である福地屋の言葉に嘘はない。


 湊は足を踏み出した。


(密造酒を買う者がいる。しかも、金払いがよほど良くない限り、冬のこの時期にわざわざ大量に運ぶ理由がない……)


 雪道を歩くほどに、街のざわめきは遠ざかり、冬の静けさが濃くなる。小さな農家の屋根からは煙が薄く立ちのぼり、その匂いが風に流れてくる。薪が湿っているのか、少し酸味のある香りだ。


 湊は耳を澄ませた。木々が揺れる音、遠くで子どもが雪を踏む音――そして、馬の蹄の乾いた跡。


「……南から、か」


 道の端に、まだ新しい蹄跡が点々と続いている。荷を引く馬のものだ。だが、奇妙だった。通常なら左右に揺れた跡が残るはずなのに、これはまっすぐ――まるで軽い荷を引いているかのようだった。


(空荷……? 帰りは軽い……つまり、行きは重かった)


 湊の胸に、ひとつの可能性が浮かんだ。


(南の“どこか”で荷を降ろし、軽くなって戻る。ならば、目的地は南の山裾か……)


 さらに歩くと、一軒の茶屋が見えてきた。冬は客も少ないのか、暖簾は半ば凍りつくように硬い。湊は戸を開け、体を滑り込ませた。


「いらっしゃいまし……おや、差配殿」


 店主の老女が驚き、深々と頭を下げた。


「茶をひとつ。少し、訊きたいことがある」


「は、はい」


 湊は腰を下ろし、湯気の立つ茶を受け取った。


「最近、この道を南へ行く荷駄は多いか?」


「ええ……妙に、です。荷の覆いは分厚い布でして、中身は見えませんが……重たそうでしたよ。馬が扱いていました」


「行き先は?」


白津しらつか、南山みなみやまでしょうか。あの辺りは……冬はほとんど動きませんが」


 湊は茶碗を静かに置いた。


「誰が荷を運んでいた?」


「若い衆でした。ですが、ひとり……」


 老女の顔が険しくなった。


「一度だけ、“黒い直垂”の侍が覗いていきました」


「黒直垂……」


 寺の下僧の証言と一致する。


(あの男は、寺だけではなく、南の荷の動きも見ている……)


「その侍、どんな様子だった?」


「ええ……声の小さな方でして。若くはない、かといって年寄りでもない。不思議な“気配”でした。目つきが、鋭いようでどこか濁っているような……」


 湊は心の奥が静かにざわつくのを感じた。


(あの下僧が言っていた“控えめだが刺す声”……一致する)


 湊は茶代を置き、外へ出た。


 雪はさらに強くなり、風が山から吹き下ろしてくる。頬に当たる冷たさは鋭いが、頭はむしろ冴えていく。


(南で動いている集落……冬に動けるのは限られている)


 雪深い会津において、冬に荷を扱える村は少ない。


 白津

 南山

 長畑

 棚倉方面の付け道


 湊は一つひとつ歩きながら、屋根の雪の厚み、家々から立つ煙、馬の通った跡、足跡の数……すべてを見極めていく。


 すると――


「……ここだな」


 湊は足を止めた。


 他の村より、雪が踏み固められている。明らかに荷駄が何度も通っている。家々の戸口には酒粕の匂いが微かに漂い、冬の寒さの中でもはっきりとわかる。


(酒……寺の密造酒が、ここへ)


 村の中央、雪に埋もれる小屋の前で、男たちが荷物を運んでいた。湊に気づき、動きが止まる。


「……差配殿?」


 顔に緊張が走った。


「ここから南へ荷を出しているな。どこへ持っていく?」


「そ、それは……」


 湊は声を荒げなかった。ただ、淡々と告げる。


「言えぬのはわかる。だが、寺の密造は会津の問題だ。それを、藩府の誰かが裏で動かしている。お前たちは、誰に命じられた?」


 男たちは互いを見合い、やがてひとりが小さく呟いた。


「……“黒直垂”の侍です。あの方から、“荷を南へ運べ”と。寺の僧にも同じように言っていたようで……」


 湊は息を呑んだ。


(やはり……同一人物だ)


「その侍は、どこへ現れる?」


「いつもは夜です。日が暮れてから……荷の数を確かめに」


「次はいつだ?」


「明日の夜だと言っていました。“次の荷は大きい”とも」


 湊の心が火花を散らすように光った。


(黒幕が動く……)


 湊は村を出ると、すぐに浅香・名古屋・八代たちへ使いを走らせた。全員を集める間、湊はひとり、山裾の暗がりを見つめていた。


 雪はさらに深くなり、風は凍えるほど冷たい。だが、その冷たさがかえって火を灯すように、湊の胸に決意を刻み込んだ。


(三奉行のうちの誰か……だが、名を出すのはまだ早い。明日の夜、“黒直垂”が来たところを押さえる)


 その時――


 背後で、雪が踏みしめられる音がした。


 キュッ……キュッ……


(……誰か、いる)


 湊は振り返らず、視線だけをわずかに動かした。遠くの林の影――雪の白さに溶け込んだ、わずかな“黒”。


 馬の鼻息が、白く吐き出される。


(尾けられている……)


 湊はゆっくり歩き出した。振り返らず、急がず。だが、背後の気配は一定の距離を保ちながら、確かについて来る。


(黒幕の配下……か)


 風が唸り、雪が舞う。


 湊は一歩、また一歩と雪道を進んだ。


(ならば――来い)


 次の瞬間、影がゆっくり動いた。


 林の中で、黒い直垂がふわりと揺れた。


 湊は足を止めた。


 白い雪の上に、黒い影がにじり寄ってくる。


 明日の夜を待たずして――

 黒幕の手が、湊へと伸びたのだ。

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