7話: 古参の壁、若き巡察
翌朝。
若松城の石垣に、淡い朝日が斜めに差し込んでいた。
夜の冷えはまだ残っているが、城の中だけは早くも一日の気配を帯び始めている。
清原湊は、書院へ向かう廊下を歩いていた。
眠気はとっくに消えている。
昨夜、夜更けまで筆を走らせた疲れはあったが、それ以上に胸の奥が静かに熱い。
(あの村の争いは、きっとこれからあちこちで起きる。
僕が見たのは、最初の一つに過ぎない)
だからこそ、逃げない。
それだけを何度も心の中で繰り返し、湊は襖の前で一呼吸置いた。
「――入ります」
膝をついて頭を下げ、書院に入ると、既に直江兼続が座していた。
脇には弥藤の姿もある。
「来たか、清原」
「はい。清原湊、参りました」
兼続は、湊の顔をじっと見た。
その視線は鋭いが、どこか楽しんでいるようにも感じられた。
「昨夜は遅くまで灯がついていたな」
「はい。北の村で起きた争いについて、報告を書いておりました」
「ふむ。……“書かねば眠れぬ”という顔だったな」
図星だった。
湊は小さく息をのむ。
「清原」
「はい」
「お前の建白と巡察の記録は、確かに私の助けとなっている。
だが――私だけがそれを読むのでは足りぬ」
「……?」
「会津古参の重臣にも、お前の目で見たものをぶつけねばならぬ」
そこで、兼続はゆっくりと言葉を置いた。
「本日、お前を“宮森主膳”のもとへ遣わす」
湊の背筋に、冷たいものが走った。
(宮森……主膳……)
その名は、北の村で耳にした噂の中にも出てきていた。
――会津古参の中でも、特に筋目に厳しい男だ。
――越後のやり方には容易に首を縦に振らぬ。
そんな声が、湊の脳裏によみがえる。
「主膳どのは、会津に古くから根を張る家のひとつ。
この地の誇りを体現するような男だ」
兼続の声音には、敬意と警戒が同時に混じっていた。
「越後の者は彼を恐れ、会津の者は彼を誇りとする。
それほどの男に、お前の“目”と“言葉”が通じるか。……試してみよう」
試されている――
そうはっきり感じたが、不思議と逃げたいとは思わなかった。
(ここから逃げたら、昨日の村で“責任は僕が取ります”なんて言えない)
湊は静かに頭を下げた。
「謹んでお受けいたします」
兼続は小さく頷き、弥藤に目をやる。
「弥藤。道案内を頼む。だが、口を出しすぎるな」
「承知」
書院を下がろうとしたとき、兼続がふと湊を呼び止めた。
「清原」
「はい」
「宮森主膳は、お前を歓迎せぬだろう。
言葉も冷たく、時に理不尽にすら思えるはずだ」
それでも、と兼続は言葉を続ける。
「それでも逃げるな。
“武士の心構え”を胸に据えるとは、そういうことだ」
湊は、胸の内でしっかりとその言葉を握りしめた。
「はい。逃げません」
◆
城の北側、城下を少し離れた小高い丘の上に、宮森家の屋敷はあった。
城へも村へも目を配れる位置――まさに、古参重臣の居所にふさわしい場所である。
門は高く、板戸は厚い。
余計な飾りはないが、手入れは行き届いていた。
「ここが宮森殿の屋敷だ」
弥藤は門を見上げ、低く呟いた。
「清原。中に入れば、私は口を挟まぬつもりでいる。
あくまで、お前と宮森殿との対面だ」
「……一人で、ですか?」
「そうだ。“直江の影”を連れて行ったなどと思われれば話がねじれる。
お前は“清原湊”として、ここで向き合え」
怖さはあった。
だが、それ以上に、湊の中で何かが固まっていく。
(僕は……この世でひとりしかいない“清原湊”だ)
「分かりました」
門前で名乗りを上げると、中から下男が現れた。
「上杉家の巡察役、清原湊と申します。
宮森主膳殿に、お目通りを願いたく存じます」
下男は訝しげに湊を見たが、やがて中へと消えていった。
少しして、戻ってくる。
「……通せとのことです。こちらへ」
案内されたのは、庭に面した広間だった。
畳は古いが、磨かれている。
床の間には、簡素な花と、ひと振りの刀が静かに飾られていた。
(無駄がない……)
そう感じたとき、襖がすっと開いた。
現れたのは、四十半ばほどの男。
背丈はさほど高くないが、立ち姿に隙がない。
眉は太く、目は細いが、その奥には鋭い光が宿っていた。
「宮森主膳どのとお見受けいたします。
上杉家巡察役、清原湊と申します」
湊が頭を下げると、男は一拍置いてから口を開いた。
「……腰を上げよ」
声は低く、乾いている。
「聞いておる。越後から来たわけでもない、得体の知れぬ若者が、
直江殿の庇護を受けて城下を歩いているとな」
最初の一言からして、歓迎ではない。
むしろ、あからさまな警戒。
「本日は、会津各地で起きている混乱について――」
「弁は要らぬ」
短く切られた。
「まず問う。
お前は、“何者”だ?」
湊は、胸の奥に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「……清原湊。一介の学び人です。
武もなく、身分もなく、ただ“逃げぬ心構え”だけを頼りに、
この会津で生きようと決めた者です」
宮森主膳は、微かに目を細めた。
「逃げぬ心構え、か」
一瞬、沈黙が落ちる。
「越後の者は、大義をよく語る。
会津の者は、土の重さをよく語る。
だが――お前は何を語る?」
「……人の暮らしの、ほころびを見ます」
湊はゆっくりと言葉を選んだ。
「制度と土地が噛み合わないところ。
越後と会津のやり方が擦れ違うところ。
痛みが溜まっているのに、誰にも気づかれないところ。
そこに目を向け、直江様へ伝えるのが、私の役目です」
主膳の顔には、感情がほとんど浮かばない。
ただ、表情の奥で何かがわずかに動いたように見えた。
「綺麗な言葉だ。
だが――綺麗なだけの言葉なら、城の中だけで語っていればよい」
主膳の声は低く、はっきりしていた。
「会津は、紙の上では治まらぬ。
血を流し、歯を食いしばって守ってきた土地だ。
越後の手並みの良さに、簡単に従うと思うか?」
鋭い問いに、湊は息を呑んだ。
(……これが、この人の“誇り”なんだ)
否定ではない。
だが、容易に受け入れる気もない。
湊は、ほんのわずかに拳を握りしめた。
「分かります。
いえ、分かろうとしています。
だからこそ、宮森どののお話を伺いたいのです」
「ふむ」
宮森主膳は、静かに湊を見据えた。
「では――試そう」
その一言に、空気がわずかに張り詰めた。
「お前が“何者か”、この宮森主膳が見極めてやろう」
湊の喉が、ごくりと鳴った。
(ここからが、本当の“壁”だ)
庭先の空には、細かな鱗雲が広がり始めていた。
小さな予兆が、静かに空を覆っていく。
庭に面した広間には、冬の名残を思わせる冷えた空気が漂っていた。
宮森主膳は湊の正面に腰をおろし、刀を脇に置いたまま、長い沈黙をつくる。
その沈黙そのものが、湊の胸を圧しつける。
(これが……重臣の“間”なんだ)
(言葉よりも、この時間で試されている……)
弥藤からも似たような雰囲気は感じていた。
しかし主膳の前では、湊はまるで石臼の前に立つ麦粒になったようだ。
やがて主膳が口を開く。
「清原湊。
お前が巡察で見てきたという“ほころび”――その一つを申してみよ」
「……はい」
湊は呼吸を整え、昨日の北の村で起きた争いを語った。
越後式の境界線と会津式の境界線が噛み合わず、
村人同士が土地の割り当てをめぐって争ったこと。
双方に言い分があり、誰も悪人ではなかったこと。
そして――「責任は僕が取ります」と言って場を収めたこと。
主膳は一切動かない。
まるで能面のように聞いている。
(反応が……ない)
話し終えたとき、主膳はゆっくりと左手で刀の鞘を押した。
抜く気配はない。
ただ、鞘を押すその仕草に、湊の背筋が強張る。
「土地争いを“言葉”で収めたか。
……浅い」
低い声が、畳の上に落ちた。
「土地の価値は、言葉ではなく、“血”で支えられてきたのだ。
越後も会津も、境界の線の上に死骸を積み、ようやく領地となる」
主膳の声は、過去の戦の匂いをまとっていた。
「その歴史を知らぬお前が“責任を取る”などと語るのは、
愚かか――それとも勇気のつもりか」
湊は喉を焼かれるような感覚に襲われた。
(来た……本当の“問い”だ)
逃げろとは言われていない。
しかし、逃げる者への言葉でもない。
「……私は、土地争いがどれほど重いものか、知りません。
あなたの言う通りです。
戦も、その代償も、肌で知ってはいません」
主膳の目が細くなる。
「だが――」
湊は拳を膝の上で握りしめた。
「知ろうとします。
逃げずに、そこへ足を運び、声を聞き、痛みを理解しようとします。
そのために巡察役を拝命したのです」
主膳の視線が、わずかに揺れた。
「私は、武にも家柄にも頼れません。
ゆえに、逃げぬ心構えだけは、忘れないと決めました」
沈黙。
庭を渡る風が、かすかに障子を揺らした。
◆
主膳は短く息を吐いた。
「では、次だ」
新たな問いが、湊に向けられる。
「会津が抱える不和――その根はどこにある?」
その問いは抽象的に見えて、重臣の前で答えを間違えれば命取りだ。
湊は考え、考えた末、口を開いた。
「……“誇り”の擦れ違い、だと思います」
主膳の眉がわずかに動いた。
「越後の誇りと、会津の誇り。
どちらも本物で、どちらも間違っていない。
ただ、それぞれが“自分が守ってきたものこそ正しい”と信じていて……
それが噛み合っていません」
「ほう」
「昨日の村の争いも、商人たちの不満も、
職人たちの苛立ちも――全て“誇り”の形が違うだけです」
主膳が湊を真っ直ぐに見据える。
その目の奥から、鋭さが少しだけ薄れた。
「誇りを否定せず、形を合わせ、
“皆で会津を守る”という形にまとめること。
私は、それが必要だと考えています」
「……言うは易い」
「はい」
湊は即答した。
「だからこそ、足を運びます。
越後の誇りも、会津の誇りも、宮森どのの誇りも――
すべて、自分の目で見て、耳で聞きます」
再び、沈黙。
しかし今度の沈黙は、先ほどほど冷たくなかった。
◆
やがて主膳が立ち上がった。
湊も慌てて立ち上がる。
「清原湊」
「はい」
「お前は、まだ子供だ。
紙束と綺麗な理で世を治められると思うな」
その声音には厳しさだけでなく、別のものが混じっていた。
「だが――
“逃げぬ”という言葉に嘘はないと、今、確かに見た」
湊の心臓が強く脈打つ。
「今日のところはそれでよい。
お前の誠実さは、確かに届いた」
それは、重臣にしては異例ともいえる言葉だった。
「宮森どの……ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。
私はお前を認めたわけではない。
ただ――」
そこで主膳は静かに姿勢を正した。
「直江殿が“耳と足”と評されたのを、試す価値はあると判断しただけだ」
それでも、湊にとっては十分すぎる言葉だった。
◆
屋敷を辞し、外に出た瞬間、湊は一気に息を吐いた。
膝が笑いそうになるのを、何とか踏みとどまる。
(……終わった。いや、始まったのか)
弥藤が近づき、声を低くした。
「どうだ、清原。生きて戻ったな」
「……死ぬかと思いました」
「会津古参の壁は、そういうものだ。
だがその壁に向かい、押し返されたわけではない。
それは大したものだぞ」
その言葉を聞きながら、湊はふと空を見上げた。
そこには、朝にも見えた鱗雲がまだ薄く残っていた。
形は少し変わり、先ほどよりも高い位置へ流れている。
(予兆はまだ続いている……
変化は、まだ遠くない)
風が湊の頬を撫でた。
(僕は、逃げずに進めた。
宮森主膳という壁に、正面から向き合えた)
そう噛みしめた瞬間、胸に静かな熱が灯った。
「弥藤さん」
「なんだ?」
「……僕、少しだけ自信がつきました」
「ほう。なら、その自信を次に使え。
巡察役の仕事は、まだ始まったばかりだ」
湊は小さく笑った。
「はい。逃げずに、続けます」
その声は、昨日よりも確かだった。




