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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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78話:金流の影、三奉行の静座

会津の冬は、朝が深い。

 湊は息を吐き、白く立ちのぼるその色をじっと見つめていた。昼には消えてしまう脆い白だが、今の湊には、その儚さがひどく落ち着いた。


 城下を歩くたび、胸の底でひとつの問いが揺れる。

 ──三奉行は、なぜ今になって自分を呼んだのか。


 密造酒。

 寺の影。

 村の沈黙。

 そして、城下に流れる得体の知れぬ金の流れ──。


 湊はそれらの線を、まだ完全には結べていない。

 それでも、三奉行が動いたという事実は、何かが“臨界点”に達したのだと教えていた。


 湊は御用屋敷への道を進む。

 城の白壁が朝の日の光を受け、雪の欠片のように淡く輝く。侍たちは皆、湊の顔をちらりと見るが、その視線には敵意も侮りもない。あるのは、ただ「観察」だけだった。


 ──ああ、これは値踏みされている。


 湊は静かに理解する。

 城下で動く噂は、すでに三奉行の耳にも届いているのだ。

 寺の独自税、村の酒造り、浪人たちの妙な集まり。それを湊が見聞きし、筆に起こしたことも。


 御用屋敷の前に立つと、案内役の足軽が頭を下げた。


「湊殿、お待ちしておりました。三奉行様方は、すでにお揃いにて」


 湊は深く一礼し、敷居をまたぐ。

 張り詰めた空気が肌に触れる。

 言葉にすればただの“静けさ”だが、ここでは沈黙そのものが政治だった。


 案内された広間に三つの影があった。


 一人目、扇子を閉じたまま膝に置き、体幹が微動だにしない男──大石綱元。

 手荒な現場を見てきた者だけが持つ、重さと無駄のなさがあった。


 二人目、薄い笑みをたたえつつ、目だけが鋭い光を宿す男──安田能元。

 ひとつの言葉に十の意味を読み取る、政務の鬼。


 三人目、膝をやや開き気味に座り、刀にかけた右手が自然な構えで止まっている男──岩井信能。

 戦場と城を往復してきた、硬い胆力を持つ男。


 湊は正座し、頭を垂れた。


「湊、まかり越しました」


「顔を上げよ」


 声を発したのは安田だった。

 柔らかい響きだが、その奥に鉄がある。


 湊が顔を上げると、三人の視線が重なった。

 それだけで、背筋に冷たさがひと筋走る。


「湊。おぬし、密造酒の件に深く関わったそうだな」


「はい。村々を巡り、その実態を見聞きしました」


「実態、か」

 綱元が低く呟いた。

 その声は、土中の水脈が響くようだった。


「では問う。

 村は、何を隠していた?」


 湊は息を整える。


「……沈黙です。

 誰も語らない。語れない。

 あの沈黙は、恐れではありません。

 “守ろうとしている”沈黙です」


 三奉行の視線がわずかに揺れた。


「守る?」

 岩井が眉をひそめる。

「何をだ。金か。寺か。あるいは……黒幕か」


 湊は静かに目を向けた。

 岩井は真っ直ぐ返す。

 刀気を帯びた視線。ここで一歩でも言葉を誤れば、すぐに切り込んでくるような鋭さだ。


「申し上げます」

 湊は深く頭を下げる。

「村は“利権の源”を守っているのです。

 寺への依存、酒から得られる銭、そして──城下の誰かから流れてくる金。」


「城下の誰か、とは誰だ」


「まだ形が見えません。しかし、寺だけでは説明がつきませぬ。寺と村だけでは、あの規模の動きは無理にございます」


 湊の言葉が落ちると、広間の空気がさらに重みを帯びた。


 安田が、扇子を指先で軽く叩いた。


「湊殿よ。

 黒幕は、三奉行の誰かと……そう考えているか?」


 場が凍りついた。

 畳の目の音すら聞こえそうな沈黙。


 湊は動じなかった。

 それは覚悟していた問いだからだ。


「いいえ」

 湊ははっきりと言った。

「三奉行ではない、と判断しております。」


 三人の視線が交差する。

 驚きよりも、“評価”の色が濃かった。


「理由を聞こうか」

 綱元の声。


「三奉行のお三方は、領内を守る者の目をしております。

 村々に向ける目も、寺に向ける目も、利ではなく秩序。

 黒幕は、その目を持っておりませぬ」


 安田が微かに笑った。

 しかしその笑みは温かいものではなく──“試しに成功した者を眺める目”だった。


「湊殿。おぬしは、まだ若い。

 だが、政の道を歩く者の言葉をしておる」


 岩井が鋭く問いを重ねる。


「では、黒幕をどうするつもりだ。

 暴くか。

 利用するか。」


 湊の腹の奥で、炎のような静かな熱が灯った。


「まだ決めておりません。

 ただ──会津を守るためなら、どちらも辞しません」


 綱元がひとつ、深く頷いた。

 その頷きは、硬い岩が動くような重さを持っていた。


「よかろう。湊。

 おぬしに、次の役目を与える」


 湊の背筋に、細い緊張が走る。


「城下の“金の流れ”を洗え。

 黒幕の影は、そこにある」


 その言葉を合図に、湊の視界がわずかに揺れた。

 自分が、いよいよ“中心”に踏み込むのだと悟った。


 退出した湊は、外気を吸った。

 冷たい空気は刺すようだが、胸の奥はむしろ熱い。


 ──暴くのか。

 ──利用するのか。


 答えはまだ決まらない。

 だが一つだけ確かなことがあった。


 湊はもう、後戻りできない場所にいる。

御用屋敷をあとにした湊は、吐いた息がすぐに白く凍りつくほどの朝の冷気を胸に流し込みながら、城下をゆっくりと歩いた。静けさは深いが、人々の気配は確かにそこにあった。店を開ける者、掃き掃除をする者、寒さに肩をすくめながら水汲みをする女――日々を生きる者たちの営みが、湊の視界の奥で緩やかに動いている。


 その景色を見つめながら、湊の胸中には重たくも澄んだ思考が流れていた。


 ──黒幕の影。

 ──寺と村をつなぐ沈黙。

 ──そして三奉行が与えた新たな役目。


 「城下の金の流れを洗え」。

 その言葉の重さを、湊は噛みしめていた。


 会津に来てから、湊は何度も自らの無力さを知った。

 寺の長老に言葉の糸を絡め取られ、村で沈黙の壁に阻まれ、浪人の動きに裏をかかれかけた。

 しかし、その度に人々の言葉に耳を澄ませ、足で歩き、手で触れ、筆に起こすことで、湊は一歩ずつ領内の“目に見えぬ流れ”を掴んできた。


 その努力を、三奉行の三人は見ていたのだ。


 「若いが、物の見方がある」

 「政の言葉を持つ」

 「黒幕を恐れていない」


 広間に渦巻いていた三つの評価の気配が、いま湊の背を押していた。


 湊は足を止め、城下を見渡した。朝の陽が瓦に反射し、光の筋が道に散らばっている。

 そこには商人が荷を運び、農民が年貢の相談をし、寺の僧が托鉢の器を胸に抱き、浪人たちが寒風の中で刀の手入れをしていた。


 ──どこにでも“生きる者の流れ”があり、

 ──どこにでも“金の流れ”が伏在している。


 「金の流れ……か」


 湊は小さくつぶやいた。

 金の流れは、人心の流れに等しい。

 誰が得をしているのか。

 誰が搾り取られているのか。

 誰が動かしているのか。


 その線を辿れば、必ず黒幕の影に行き着く。


 ──行くか。


 湊は方向を変え、城下北側にある問屋街へ向かった。


 問屋街は、会津の呼吸そのものだった。米、木材、塩、酒、和紙――様々な品がここで集まり、ここから散っていく。まるで巨大な血流の中心のように、商人たちの声と足音が絶え間なく交錯していた。


 湊は、顔見知りの米問屋・福地屋の主に声をかけた。


「おや湊殿。今日は早いじゃありませんか」


「福地屋殿。少し伺いたいことがあって参りました」


「へぇ。どうぞどうぞ。寒いでしょう。奥へお入りなさい」


 湊は勧められるまま帳場の奥に入った。

 炉の火がぱちりと鳴り、干された薪の匂いが漂っている。

 この匂いは、金の匂いにどこか似ている――湊はそんな馬鹿げたことを思いながら腰を下ろした。


「湊殿。何を聞きたいんで?」


「城下の金の流れについて、少し教えていただきたく」


 福地屋の主は、ほんの一瞬だけ眼を狭めた。

 商人独特の“探る目”だった。


「金の流れ、ですかい」


「はい。米の値がこのところ揺れている理由を。寺に納める額も変わりましたな?」


「……おや、湊殿は耳が早い」


 主は苦笑したが、湊は表情を崩さなかった。


「耳が早いのではなく、気になる動きが多いのです。村も、寺も、城下も」


 主は湊の眼を見つめた後、炉に薪を一本足した。

 炎が強まり、帳場の影が揺れる。


「湊殿。言っておきますが、あっしは寺の味方でも城の味方でもありません。ただ、商いの流れを読むだけで」


「承知しております」


「よろしい。では話しましょう。

 米の値が揺れているのは、寺が“隠し蔵”を持ってるせいです」


 湊の眉がわずかに動いた。


「隠し蔵……ですか」


「ええ。村から買い上げた米を、市場に流さず寺の中に抱え込んでる。

 そのうえ、酒を作る米も、村が直接寺へ納めている。

 城下の問屋を通していない」


「問屋を通さぬ米取引……」


 それは、商人を外した“裏の流通”だった。

 裏の流通が生まれれば、そこには必ず黒幕の影が落ちる。


「福地屋殿。寺はそれを誰に命じられたのです?」


 主は湊をじっと見た後、小さく首を振った。


「……湊殿。それを言ったら命がいくつあっても足りませんよ」


 湊は迷わず答えた。


「承知しております」


 その静かながら揺るぎない声に、主は観念したように息を吐いた。


「寺が勝手にやってるわけじゃない。

 その裏には“城下の有力者”が必ずいる。

 ただ……その者の名は商人にも降りてこない。

 降りてくるのは、寺の言葉だけ」


「寺が“表の顔”として動いている……と」


「そうです。寺は盾。

 その陰で誰かが銭を積み上げている」


 湊は拳を強く握った。


 黒幕は、寺を利用している。

 村を沈黙させ、酒と米という二つの利権を握り、商人を迂回して流通を支配し、金を吸い上げている。


 その構図は、もはや“寺の独走”という規模ではなかった。


 ──後ろに、いる。


 湊ははっきりと直感した。


 寺よりも大きく、村よりも深く、商人よりも巧みに、流通と人心を操る者。

 それは、三奉行と対峙しても怯まぬほどの力を持つ者。


「福地屋殿。最後に一つだけお聞きします」


「なんでい」


「寺が抱え込んだ米は、どこへ流されているのです?」


 主はごくりと喉を鳴らし、低く答えた。


「……南です」


「南?」


「会津から南へ。

 城下の者じゃない。

 “外”の者が買いに来る」


 外――。


 湊は息を呑んだ。


 領内だけではない。

 会津の外部勢力まで、米と酒の裏流通に関わっている。


 その事実は、黒幕の輪郭を大きく広げた。


 湊は深く頭を下げ店を出た。

 外の冷気は鋭く、頬を刺すように痛い。

 だが湊の胸中には、先ほどとは違う熱が渦巻いていた。


 ──やはり俺は、三奉行の言う“臨界点”に踏み込んでいたのだ。


 湊は歩き出した。

 雪を踏む音が規則的に響く。

 そのたびに、湊の中の覚悟が固まっていく。


 黒幕は、寺と村と商人を結ぶ“表の線”にはいない。

 いるのは、“流れを外へ導く者”だ。


 会津を内部から食い破ろうとする影。

 領内の秩序を揺るがす冷たい企み。


 湊は息をひとつ吐き、前を見据えた。


「暴くか、利用するか……まだ決めていない」


 だが、選ぶのは自分だ。

 黒幕が誰であろうとも。


 そのとき、遠くから城の鐘が鳴った。

 午の前に響くその音は、静かに、しかし確かに湊の背を押した。


 ──進め。

 ──迷うな。

 ──お前は、もう政治の只中にいる。


 湊は顔を上げた。


 白い冬空の下、決意は静かに形を成していた。


 会津の闇を断つために。

 そして、湊自身の道を切り開くために。

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