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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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77話:寺領の火種

会津若松の朝は、雪の静けさと共に始まった。

 まだ陽の昇りきらぬ空は淡い青を帯び、城下の屋根が白く沈んで見える。吐く息はすぐに白い霞となって消え、道の脇に積もる雪は昨夜の冷え込みで硬く締まっていた。


 湊は、城下を南へ向かう道を歩いていた。

 昨日、寺で見つけた密造酒の甕。その甘い発酵臭と、僧たちの怯えた目が頭から離れない。


(寺と村は密造で繋がっている。だが――その裏に“藩府の影”がある)


 それが昨夜、決定的となった。

 あの下僧が告げた「黒い直垂の男」。

 密造酒の出荷日まで確認しに来る立場――寺よりも上。差配である自分よりさらに上。


 藩府の中枢。

 三奉行の誰か。


 その事実が胸の奥で冷たく光り続けている。


「湊」


 背後からかけられた低い声。浅香だ。

 彼は肩に雪をまとわせながら追いついてきた。


「昨日の寺の件、三雲が図をまとめてる。封戸の線引きも村の事情もな。だが……密造の方は厄介だぞ」


「厄介、か」


「ああ。寺も村も“必要”としてる。冬は働き口がない。だから酒にして売る。だが、寺にあれだけの甕があったってことは……売り先が藩府なんだ」


 湊は歩みを緩め、吐く息を白く散らした。


「三奉行のうち誰か、密造酒を利用している」


「そうだ。そして寺を縛っている。寺に弱みを握らせ、村の不満も抑えられる。しかも密造の利銭は私腹になる」


 浅香の言葉は淡々としている。

 だがそれが逆に重かった。


「三奉行の誰かが、裏で冬の会津を動かそうとしてる。寺領の揺れ、封戸の見直し、村の不満……全部つながる」


「……俺の動きも見られている」


「当たり前だ。湊、お前は普請差配だ。藩府の仕組みに直接触れる立場。黒幕から見りゃ、“一番邪魔な駒”なんだよ」


 湊は黙った。

 その沈黙を破ったのは、軽やかな足音。


「おい、小僧。顔が難しくなってんぞ」


 前田慶次が片手を上げて近づいてきた。

 雪を蹴り散らしながら、どこか楽しげだ。


「慶次さん……朝から動いていたのか?」


「当然だろ。昨日の密造酒の匂いがまだ残ってやがる。寺も村も動きが硬ぇ。裏で糸引いてる奴が焦ってる証拠だ」


「焦っている?」


「お前が気づくとは思ってなかったんだろうよ。三奉行は“差配は普請だけ見とけ”って思ってんだ。寺領なんて触られたら困る」


 慶次は鼻で笑った。


「昨日の下僧の話だと……黒い直垂。細身。声が低い。控えめに見えるが、話は命令だった。そんな奴、三奉行の中に一人いるだろ?」


 湊は目を伏せた。

 だが、名前は出さない。

 まだ確証がない以上、決めつけはできない。


「慶次さん。三奉行は強い立場だ。証拠もないまま疑えば、こちらが潰される」


「だから証拠を掴めばいい。酒の流れを追えば、一発だ」


「しかし、相手は冬の会津を牛耳れるほどの権限を持つ者だ。わずかな証拠では逃げられる」


「湊。お前、昨日言ってただろ」


 三雲の声が背後から届く。


「“逃げ場を作る”と」


 湊は振り返る。

 三雲は手に図面を巻いた筒を持っていた。


「寺と村の封戸の線を再設計する。寺にも村にも逃げ道を作る。だが、それは藩府の一部から見れば面白くない」


「つまり……俺は標的になる」


「そうです。ですが――味方も増えます」


 名古屋山三郎が口を開いた。


「湊殿を信じる者は、多い。昨日の僧のように、内側から声を上げる者も出るでしょう」


 八代が肩をすくめる。


「それに、密造は冬の間しかできねぇ。黒幕は急ぐぞ。寺を、自分の側に縛りつけたい」


「湊」


 浅香が前に出た。


「お前は今日、寺へもう一度行け。僧たちの心は揺れてる。黒幕の影を恐れながら、お前に望みを持ってる」


「寺へ……」


「そうだ。寺領の図を見せて、村と寺が争わずに済む道を示してやれ。それができるのは、お前だけだ」


 三雲も頷く。


「寺が湊殿を選べば、黒幕の力は削がれます。“弱みを握れなくなる”という意味で」


 慶次が笑った。


「黒幕から見たら、たまったもんじゃねぇな。“差配の一言”で寺が離れるんだからよ」


(俺の一言で、寺の行く末が変わる……)


 責任の重さが胸にのしかかる。

 だが、逃げる気はなかった。


 湊はゆっくりと息を吐き、顔を上げた。


「……行くよ。寺へ。寺と村の間に逃げ道をつくる。三奉行の影がどう動こうと、俺は会津を乱させない」


「それでこそだ」


 慶次が満足げに笑った。


「だが、小僧。寺の僧は揺れてる。黒幕も動く。今日の寺は昨日より危険だぞ?」


「承知しているよ」


「だったら――」


 慶次はぐっと湊の肩を掴んだ。


「お前は、今日“踏み込む”んだ。寺領も、密造も、藩府の影も。全部まとめて、冬のうちに片をつけるつもりで行け」


 冬の空は曇り、雪の粒がわずかに舞い始めていた。


(踏み込む……か)


 湊はその言葉を胸に刻み、寺の方角へ歩き出した。


 白い雪が、足跡を静かに飲み込んでいく。

 その奥へ伸びる道は、暗い影と薄い光が混ざり合い、まるで“選択”そのもののように見えた。


(寺を守るか、黒幕を暴くか……ではない。両方だ)


(会津を守るためなら、俺は――誰とでも戦う)


 湊の足取りは迷いがなかった。

 浅香と名古屋、三雲、八代、曽根、そして少し後ろから慶次が続く。


 寺が見えてくる。

 山門の前にはすでに、昨日とは違う緊張が漂っていた。


 雪の向こうに僧たちの影が揺れる。

 その奥には――黒幕の影すら感じられた。


(今日で、流れを変える)


 湊は強く、静かに心の中でそう呟いた。

寺の山門をくぐると、冬の冷えが一段と厳しくなったように感じられた。

 境内にはまだ薄雪が残り、踏みしめるたびに細かく砕けた雪がざりと音を立てる。昨日よりも人影が多い。僧たちが慌ただしく行き交い、どこか落ち着かぬ気配を漂わせていた。


 湊は歩みを止めず、本堂へ向かった。

 その道すがら、昨日庫裡で出会った下僧が気づき、深く頭を下げた。目の奥には恐れと期待が混じった複雑な光。


「差配殿……昨日の件、どうかお慈悲を……」


「心配するな。密造をすぐに糾弾するつもりはない」


 その一言に、僧の肩が大きく揺れた。

 だが続く湊の言葉が、さらに彼を驚かせた。


「ただし、寺がこのまま依存を続ければ、いずれ黒幕に飲まれる。だから今日、寺に“逃げ道”を示しに来た」


「……逃げ道、ですか」


「密造に頼らずに済む道だ」


 下僧は一瞬だけ目を伏せ、そして静かに頷いた。


「……どうか、お力添えを」


 それだけ告げると、僧は庫裡へ戻っていった。

 その背は昨日よりも軽かったが、まだ怯えを完全には脱していない。

 黒幕の影が、それだけ濃いという証拠だ。


 書院の前に立つと、僧正がすでに待っていた。

 顔には昨夜よりも緊張が刻まれている。


「差配殿……再び、お越しくださったこと、深く感謝いたします。しかし本日、寺は――」


「寺が揺れているのはわかっている。それで良い。揺れがなければ改革もできない」


「揺れ……」


 僧正の眉がわずかに動いた。

 湊は書院へ入り、静かに座すと広げた図を卓上に置いた。


 寺領、封戸、村の拡がり。

 三雲がまとめた図面は、過去と現在を重ね合わせた“新しい線引き”の下絵だった。


「……これは」


「寺の封戸を守りつつ、村の田畑を広げる案だ。双方が飲める境だ。これを基に話を進める」


 僧正は目を細めた。

 図面に吸い寄せられるように身を乗り出す。


「しかし、差配殿。この境では寺の収入は少し減ります」


「だが、密造酒に頼らずとも立ち行ける程度には残してある。その上で、村の負担を減らし、争いが起きぬように組み直した」


「……本当に、これで争いが収まるのでしょうか」


「収める。俺が形をつくり、あなた方がそれを守る。村には俺が説明する」


 僧正の目が大きく揺れた。


 湊は続けた。


「寺と村が揉めているうちは、黒幕の思うつぼだ。争いが続けば誰が得をする? あなた方か? 村か?」


「……違います。藩府の……」


「藩府の誰かだ。あなた方の弱みを握り、密造酒を操り、冬の会津の裏を動かそうとする者だ」


 僧正の手がかすかに震えた。


「差配殿……黒幕をご存じなのですか」


「まだ確定はしていない。だが、寺の“誰が揺れているか”を見ればわかる。揺れるのは、外から圧を受けている証拠だ」


 僧正は深く目を伏せた。


「寺は……密造をしてきたことに罪悪感を抱いております。しかし、封戸が減り続ける中で、寺を守る術がなかったのです」


「だからこそ、今日この場で決めてほしい」


 湊は僧正をまっすぐ見つめた。


「寺は、村と共に生きるのか。それとも、黒幕の庇護で冬だけをしのぐのか」


 沈黙が落ちた。


 僧正は唇を噛み、そして深く頭を下げた。


「差配殿……寺は、村と歩みます。この線引きに従います。密造酒の件は……差配殿のお手に委ねます」


 湊は小さく頷いた。


(よし、寺を押さえた……これで黒幕の力は一つ削がれた)


 だが――この決断が黒幕の逆鱗に触れるのは、時間の問題だった。


 その瞬間。


 境内の外で、硬い雪を踏む音が聞こえた。

 ただの足音ではない。複数だ。

 門前で誰かが言い争う声まで響き始める。


「……来たな」


 浅香が低く呟いた。


「黒幕側の動きか?」


「多分な。寺が湊についたと知れば、すぐに揺さぶりをかけてくる」


 名古屋山三郎が廊下から滑るように戻ってくる。


「湊殿。山門に、藩府の役人が三名。名乗りはしませんが……装束は三奉行の下役でございます」


 僧正の顔が蒼白になった。


「まさか……密造の件を咎めに?」


「いや、違う」

 湊は静かに立ち上がる。


「寺が“俺を選んだ”のを確認しに来たんだ。黒幕はまだ、寺がどちらについたか確証が欲しい」


「差配殿、どうされます」


「会う」


 その決断は迷いがなかった。


 三雲が言った。


「湊殿、相手は揺さぶりをかけてきます。“差配殿の権限では判断できぬことだ”などと言い、寺から離すつもりです」


「構わない。寺はすでに図面を見た。決断も聞いた」


 浅香が鋭い目で湊を見る。


「湊、気をつけろ。相手は黒幕の手駒だ。言葉一つで寺を揺らしに来る」


「任せろ」


 湊は外へ向かった。


        * * *


 山門前には、黒い綿帽子をかぶった三人の男が立っていた。

 雪が降り始めているにもかかわらず、彼らは微動だにせず、冷たい視線を寺に向けている。


 一人が湊に気づき、ゆっくりと頭を下げた。


「差配殿。寺の封戸の件につき、藩府より伝言を預かっております」


「伝言?」


「はい。“寺の封戸の再整理は、藩府の許しなく進めるべきではない”……とのことでございます」


 浅香が小さく舌打ちした。


 湊は一歩、前に出た。


「寺の封戸整理は、村と寺の合意の上で進めるものだ。藩府の許可は後にして構わない」


「それは困りますな」


 別の役人が口を開く。細身で、声は低い。

 昨日、下僧が語った“黒い直垂の男”を彷彿とさせる声音だった。


(こいつか……いや、直垂ではない。だが、黒幕の近くにいる者だ)


「寺領の線引きは、藩政の要。差配殿一人で決めて良いことではありません」


「決めてなどいない。提案をしただけだ」


「しかし、寺が差配殿の案を呑むと聞きました」


「それの何が問題だ」


 役人たちが視線を交わし、冷たい笑みを浮かべた。


「差配殿……我らが申し上げたいのはただ一つ。寺の封戸は“藩府の保護下”にある以上、下手に動かされては困る、ということです」


 湊は静かに息を吸った。


 この場で引けば、寺は再び黒幕の手に落ちる。

 しかし強引に押せば、役人が逆手に取り、湊を追い込む口実にされる。


 その一瞬の逡巡。

 だが湊には、昨日の慶次の言葉があった。


(踏み込め――)


「役人殿。寺は困っている。封戸が重荷となり、村とも争いが絶えず、密造に頼らざるを得ないほどに追い詰められている」


 役人たちの顔が硬直した。


「な……密造、とは」


「俺は寺を責めていない。だが寺の苦境を理解せず、封戸の見直しを拒むのは、藩府として正しいのか?」


 あえて「藩府」と言った。

 役人たちの背後にいる黒幕へ、直接突きつけたのだ。


「密造が事実なら、大問題だぞ。差配殿、軽々しく――」


「軽々しく言っていない。事実だ」


 役人が一歩後ずさった。


「寺を締めつけ、弱みを握り、密造酒を利用して私利を得る者が藩府にいる。俺が知りたいのは――それが誰かだ」


 沈黙。


 雪の降る音さえ聞こえる。


 その静寂を破ったのは、役人のかすれた声。


「差配殿……その発言、確かに受け取りました。いずれ藩府より正式な沙汰があります」


 脅しだ。


 だが湊は揺れなかった。


「沙汰なら歓迎する。寺と村の争いを解くための話ならば、何度でも応じよう」


 役人たちは互いにうなずき、踵を返した。


 雪の中へ消えていく黒い影。


(黒幕に、最初の一撃は届いた……)


 湊は胸の奥で静かにそう確信した。


        * * *


 寺に戻ると、僧正と三雲、浅香、名古屋たちが待っていた。

 僧正は湊の顔を見て、深く安堵の息をついた。


「差配殿……藩府の方々は?」


「帰ったよ」


「差配殿……あのままでは寺は……」


「心配するな。寺が俺を選んだ以上、俺も寺を守る」


 三雲が図面を広げる。


「湊殿。寺と村の新しい線引き……急ぎ仕上げましょう。この冬が勝負です」


「慶次さんは?」


「裏山で見張ってます。“黒幕の次の動きを見てくる”とのことでした」


 湊は強く頷いた。


「……この冬で決着をつける。寺領も、密造も、藩府の影もすべてだ」


 雪の向こうで、鐘の音が響いた。

 その音はどこか寂しく、しかし新しい始まりを告げるようでもあった。


(黒幕よ。寺も、村も、もうお前の思い通りにはならない)


(会津の冬を動かすのは――俺だ)


 湊は静かな覚悟と共に、雪の降り続く会津の空を見上げた。

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