76話:冬影、密造利権の影が動き出す
会津若松の城下は、まだ夜明けきらぬ冬の光を薄くまとっていた。雪雲は低く、重たく垂れこめ、町家の屋根の白が朝靄と混じってぼんやりと滲む。吐いた息はすぐに白く凍り、頬に触れる空気は刃のように冷たい。だがその冷たさは、湊の思考をむしろ澄ませていった。
寺の庫裡で見つけた密造酒。村と寺の裏取引。そして――藩府の「黒い直垂」の影。すべてが線となって繋がり始めている。その線の先に待つものが何であれ、逃げることは許されない。会津の冬は、迷いを赦さない季節だ。
「湊。夜明け前の城下ってのは、妙に胸に刺さるよな」
浅香が横で呟いた。声は低いが、どこか温かい。冬の朝に似合う、研ぎ澄まされた静寂の声だ。
「刺さる理由はなんだ?」
「町の音が全部消えてるからさ。人が隠してる”本音”だけが残る。……お前の顔も、いまはごまかせてねぇ」
湊は苦笑した。
「そんなに顔に出てるか?」
「ああ。三雲も気づいてるんじゃねぇの?」
「気づかぬわけがありませんな」
三雲成持は、雪を払うように軽く肩を揺らした。その表情は冗談を言う時の穏やかさではなく、六角家・蒲生家を渡り歩いた策士の顔だ。
「差配殿。あなたは今、二つの道の岐路に立っている。“黒幕を暴くか”あるいは“利用するか”。会津を守るために、どちらを取るべきか……その判断を迫られております」
「……まだ決めてはいない」
「決めねば、向こうに呑み込まれますぞ」
三雲の言葉は冷たい。しかし、その冷たさには湊を支える強さがあった。
町の辻を曲がると、粉雪が細かく降り出した。静かに、だが確実に積もる雪。それはまるで「時間が限られている」ことを告げる鐘の音のようだった。
(冬の間に決着をつける。黒幕の動きを、雪が消える前に掴む)
「三雲、村と寺の線引き図の作成はどうなっている?」
「ほぼ半分終わりました。寺領・村境・旧蒲生家の封戸……全て重ねております。今日のうちに粗図を仕上げます」
「急いでくれ」
「承知しました。密造酒の流れを探るのも同時に進めねばなりません」
「名古屋は?」
「先に商人筋を当たると言っていました。“酒を隠してる商家が一軒はあるはずだ”と」
「さすが山三だ」
その時、足音が近づき、白い息がふた筋、ゆらりと揺れた。
「湊殿。よい朝とは言えませぬが……お早いですな」
上泉伊勢守と岡左内である。ふたりとも朝の冷気をものともしない静かな気迫をまとい、雪の中にすっと立っていた。
「上泉さん。ちょうど話をしていたところです」
「黒幕、でございますな?」
「……ああ」
上泉はゆっくりと頷いた。
「昨夜、気になる点がございました。寺の裏手から逃げた馬の蹄跡……あれは城下の南――藩邸方面に向かっておりました」
「寺の下僧も同じことを言っていた。“藩府の人物が裏手に来ていた”と」
「ならば間違いありませんな」
上泉の目は厳しく細められた。
「差配殿。黒幕は、寺を利用しております。寺の弱み――封戸の揺らぎ、財政難、冬の困窮。それらを突き、“密造酒を売り捌く道具”にしている」
「寺も、蔵を温めるために必死なのだろう」
「それを見逃す代わりに、あるいは庇護する代わりに、黒幕は”寺を支配する”構図です」
「なら、寺は救わなければならない」
湊の言葉に、岡左内が鼻で笑った。
「甘ぇな、湊。寺を救うのは簡単じゃねぇ。救えば黒幕が焦る。焦った黒幕は、今度は村を使うぜ」
「村を?」
「ああ。酒の製造元を村に転嫁させる。寺に手が入る前にな。“寺は被害者、村が密造していた”って形に変える。そうすりゃ、寺も黙るし黒幕も逃げられる」
背筋に冷たいものが走った。
(村を利用し、寺を守ったように見せかけ、密造酒の利権だけ握る……か)
冬の影は深い。人の弱さが、冷えた大地でさらに暗くなる。
「湊殿」
上泉が歩み寄る。
「敵は、あなたが動くたびに構えを変えます。剣の理と同じ。あなたが一歩踏み出せば、敵は一歩引く。あなたが立ち止まれば、敵は踏み込む」
「……わかってる」
「ですが、今ひとつ考えておられぬことがある」
「何だ?」
「黒幕は”あなたに興味を持っている”ということです」
湊は僅かに目を大きくした。
「興味を……?」
「はい。寺に誰が入るか、何を調べるか、あなたがどう動くか……すべて見ている。これは敵意だけではありません。“計りかねている”のです」
「計りかねている?」
「あなたが、敵に回るのか……味方にできるのか……その両方を見極めようとしている。それが黒幕の狙いです」
その瞬間、慶次の豪快な声が雪を割った。
「おーい、小僧! 朝っぱらから難しい顔してんな!」
振り向くと、前田慶次が雪を蹴立てて近づいてきた。大きく肩を回し、寒さなど物ともしない。
「お前の顔、完全に”冬の戦の顔”だな。悪くねぇ」
「慶次さん……」
「話は全部聞こえたぞ。黒幕か、寺か、村か。どれをどう斬るか、頭抱えてる顔だった」
「斬りませんよ」
「わかってるさ。だが、”斬る覚悟”は必要だろ?」
慶次はぴたりと足を止め、湊の正面に立つ。雪の白に映える、独特の鋭さと温かさを持つ瞳。
「湊。黒幕を暴きてぇのか? それとも利用したいのか?」
その問いが、冬の空気をさらに締め付けた。
浅香も、三雲も、上泉も、岡左内も……全員が湊を見る。
町の風音と雪の落ちる音だけが、沈黙の間を埋めていた。
(暴けば、争いになる。黒幕は反撃する。藩府の内側が揺れるだろう)
(だが、利用すれば……会津の冬を乗り切る力になるかもしれない。寺も村も守れる)
湊はゆっくりと息を吐いた。その白さがすぐ消えるほど、空気は冷たかった。
決断は、胸の底で静かに形を成していた。
「……両方を視野に入れる」
「ほぉ?」
「黒幕を暴すために密造酒の流れを追う。だが、同時に”黒幕が何を望んでいるか”も探る。藩府を揺らす者なのか、ただの利権狙いなのか……それを見極める」
「つまり?」
「黒幕を敵と決めつけるのは、まだ早い。“利用できる器かどうか”見てから判断する」
慶次はゆっくりと笑った。
「……小僧。やっと戦場の目になったな」
その言葉に、浅香も薄く笑った。
「湊。お前の腹が決まったなら、あとはやるだけだ」
三雲が深く頷く。
「では、密造酒の流れを追う手はず……急ぎ整えましょう」
上泉は静かに剣士の構えのように背筋を伸ばした。
「差配殿。黒幕は、あなたを見ています。動きは慎重に。ですが恐れずに」
「……ありがとう」
岡左内が冷たい声を置く。
「敵は、今の湊を恐れてる。あとはその恐れをどう使うかだな」
その言葉が、冬空に溶け、白い息のように消えた。
湊は若松城の方向を見つめた。灰色の雲が低く、天守の白い影を包み込んでいる。
(冬の会津は、すべてを白で隠す。だが、雪がすべてを覆い隠すからこそ――足跡は鮮やかに残る)
(黒幕よ。お前の足跡、必ず追いつく)
決意が胸で静かに固まり、その中心にくすぶる火が、冬空に負けず赤く灯った。
若松城下の夕空は、冬特有の重たい灰色が広がっていた。昼の名残の光がわずかに雪を照らしていたが、それもすぐに消え、冷気がゆっくりと町を包み込む。行灯の灯がぽつぽつと点きはじめ、朱に近い橙色の光が揺れる。まるで何かがひっそりと息を潜めているような静けさだった。
湊は、凍てついた石畳を踏みしめながら歩いていた。足元から伝わる冷たさは鋭いが、頭はむしろ冴える。決意したはずなのに、胸の奥にはざわりとした不安が渦を巻いていた。
(黒幕を暴くか、利用するか……その両方を視野に入れる。だが、どちらに進むにせよ、まずは“黒幕が何を求めているのか”を掴む必要がある)
そのためには密造酒の流れを抑えることが必須だった。だが、それはすなわち“黒幕の領域に踏み込む”ことを意味する。
浅香が隣で小さく舌を鳴らした。
「湊、いつになく慎重だな」
「慎重にならざるを得ない。寺も村も、誰かに揺らされている。何もしなければ会津が乱れる」
「何かすると、黒幕が牙をむく」
その言葉が妙に重く響き、湊は無意識に拳を握った。
「だから……一気に攻めるわけにはいかない。時間をかけて、動きと狙いを見切る」
「……それが、お前の答えか」
浅香は何も言わず、ただ短く息を吐いた。だがその横顔は、わずかに安堵を含んだように見えた。
(浅香は俺の“急ぎすぎる癖”をいつも心配している)
そう思うと、胸の奥で小さな温かさが揺れた。
そこで――後ろから軽い足音が近づいてきた。雪を踏む音だが、妙にリズムがある。
「お、いたいた。小僧、少し急いだほうがよさそうだ」
前田慶次だった。彼は片手に雪に濡れた紙片を持ち、軽く振って見せた。
「慶次さん、何かあったんですか?」
「名古屋山三郎からの伝言だ。“商人筋で珍しい動きがあった”とよ」
「珍しい動き?」
「ああ。酒蔵を一つ持つ商家が、冬にはほとんど使わないはずの”荷馬”を夜に出したらしい。行き先は南――藩邸方面」
湊の心臓が跳ねた。
「密造酒だ……」
「そう考えるのが筋だ」
慶次は雪を払うように紙片を丸めた。
「さらに――荷馬を出した商家の主人、数日前から“黒い直垂の者”と接触していたらしい」
「黒幕の配下……?」
「配下か、あるいは密造酒の取引役だな。いずれにせよ、動きが早い」
湊は深く息を吸った。冷たい空気が肺を刺したが、その痛みがむしろ判断を鋭くする。
「……行こう」
「どこへだ?」
「商家に。名古屋が見ているなら、俺たちも動くべきだ」
「黒幕の罠かもしれないぞ?」
「だからこそ行く」
浅香が短く笑った。
「やれやれ、お前のそういうところだよ……でも、今回は悪くねぇ」
三雲成持も遅れて追いつき、軽く頷いた。
「差配殿の判断、妥当かと。黒幕が動き出した今こそ、網を広げる時です」
全員の視線が湊に集まる。
湊は迷わず頷いた。
「行こう」
* * *
城下南の商家――大きな蔵を四つ構える家は、夜の闇に沈んでいた。昼なら米の匂いが漂う場所だが、いまはわずかな雪の匂いと冷気しかない。
名古屋山三郎が蔵の影から姿を現した。雪を払う仕草が妙に静かで、気配を完全に消していた。
「湊殿、待っていました」
「どうだ、何か掴めたか?」
「はい。商家の裏手に、“妙な荷馬”が止まっていました」
「荷馬……密造酒だな?」
「恐らく。荷馬には布をかけてありますが、甕の形が浮き出ていました。ただ……気になる点が一つ」
「気になる点?」
「荷を運ぶのが商家の者ではなく――藩府の足軽だったのです」
湊の背筋に、冷たいものが走った。
「足軽が……? 商家の荷を?」
「はい。通常ありえません。藩府の足軽が、民間の荷を運ぶことは決してない。あれは明らかに“命じられた運搬”です」
「黒幕が介在している、ということか」
「その可能性が高いと思われます」
浅香が小さく舌打ちした。
「湊、これはやべぇぞ。藩府の兵が動いてるってことは、黒幕は“相当な地位”だ」
「三奉行……いや、それ以上かもしれない」
慶次が鼻を鳴らした。
「小僧、ここから先は慎重にいけよ?」
「もちろんです」
だが胸の奥は静かに燃えていた。
(寺と村の争いではない。藩府を揺るがす問題だ。ここで引けば、誰かが必ず傷つく)
湊は蔵の前へと足を踏み出した。
踏むたび、雪がぎゅっ、と乾いた音を立てる。
闇が徐々に濃くなる。行灯の光を背に、蔵の扉が黒い影のように迫る。
「開けるぞ」
三雲が頷き、浅香とともに扉の左右に立つ。
湊は静かに扉へ手をかけた。冷たい木の感触が指に食い込む。
深く息を吸い、押し開いた。
中は真っ暗だった――そう思った瞬間。
火の粉が、ぱちり、と走った。
「……!」
蔵の奥に、人影があった。
黒い直垂。細い体躯。ゆっくりとこちらを振り返る。
声は、低く控えめだった。
「差配殿。お越しになるとは思っておりました」
燭台の小さな炎が、その横顔を照らす。目元は落ち着き、口元はわずかに笑んでいる。
敵意はない。しかし、油断もない。まるで刺さず、斬らず、ただ間合いを測る剣士のような佇まいだった。
(……黒幕の片腕だ)
湊は直感で理解した。
「あなたが……寺の裏にいたという人物か」
「はい。あの時は急ぎの用件でして。申し訳ありません」
「密造酒の件……あなたが関わっているのですね?」
「ええ。関わっております。ただし、我々も好きでやっているわけではありません」
その言葉に、浅香が低く唸った。
「言い訳か?」
「いいえ。事実です。寺も村も、この冬を越すには米が足りません。封戸も揺らぎ、税も重い。……ならば、どうすべきか?」
黒い直垂の男は、湊の目を静かに見つめた。
「“酒に変えるしかない”のです」
その声は震えていなかった。むしろ、哀しみと諦めが入り混じっていた。
「では、なぜ売り先が藩府なのです?」
「寺も村も、藩府の庇護なしでは生きられません。だからこそ……我々は動いているのです」
「あなたは……誰に仕えている?」
その問いに、男は静かに微笑んだ。
「それをお答えするほど、私は愚かではありません」
「……三奉行の一人か?」
「さて。どうでしょうね」
純粋に質問を受け流しているだけ。敵意も焦りもない。まるで“試している”かのようだった。
「差配殿。あなたは寺を助けるおつもりでしょう。そして村も救うおつもりだ」
「……そうだ」
「それは立派だ。しかし――」
風が蔵の隙間から吹き込み、灯が揺れた。
「寺も村も、それだけでは守れません。“もっと大きな動き”が必要になります」
「大きな動き?」
「はい。会津は、変わらねばならない。冬が終わる前に」
その瞬間。
外から――馬の蹄の音が近づいた。
ざっ、と雪を蹴る音。
三雲が素早く扉を閉め、浅香が短刀を構えた。
慶次が笑った。
「おいおい、小僧……雪の夜に動く馬なんて、どう考えてもロクな相手じゃねぇぞ?」
黒い直垂の男は、ふっと微笑んだ。
「差配殿。続きはまたいずれ。あなたの答えを楽しみにしておりますよ」
その瞬間――彼の姿は闇に紛れるように消えた。
「待て!」
湊が追いかけようとしたが、外はすでに混乱していた。馬が走り去り、雪煙が舞い上がる。
黒幕の影は、また遠ざかった。
* * *
薄暗い城下の一角――藩府の灯が揺れ、冷たい風が庭木を撫でる。
冬の闇の中で、黒い直垂の男は馬を降りた。
「戻ったか」
静かな声が闇から聞こえた。
「はい。差配殿は……動き始めました」
「そうか」
「彼は敵ではありません。しかし……味方かどうかもわからない」
「ならば、しばらく泳がせておけ」
「はい」
闇の中の主は、冷たい声で続けた。
「冬が終わる前に、会津の形を決める。湊という男が、その鍵になる」
黒い直垂の男は深く頷いた。
「会津は……変わります」
その言葉だけが、雪の闇に静かに消えていった。




