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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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75話: 雪下の密議 ― 三奉行の影 ―

会津若松の夕空は、薄い灰の雲が幾重にも重なり、どこか”底”の見えない色をしていた。日暮れ前のわずかな光が城下を斜めに照らし、雪を淡く銀色に染めてゆく。


 湊は、白い息を一つ吐きながら歩みを進めていた。寺の庫裡で見つけた密造酒の甕――あの甘い発酵の匂いが、まだ鼻の奥にこびりついている。


(寺と村が組んで密造をしていた。だが、それだけじゃない……藩府の誰かが絡んでいる)


 胸の奥底には、言葉にできないざらついた違和感が小さな結晶のように残っていた。


「湊」


 隣を歩く浅香がぼそりと言う。その声は低いが、ずっと聞き慣れた”危険信号”の響きを帯びていた。


「今日の僧……どこか変だったな」


「変、か」


「ああ。密造の現場を見られて動揺するのは当然だ。だが、あの目はそれだけじゃねぇ。“もっと上を気にしてる顔”だった」


 湊は足を止めなかったが、心の歩みはぴたりと止まった。浅香が続ける。


「多分、あの寺……“後ろに誰かいる”。密造酒の利益が、寺と村だけで回ってるとは思えねぇ」


「寺の背後に、か」


「僧の言葉じゃねぇ。間の取り方だ。何度も誰かの顔色を伺うような間があった。湊、お前なら気づいてるだろ?」


 胸がざわりと揺れた。湊は気づいていた。だが、意図的に視線をそらしていたのだ。


「……確かに感じた。密造の現場を押さえた時、僧は驚いていたが……怯えていたのは”俺たち”に対してじゃなかった」


「だろ? あの怯えは”誰かに知られる”ことへの恐れだ。俺たちより怖い誰かがいる」


 雪の道を踏みしめる音が妙に響いた。まるで静寂そのものが何かを警告しているようだ。


「三雲はどう見ている?」


 後ろで歩いていた三雲成持が、短く息を吐き、前へ出る。


「……密造酒は、寺と村の”生き残り策”でしょう。冬は働き口がなく、米を酒に変えて売るしかない。それ自体は、この土地では珍しくない」


「だが?」


「問題は、その酒がどこへ流れているか、です」


 湊は眉をひそめた。


「どこへ……?」


「密造酒を売るには、買い手が必要です。村で飲むだけなら甕三つも要らない。あれは明らかに”売り物”の量だった。となれば、売り先がある」


「城下の商人か?」


「いえ。城下で密造酒を売れば、すぐに露見します。もっと”安全な売り先”がある。つまり――」


 三雲は声を落とした。


「藩府の誰かが、買い上げている可能性がある。あるいは、売り捌く仲介をしている」


 その言葉が、冬の空気をさらに冷たくした。


「藩府が密造酒に絡んでいる……」


「はい。寺は藩府の誰かに頼らねば生きられぬ、と追い込まれている。封戸だけでは立ち行かず、密造で稼ぐしかない。だが、密造を黙認してもらうには”上”の庇護が必要です」


「つまり、寺は取引を持ちかけられている」


「その通りです。“藩府の意に沿えば、密造を見逃し、封戸の一部も守れる”と。寺は藩府の一角にすがりつこうとしている」


 湊は静かに息を吸った。冷気が肺の奥まで届き、わずかな痛みとともに思考を研ぎ澄ませていく。


「……寺は俺を試している?」


「試すというより、“どちらにつくべきか測っている”のでしょう。差配殿の言葉に揺らいでいましたが、まだ迷っています」


 その瞬間だった。


 寺から遠くない小路の先――粉雪の向こうに、ふたりの影が立っていた。


 上泉伊勢守と岡左内である。


「湊殿。ここでお会いできるとは」


 上泉の声は穏やかだったが、その目は違った。何かを察している目だ。


「上泉さん。寺の庫裡を見てきたところです」


「庫裡……密造の現場でしたな」


 上泉は静かに頷いた。やはり、すでに知っていた。


「湊殿。あの酒、どこへ流れていると思われますか?」


「三雲は、藩府の誰かが絡んでいると」


「同感です。密造酒を売り捌くには、必ず”上”の庇護が要る。この会津で、寺を庇護できる立場の者は限られている」


 岡左内が腕を組んだまま、短く吐き捨てた。


「寺を使う奴は、次に村を使う。村を使う奴は、町人を使う。密造酒の利権を握れば、冬の会津を裏から動かせる。つまり――大事になる」


「……やはりそうなるか」


「湊。お前はまだ甘い。寺の僧が揺れているうちに本気で掴まなきゃ、藩府の思うままだぞ」


 岡左内の声は刺々しい。だが、その言葉は警告に満ちていた。


「湊殿」


 上泉が静かに続けた。


「剣の理で言えば、寺は”構えを失っている状態”です。密造を押さえられ、封戸も揺らぎ、藩府の圧力も受けている。そこに第三者が介入すれば、一太刀で崩れます。湊殿は、どうするおつもりで?」


 問われ、湊は一瞬だけ視線を落とした。決断を固めるための、ほんのわずかな沈黙。


「……寺を守る。ただし、藩府の影を暴く前に、寺と村の間に”逃げ場”を作る」


「逃げ場?」


「封戸帳を再整理する。寺にも村にも、“この道なら争わなくて済む”という線を作る。そして――密造酒については、今は泳がせる」


 三雲が目を見開いた。


「泳がせる、ですか」


「ああ。今、密造を暴けば寺は潰れる。村も困る。そうなれば、藩府の黒幕だけが得をする。“寺と村を潰して、自分は手を汚さずに済む”」


「なるほど……」


 上泉は満足げに頷いた。


「敵の刃が触れぬ間合いを作り、かつ敵の狙いを外す。湊殿の策、理にかなっています」


 そこへ――雪を蹴飛ばすような足音が近づいてきた。


「おい、小僧! 話は進んだか?」


 振り向けば、前田慶次が笑いながら近づいてくる。白い雪を肩に散らし、豪快に払う仕草は、冬の空気を一変させるような勢いがあった。


「慶次さん……」


「密造酒の件、聞いたぞ。で、どうする? 寺を潰すか? それとも黒幕を締め上げるか?」


「どちらもしません。今は」


「ほぉ?」


 慶次の目が鋭くなった。


「密造を泳がせて、藩府の誰が動くか見る。酒の流れを追えば、黒幕に辿り着く」


「……なるほどな。小僧、頭が回るようになったじゃねぇか」


 慶次は顎を撫でながら、にやりと笑った。


「で、黒幕の心当たりは? 三奉行のうち、誰だと思う?」


 その問いに、場の空気が一瞬で張り詰めた。


 三奉行――会津藩の実務を握る三人、すなわち藩の中枢。


 湊は慎重に言葉を選んだ。


「……まだ特定はできません。ただ、いくつか条件がある」


「条件?」


「寺の封戸に口を出せる立場。密造酒の流通を黙認できる権限。そして――俺の動きを気にしている者」


 慶次が眉を上げた。


「お前を気にしている?」


「はい。今日、寺にいる間……誰かが裏手に来ていたそうです」


 名古屋山三郎が静かに補足した。


「庫裡を調べている間、私も気配を感じました。馬の蹄の音が遠くでしていた。急いで去ったようでしたが」


「つまり、俺たちが密造を見つけるのを、誰かが監視していた」


 慶次は低く唸った。


「……面白ぇ。黒幕は、お前が動くのを待ってたってわけだ」


「待っていた?」


「ああ。お前が密造を見つけて騒げば、寺を潰す口実になる。お前が黙れば、弱みを握れる。どっちに転んでも、黒幕の得だ」


 湊の背筋に冷たいものが走った。


「……だから、俺はどちらもしない」


「泳がせる、か。悪くねぇ。だが小僧、時間は限られてるぞ?」


「わかっています」


「冬が終われば、密造の証拠は消える。酒は売り捌かれ、甕は片付けられる。動くなら、雪が溶ける前だ」


 慶次の言葉は重かった。


 湊は深く息を吸い、冬空を見上げた。灰色の雲は厚く、どこまでも重い。だが、その奥には必ず光がある。


「……三雲、原図を急いでくれ」


「承知しました。五日で仕上げます」


「それと、密造酒の売り先を探る。どこの商人が動いているか」


「名古屋殿と手分けして調べましょう」


 浅香が低く言った。


「湊。俺は寺の周りを見張る。誰が出入りするか」


「頼む」


 八代が肩をすくめた。


「俺と曽根は、村の若い衆から話を聞くよ。酒を運んでる奴がいるはずだ」


「助かる」


 全員が動き出す。


 慶次が最後に、湊の肩を叩いた。


「小僧。いい顔になったな。迷いが減った」


「迷ってる暇はありません」


「そうだ。迷う暇がねぇ時に、人は強くなる」


 風がひゅう、と細く鳴った。雪国の冬特有の、家々の隙間をすり抜ける冷たさが皮膚を刺す。


「慶次さん」


「なんだ?」


「黒幕が誰であれ……会津を乱すためなら、暴きます。だが、会津を守るためなら――利用することも考えます」


 慶次は静かに笑った。


「小僧。やっと”戦の目”になったな。面白ぇ、この冬は見物だ」


          * * *


 若松城下の通りは、夕闇の気配を帯びはじめていた。行灯に灯った火がゆらゆらと揺れ、白い雪を淡く照らす。


 湊たちが城下を歩いていると、城下から少し離れた路地の奥で、小さな灯りが揺れた。


 雪が舞う薄暗がりの中、ひとりの老人が佇んでいる。灰色の着物、藁沓、背を丸め、深い綿帽子を目深にかぶる。


 だが、その立ち姿には不思議な気配があった。


「……あれは?」


「湊殿、“あの寺にいた僧”です」


 三雲が囁いた。


「本堂の隅に控えていた下僧。先ほどは一言も発しませんでしたが……庫裡の様子を一番よく知っている立場」


「なぜ、こんな場所に?」


「それが……気になりますな」


 湊たちが近づくと、老人はゆっくり振り返った。雪のせいで頬が赤く染まり、目元だけが妙に鋭い。


「差配殿に……ひとつお伝えしたいことがございます」


 声は震えていた。だが、それは寒さのせいではなかった。


「あなたが寺で庫裡を見ていた間――裏手に、“別の方”が来ておられました」


「別の方?」


「はい。“藩府の方”にございます。密造の件を確かめに来られたようで……」


 湊の胸の奥で、冷たい何かがぴしりと音を立てた。


「どんな人物だ?」


「名は……申しませぬ。申し上げれば、私は寺を追い出されるでしょう」


「では、姿だけでも」


 老人は長くためらった後、ふっと息を吐いた。


「……黒い直垂。細い体。声は低く、しかし刺すような控えめさがございました。密造酒の売り先について、僧正と話をしておりました。“次の荷はいつか”と」


「やはり……藩府が密造に絡んでいる」


「寺は追い詰められております。だが、差配殿の言葉に心が揺らいでいるのも事実。それゆえ、黒い直垂の御方は、差配殿を……“快く思っておられぬ”」


 湊は無言で冬空を仰いだ。白い雪がわずかに頬へ舞い落ち、溶けて消える。


「……その人物は、どこへ?」


「寺の裏手から馬で去りました。行き先は城下の南の方――藩邸のある方面です」


 老人は深く頭を下げ、震える声で言った。


「差配殿。寺は、あなたに期待しておる僧もおります。密造がなくても生きていける道を……どうか、お示しください」


 そう言い残し、老人は雪の中へ消えるように去っていった。


 沈黙が落ちる。


「湊……」


 浅香が低く呟いた。


「繋がったな。密造酒、寺領、藩府の黒幕……全部、一本の線だ」


「黒い直垂……細い体……控えめな声……」


 名古屋が顎に手を当てる。


「特徴が少ねぇが……藩府の中でそんな格好をするのは限られてる」


 三雲が静かに言った。


「細身で控えめな声。だが、影響力がある。密造酒の流通を握り、寺の封戸に口を出せる人物……この冬、差配殿に近づこうとしているのは――」


「……特定できるのか?」


「湊殿が名を出す前に、私が言えば”色がつく”。いまは控えましょう。ただ……」


 三雲は雪の落ちる音が聞こえるほどの静けさで告げた。


「その人物、三奉行のうちの誰かである可能性が高い」


 その場の空気が一瞬で凍りついた。


 八代はおどけたように笑って見せたが、その目は笑っていなかった。


「やっべぇな、湊。これはもう”寺の問題”じゃねぇ。家中の骨に触れる騒ぎだ」


「だが、逆に言えば……」


 湊は静かに言った。


「黒幕が三奉行の一人なら、動きは慎重になる。証拠を残さないように動くはずだ。つまり――」


「密造酒の流れを追えば、必ず尻尾を出す」


 浅香が頷いた。


「湊。この冬で決着をつけるぞ」


「ああ」


 湊は雪の向こうに広がる若松城の天守を見つめた。白く、冷たく、そして重い――この冬の会津そのものだ。


(寺領、密造酒、藩府の影……すべてが繋がっている)


(黒幕よ。お前が何を望むか……俺が見極める)


 白い息が空に昇り、夜の帳が静かに降りてくる。その闇の奥で、確かに”何か”が動いた。


 冬は深まる。争いの影も、同じく深く。


 だが、湊の目には迷いがなかった。

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