74話: 庫裡に潜む冬の火種
会津若松の夜明けは、静かすぎた。
雪が音を吸い込み、城下の家々は白い布で包まれたように沈黙している。屋根の端から細い氷柱が垂れ、朝の光を受けて鈍く光った。吐く息は白く、冷たさが肺の奥にまで届く。
湊は早朝の城下を歩いていた。寺領整理の話し合いを終えた翌朝――だが胸の奥はまだ晴れなかった。僧の目の揺れ、浅香の言葉、三雲の含んだ声。
何かが、寺の背後で「動いている」。
昨夜はそればかりが頭に浮かび、眠りは浅かった。
雪道を踏みしめる音が、やけに大きく響く。
(寺領の線引きは、春までに示せる。だが……あの揺れの正体は、まだ見えていない)
胸に残る違和感を振り払うように歩を早めると、向こうから名古屋山三郎が手を挙げて歩いてきた。肩に薄く雪を積もらせ、相変わらず気配を殺しているのに、なぜか存在感は妙に強い。
「湊殿、早いな」
「寝つきが悪くてな」
「……わかります」
名古屋は短く言っただけだったが、その声には同じく夜眠れなかった者の響きがあった。
二人は並んで歩く。周囲はまだ薄暗く、町人たちの気配も少ない。
「村の年寄りが言っていたこと、覚えてるか?」
「“寺が田を取った”と怒っていたな。だが実際は線引きの問題だ」
「ええ。ただ……村の者の言い回しが妙でした」
「妙?」
「“夜に光が見える”と」
「光?」
名古屋は頷いた。
「寺の裏手の林で、夜更けに灯りが揺れていると」
湊は足を止め、名古屋を見た。
「昨晩の話か?」
「村の若い衆は、近寄るなと言われているそうです。寺の用かと思いきや、寺の僧も“知らぬ”と言い張るらしい」
(寺でもない……村でもない光……?)
寺領整理とは別の“火種”がある。
湊の胸に、昨夜の浅香の言葉がよみがえる。
――寺だけで動いているわけじゃない。
――“背後”で誰かが囁いてる。
そこに名古屋が続けた。
「湊殿。寺の裏の林……“水場”があります。小川が冬でも凍りにくい」
その瞬間、湊の背筋がわずかに震えた。
(水……冬に凍りにくい水場……夜の光……)
脳裏をよぎるのは、未来の知識。
寒村、雪深い土地、冬、凍らない水場、夜の灯り。
――密造酒。
歴史の教科書で見た“東北の冬の影”。
密造の現場はほとんどが「人目のつかない水場」だった。
(……まさか)
いや、まだ推測に過ぎない。
だが、この土地ならあり得る。
酒は生活だ。
冬は働き口が減り、米の余りを蒸して酒に変える文化も濃い。
湊が考え込んでいると、名古屋が続けた。
「湊殿。これが寺領争いの理由の一部である気がします」
「どういう意味だ?」
「寺の封戸の裏にある“林”。あそこを巡って村が妙に敏感だと言っていました。“あれは寺のものだ”“いや、村の境だ”と」
湊の眉がわずかに寄る。
(本来の封戸争いとは別に、“林そのもの”に価値がある……? もし酒を密造しているなら、寺にも村にも触れられたくない)
そこに浅香が、背後から雪を踏んで近づいてきた。
「湊。さっきの話、聞いてた」
「浅香……起きるの早いな」
「眠れなかったからな」
浅香は湊と名古屋の間に立ち、短く言った。
「寺の裏の林、気をつけたほうがいい。昨晩の寺僧の目……あれは“守ってるもの”がある目だ」
「寺の封戸じゃなくて?」
「封戸だけなら、あんな目はしない。“他人に見られたら困る何か”を抱えてる目だ」
(……密造の現場を寺が黙認している? それとも……寺も巻き込まれている?)
湊の頭の中で、昨夜の僧の言葉がよみがえる。
――封戸を手放せば寺が立ち行かない。
(寺は金が必要だ……村も金が必要だ……そして冬……)
この条件が揃えば、密造酒は自然に生まれる。
湊が息を吸い込んだ時、別方向から足音が聞こえた。
ゆっくり、そして滑らかに雪を踏む足音。
「おや……揃って歩くとは珍しい」
上泉伊勢守が朝の光を背に立っていた。
その後ろには岡左内が腕を組み、静かに続く。
「昨夜は眠れなんだようですな、皆」
「ええ……少しばかり」
「顔がそう言っております」
上泉は穏やかに笑うが、その眼差しは鋭い。
「寺領の件、何か“筋の通らぬ点”があったのでしょう?」
湊は正直に答えた。
「寺も村も嘘をついていない。しかし、どちらも“別の何か”を隠している気配があります」
「ほう……」
「寺の裏の林で、夜更けに灯りが揺れていると。寺も村も、そのことには触れたがらない」
上泉は一瞬だけ視線を伏せ、考えるように雪を踏んだ。
「湊殿。その話……しばらくは、他言無用にされたほうがよろしい」
「なぜです?」
「酒でござる」
短く、しかし確信に満ちた声だった。
名古屋が息をのむ。
「……上泉殿、やはり酒ですか」
「この土地では“冬、酒は命”でございます。山深く、米が潤沢でない土地では、米を酒に変えて売ることが生きる術となる。今の会津も例外ではありません」
上泉は雪を一つ蹴りながら続けた。
「寺領の奥の水場……あれは“冬でも凍らぬ”と聞きましたな?」
「はい」
「ならば、もう決まりです」
湊は無意識に拳を握った。
(密造酒……寺領の背後で、そんなものが……)
「湊殿」
上泉の声が静かに響く。
「酒は、金の流れそのものです。寺も村も、それに触れられたくない。藩府の一部が動いているなら……“火”はすでに回っている」
「……寺と村の争いは、密造を隠すための“煙幕”の可能性もあると?」
「あります。むしろ筋が通る。」
その時、八代と曽根が駆けてきた。
顔が赤く、興奮した様子で。
「湊! 大変だ!」
「どうした?」
「村の若い衆が、寺の裏の林に入ったんだとよ!」
「今朝の話です!」
湊は息をのむ。
「何をしに?」
「“湊殿に見せるものがある”ってよ……村の年寄りが止めたらしいが聞いちゃいねぇ!」
名古屋が低い声で呟いた。
「……林で何が起きてる?」
(呼ばれている……? 村が、湊に“見てくれ”と言っている……?)
浅香が刀の柄に軽く手を添える。
「湊。林に行くぞ。村の若いのが勝手に動くってのは……裏に何かある時だ」
「寺の僧たちは?」
「まだ気づいてない。だが、すぐ動くかもしれん」
湊は深く息を吸った。
(寺と村、藩府の黒幕……すべての線が“林”に通じている)
胸の奥のざわつきが、はっきりとした形を持ち始めた。
(行くしかない。あの林を見なければ、何も始まらない)
湊は一歩、雪の上に足を踏み出した。
「三雲、名古屋、浅香、八代、曽根……行くぞ」
名古屋が頷き、浅香が静かに刀の位置を直す。
「湊。林は深い。視界も悪い。気をつけろ」
「わかってる」
上泉と岡左内も続いた。
「湊殿。我らも参りましょう。これは、ただの村争いではござらぬ」
「……お願いします」
朝の光が、林の方角を照らし始めていた。
その先は白く、そしてどこか重い。
湊の胸の奥で、ひとつの確信が芽生える。
(これは、“寺領整理”だけの問題じゃない。この冬、会津の底に眠る何かが動き始めている)
雪に覆われた道を、湊たちは林へ向かった。
まだ誰も知らない、“冬最大の火種”が待つ場所へ。
会津若松の城下を離れ、湊たちは村の“水場”へ向かっていた。雪は細かな粒となって降り続け、道を踏むたびに、ぎゅっ、ぎゅっ、と湿った音がする。夕刻の空は灰色で、太陽の残滓が雲の奥で鈍く光っていた。冬の冷気が、肌よりも胸の奥を冷やしてくるようだった。
「ここを左だ。村の連中が言ってた“光のあった水場”ってのは、この先だ」
八代が振り返りながら言った。その声はいつもより低い。浅香も黙したまま歩き、曽根は周囲を落ち着かない様子で見回している。名古屋山三郎は雪を払いながら前方を見据えた。三雲だけは淡々としていたが、瞳の奥には確かな緊張が見えた。
やがて、薄暗い林が見えてきた。木々の枝が雪を重く抱え込み、風が吹くたびに白い塊が音を立てて落ちる。水場はその奥にあるらしい。
「……ここ、だな」
名古屋が足を止めた。林の向こう、ぼんやりと黒い水面が広がっている。細い川のようにも見えるが、湧水が溜まった池のようでもあった。
湊は一歩踏み出す。雪がきしりと鳴った。
風が吹き抜け、木々の影が揺れる。しかし――。
「……光なんて、ないな」
曽根が呟いた。
八代が舌打ちを漏らす。
「だろうな。村の年寄りの話、どうも腑に落ちなかったんだ。“寺の裏の水場に光が見える”って、わざわざ俺たちに伝えてきた。なんでだ?」
「嘘か?」
浅香の声は冷たかった。
湊は周囲を見回す。雪が薄く積もり、足跡はない。水面は凍っているわけではないが、踏み込んだ形跡もない。灯りを置いた痕跡も見当たらない。
「……ここで灯りを入れたとは考えにくい。風が強すぎる」
三雲が淡々と断じた。
「それに、密造酒が目的なら、ここは向いていない」
湊は三雲の言葉に頷いた。
「理由は?」
「単純だ。水場では温度が低すぎる。酒の仕込みは室内、囲炉裏がある場所が良い。ここで作る者はいない」
浅香が目を細めた。
「つまり……村は“嘘”をついた?」
「いや、そこが違う」
湊は首を振った。胸の奥に、ひりつくような確信が生まれていた。
「村は嘘をついていない。だけど、“本当のことを言っていない”」
名古屋が湊の横顔を見る。
「どう違う?」
「村の年寄りは、“光があったように見えた”と言っていた。でも……」
湊は水面の反射を見つめた。雪が風に流され、林の影が揺れる。水面が揺れるたびに、薄く光が跳ね返る。
「月の反射でも、遠目には灯りに見える。それを知ってて、あえて話した可能性がある」
「村が、わざと囮を置いたってことか?」
八代の声が低く響く。
「本当の仕込み場から目を逸らすために?」
「そうだと思う」
湊は深く息を吐いた。白い息がすぐに冷えて散った。
(じゃあ、本当の現場はどこだ)
村の構造。寺の境内や蔵。村の空き家。納屋。冬に使われなくなる作業小屋。蔵の湿気。室内の暖かさ――。
ごく自然に、ひとつの場所が脳裏に浮かんだ。
「……本堂の裏だ」
浅香がすぐに反応する。
「庫裡か。寺の炊事場の裏の倉か」
「そこなら、囲炉裏も近い。温度もある。村も寺も近い。隠しやすい」
「あの僧……封戸帳を見せた時、目が揺れたな」
三雲が静かに言う。
「寺は寺で、何かを抱えているのでしょう。僧一人の判断では動けない何かが」
「寺の背後に……藩府の誰かがいるってことか?」
八代の声には警戒が混じった。
湊は拳を握った。冷たさで感覚が薄れるが、それ以上に胸の奥が熱くなっていく。
「会津の冬は、火が消えない。むしろ、雪の下で燃える。寺も村も、そして藩府も……どこかで繋がっている」
名古屋が雪を払って顔を上げた。
「――戻るぞ。ここは囮だ」
「戻って、どうする?」
曽根が尋ねた。
「庫裡に行く。寺に隠された“本当の火種”を見つける」
浅香が短く頷く。
「行くなら、気を引き締めろ。寺は敵じゃないが、味方とも限らない」
「わかってる」
(俺は……何を見逃していた?)
湊は林を振り返った。白い雪、揺れる影、静かな水面。すべてが偽りではなく、ただ“本質から一歩ずれた場所”だった。
深呼吸し、決意を固める。
「……行こう」
寺へ戻ると、境内は静まり返っていた。先ほどよりも風が弱まり、空気がしんと澄んでいる。本堂の影は夕闇で深く、奥の庫裡の方向だけがわずかに明るい。灯りが漏れているわけではない。雪の反射が、建物の輪郭を淡く照らしているだけだ。
「三雲、庫裡はどこだ?」
「本堂の裏手です。炊事場と、僧が寝泊まりする部屋。その奥に、古い蔵があります」
「蔵……」
湊の胸が高鳴る。
(そこだ。そこしかない)
名古屋が全体を確認するように視線を走らせた。
「妙に静かだな。警戒している……というより、“待っている”空気だ」
「寺の僧は、俺たちが戻って来ることを読んでいるのかもしれんな」
三雲の言葉に浅香が歩みを止める。
「つまり、もう引き返せないってことだ」
八代が苦く笑った。
「おい湊、足震えてねぇか?」
「震えてない」
「嘘つけ。顔が真面目すぎるんだよ」
たしかに、胸の奥は緊張で強く締め付けられていた。しかし逃げるわけにはいかない。湊は歩みを進めた。
本堂の裏に回ると、庫裡へ続く小道が現れた。積もりかけた雪を踏むたびに、冷たい音が響く。壁際には薪が積まれ、白い息が吸い込まれるように薄闇に消える。
庫裡の入口に、わずかな温気が漏れていた。人の気配はない。しかし、かすかに漂う“甘い匂い”に、湊は足を止めた。
(……これは)
白米を蒸したときの甘い香り。発酵の初期に生まれる、柔らかく鼻をくすぐる匂い。湊は大学時代、民俗学の授業で“醸造の基礎”をかじったことがある。
ドブロクの匂いだった。
「湊?」
「……間違いない。“ここ”だ」
浅香が目を細める。
「庫裡で作ってやがったか……」
三雲が頷く。
「寺と村が協力している証拠ですな。それに、藩府の誰かが絡んでいる可能性も高い」
「水場の噂は、囮だったんだな」
八代が低く呟く。
「寺を守るため。村を守るため。そして……儲けるためか」
湊は庫裡の扉に手をかけた。冷たい木の感触が掌に伝わる。
ゆっくりと押す。
ぎ……ぎ……と軋む音が、静寂を裂いた。
庫裡の中は薄暗く、灯りはなかった。しかし、炊事場の奥に積まれた甕の影が、かすかな光で浮かび上がる。甕は3つ。その蓋の一部がわずかにずれている。中から上がる白い霧のようなものが、発酵による熱で立ち昇っている証拠だった。
「……完全に、密造だな」
浅香が低く言う。
三雲は甕に手をかざし、温度を確かめた。
「仕込まれてから五日ほどでしょう。まだ若い酒です」
「村の連中……寺と組んでるのか?」
「いや、それだけじゃない」
名古屋が甕の周囲を足で探る。雪がない。つまり――。
「冬なのに、外から持ち込んだ足跡がある。複数の足だ。村だけじゃなく、藩府の者もここに出入りしている」
「寺の僧も“隠している”というより、“守っている”目をしていた」
三雲の言葉が胸に刺さる。
湊は甕の前に立った。
(寺と村と藩府……三つ巴の利権か)
この冬、火種が複数あることは分かっていた。しかし、それらが一本の線で繋がり始めている。
(寺領問題。村との境界争い。藩府内の対立。湯屋の人の流れ。この密造酒――全部、地続きだ)
湊は息を呑んだ。
「小僧、見つけたようだな」
背後から、低く笑う声が響いた。
振り返ると――前田慶次が入口に立っていた。雪を払いながら、にやりと笑う。
「こりゃあ、ただの寺領の揉め事じゃねぇ。火種ってのは、こういう場所にこそ潜むんだよ」
浅香が静かに問う。
「慶次。あんた、いつからいた?」
「さっきからだよ。お前らが林の水場を見てる間に、こっちを見に来た。……まあ、予想どおりだったがな」
「予想?」
「“水場で酒造り”? ありゃあ初心者の考えだ。昔から、密造は蔵でやる。冬の蔵は温度が安定してるし、寺なら誰も疑わねぇ」
慶次の目が、甕を見渡す。
「面白ぇじゃねぇか。寺も村も藩も、みんな得してやがる。こういう利権が絡むと、国は動くぞ」
「動く?」
「ああ。“誰の手に落ちるか”でな」
慶次は湊の肩に手を置いた。
「どうする、小僧? これを暴くか? それとも利用するか?」
湊は答えなかった。胸の奥で、熱と冷たさが混じり合う。選択次第で、会津の冬が変わる。村も寺も、藩府も。自分自身の立場も。
「……まずは、全てを知る」
「いい目だ」
慶次は満足げに笑った。
「そして、“火種をまとめる”。それが冬の若松の戦場だ」
湊は甕を見つめた。白い発酵の霧が、静かに立ちのぼっていた。
(逃げられない。この冬で、全部に決着をつける)
湊は小さく息を吸った。
その息が、庫裡の暗がりの中で、白く滲んだ。




