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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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73話:霜月の城下、火種を束ねる者

会津若松の空は、薄い雲の層を一枚まとっていた。朝の陽が透け、城下の白さがじわりと浮かび上がる。道の端に積もった雪は、夜の冷えで固く締まり、足を踏み入れるたびに小さく軋んだ。風は弱いが、肌を刺すような冷たさを帯びている。


 湊は吐く息を前に漂わせながら、城下の道を歩いていた。普請差配として、今日は「寺領整理」の相談に乗る約束がある。湯屋の建設準備も同時並行で進んでいるが、今はそちらを一度脇に置き、会津の”古い火種”に向き合わねばならなかった。


 背後には、名古屋山三郎と八代。それに浅香と曽根が続き、三雲成持が隣に並ぶ。上泉と岡左内は別行動で、夕刻に合流する手筈だ。


「……重たい空だな」


 ぼそりと呟いた湊に、三雲が応じる。


「雪国の冬は、天井そのものが落ちてきそうな気配を見せますからな。寺社と村々を巡る話は、こういう日の方が”膿”が出やすい」


「膿、か」


「はい。こう見えて、寺社・村政の揉め事には散々関わってきましたのでな」


 三雲は淡々と言うが、その顔は冬空より渋かった。六角家臣として寺社統制に深く関わり、のちに蒲生家でも寺領と恩賞の扱いを担当した男。会津に残った理由の一つも、“彼の行政手腕”である。


「ところで湊殿」


「どうした?」


「本日の寺……少し、空気が張り詰めております。事前の知らせでは、『蒲生家時代の寺領割りが、今になって村と噛み合わなくなってきた』とのこと。堀家の話ではなく、あくまで昔からの尾を引く問題です」


「なるほど……今回は新しい火種じゃないんだな」


「ええ。むしろ古い火種ですよ。封戸の割り振り、用水の優先順位、村境の曖昧さ……。冬になると、どれも”硬くなる”」


 硬くなる、という言葉に、湊は眉をわずかに寄せた。冬は心と土地を固くし、交渉を難しくする。上泉も先日、同じことを言っていた。


 三雲が続ける。


「蒲生家の頃は領地が広すぎて、寺に任せきりの部分も多かったのです。それが今になって村々と噛み合わなくなっている。今回の火種は、上杉家でも堀家でもなく、“蒲生時代からの遺産”ですな」


「……わかった。聞き取りの前に、状況をもう少し知っておきたい」


「はい。寺側は、封戸の見直しを望んでいる。村側は、寺がまた領地を広げるのではと疑っている。その構えです」


 湊は息を吐く。冷気で胸がきゅっと縮んだ。


 村と寺の対立は、どの時代でも厄介だ。しかし今回は、単なる水利争いの延長ではない。もっと根深い――“組織の古い歪み”だった。


「湊」


 浅香が横に来る。いつもの低い声だが、切れ味がある。


「寺の奴ら、今日は”勝手に触るな”って顔してる。気をつけろ。昨日の水利ほど単純じゃない」


「わかってる」


「……あと一つ。山三が言ってた。寺の古文書、触れるなって」


 名古屋山三郎は静かに頷いた。


「本堂奥に”蒲生家の頃の封戸帳”があるようでしてな。寺は湊殿に見せたいらしい。しかし、あれを外に持ち出すと、一気に事が大きくなる。“寺と差配が結んだ”という噂が走る」


「……重いな」


「ええ。ですので、現場での判断が肝心かと」


 八代も口を開く。


「湊。あんまり深入りしな。敵つくるだけだぜ?」


「敵、か……そんな大層なものじゃないだろ」


「いや、お前は自覚がねぇ。変に頼られすぎなんだよ」


 湊は苦笑した。確かに最近、会津の人々が”差配の湊”に頼りすぎている気配がある。普請、湯屋、水利、寺領――どれも本来なら藩上層の仕事だ。


 けれど、湊は否定しなかった。生まれつきの統率力ではなく、ただ目の前の問題を放置できない性分が、自分をここまで連れてきただけだ。


 寺の白壁が見えてくる。風が少し強まり、雪の粒を運んだ。


「……行くか」


「任せろ、湊」


 名古屋が静かに頷く。浅香の目が細まり、曽根は気圧されないように背筋を伸ばす。三雲は小さく手を合わせ、八代はため息まじりに肩をすくめた。


 湊は一度だけ冬空を見上げた。白い雲は重く、静かに流れている。


 今日の火種は、雪の下に長く眠り続けてきた”古いもの”――。それを、どう扱うか。普請差配として、逃げるわけにはいかない。


        * * *


 寺の山門をくぐると、空気が変わった。


 冬の冷たさは同じだが、そこに線香の匂いと、古い木材の湿った香りが混じる。境内は静まり返り、踏みしめる雪の音だけが響いた。松の枝に積もった雪が、風に揺られてはらりと落ちる。その音さえ、妙に大きく聞こえた。


 本堂の前で、一人の僧が待っていた。五十がらみ、痩せた体躯に厚い袈裟を纏っている。目は細く、しかし奥に鋭いものを宿していた。頬骨が高く、口元には深い皺が刻まれている。長年、何かを堪えてきた顔だった。


「差配殿、お待ちしておりました」


「お忙しいところ、申し訳ない」


「いえ。こちらこそ、お越しいただき感謝いたします」


 僧は深く頭を下げたが、その動作にはどこか硬さがあった。警戒している。当然だろう。寺にとって、藩の差配が踏み込んでくることは、領地を削られる前触れにも見える。


 湊は静かに言った。


「今日は、話を聞きに来ただけです。何かを決めるつもりはありません」


「……左様でございますか」


「はい。まずは、寺と村の間で何が起きているのか。それを知りたい」


 僧の目がわずかに揺れた。疑いと、かすかな安堵が混じっている。その揺れを、湊は見逃さなかった。


「では、中へ」


 本堂の奥、小さな書院に通された。畳は古いが手入れが行き届いており、床の間には掛け軸が一幅。冬枯れの山水画だった。墨の濃淡が、雪に覆われた山々を静かに描いている。どこか寂しげで、しかし凛とした空気を持つ絵だ。


 湊は正座し、三雲が隣に座る。名古屋と浅香は廊下に控え、八代と曽根は境内で村人たちの様子を探っている。


 僧が茶を運んできた。湯気が細く立ち昇り、冷えた指先を温める。茶碗は素朴な作りだが、手に馴染む形をしていた。


「……さて」


 僧が口を開く。声は低く、しかし芯がある。


「差配殿には、正直に申し上げます。この寺と周辺の村々の間には、長年の行き違いがございます」


「蒲生家の頃からの、と聞いています」


「はい。蒲生様の時代、この寺には広大な封戸が与えられました。田畑、山林、用水の権利……。当時は寺が村を支え、村が寺を敬う関係でした」


「今は違う、と」


「……はい」


 僧は目を伏せた。その瞼が、わずかに震えている。


「時が経ち、村は大きくなりました。人が増え、田を広げ、新しい用水を引きたいと望むようになった。しかし、寺の封戸がそれを阻んでいる」


「寺としては、封戸を手放したくない」


「手放したくない、というより……手放せば、寺が立ち行かなくなります。檀家の布施だけでは、堂宇の維持もままなりません」


 僧の声には、諦めとも怒りともつかない響きがあった。湊は黙って聞いた。


「屋根の葺き替え、仏具の修繕、冬の薪……すべてに銭がかかります。封戸からの収入がなければ、この寺は十年と持ちません」


「村はそれを知っていますか」


「知っております。しかし、村にも村の事情がある。田が足りぬ、用水が足りぬ……。どちらも嘘ではないのです」


 湊は静かに頷いた。寺の言い分は理解できる。しかし、村の言い分も同様だ。どちらも生きるために必死なのだ。


「封戸帳を見せていただけますか」


 僧の顔がこわばった。


「……それは」


「見るだけです。持ち出しません。写しも取りません」


 三雲が静かに言葉を添える。


「我々は、寺の味方でも村の味方でもありません。ただ、事実を知りたいだけです」


 僧は長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。その動きには迷いがあったが、最後には決断の色が浮かんでいた。


「……お待ちください」


 しばらくして、僧は古びた帳面を抱えて戻ってきた。表紙は擦れ、何度も開かれた跡がある。紙は黄ばみ、端が少しほつれていた。長い年月を経た帳面だ。


「これが、蒲生様の頃の封戸帳でございます」


 湊は丁寧に受け取り、ゆっくりと開いた。


 筆致は丁寧だ。田畑の広さ、山林の境、用水の流れ――細かく記されている。しかし、その線引きは今の村の形とは明らかに異なっていた。当時の村は小さく、寺の封戸は広大だった。だが今、村は膨らみ、封戸の線が村を圧迫している。


「……三雲」


「はい。見ました。蒲生様の頃と今では、村の広がりが違いすぎます。この帳面のままでは、確かに村は窮屈でしょう」


「しかし、寺もこのままでは困る」


「ええ。どちらも正しい。だからこそ、線引きを引き直す必要があります」


 湊は帳面を閉じ、僧に返した。


「ありがとうございます。状況は理解しました」


「……差配殿は、どうなさるおつもりで」


「まずは村の話も聞きます。それから、双方が納得できる形を考えます」


「納得できる形など、あるのでしょうか」


 僧の声には、諦めが滲んでいた。しかし、その目の奥には別の何かが揺れている。湊はそれを見逃さなかった。


 湊は静かに答えた。


「あります。必ず」


 その言葉に、僧は目を見開いた。


「……なぜ、そう言い切れるのです」


「どちらも嘘をついていないからです。嘘がなければ、必ず道はあります」


 僧は長い間、湊の顔を見つめていた。やがて、その目に小さな光が灯った。


「……差配殿」


「はい」


「村の者たちにも、同じことを言っていただけますか」


「もちろんです」


 湊は立ち上がり、深く頭を下げた。


        * * *


 寺を出ると、日が傾き始めていた。

 寺の門を背にした瞬間、胸の奥に残っていた緊張がすっと抜けた。

 冷たい空気が頬を刺すが、それすら思考を澄ませるようだった。

 これから向き合うのは寺だけではない――村も、藩府も、この冬の会津そのものだ。


 空は薄い茜色に染まり、雪の白さがほのかに赤みを帯びている。風は相変わらず冷たいが、どこか穏やかさを増していた。木々の影が長く伸び、境内の石畳に複雑な模様を描いている。


 境内の端で、八代と曽根が待っていた。二人の頬は赤く、息は白い。


「湊、村の年寄りと話してきたぜ」


「どうだった?」


「やっぱり怒ってる。“寺が田を取った”って言ってる。でも、詳しく聞くと、取ったんじゃなくて昔からの線引きなんだよな」


「つまり、どちらも嘘はついていない」


「ああ。ただ、見えてるものが違う」


 湊は深く息を吐いた。白い息が、夕暮れの空に溶けていく。


 水利争いと同じだ。どちらも自分が正しいと思っている。どちらも被害者だと感じている。だからこそ、争いになる。


「三雲、原図を作ろう」


「はい。蒲生家の帳面と、今の村の形を重ねて、新しい線引きを示すのが最善です」


「それには時間がかかる」


「冬の間に仕上げます。春になれば、現地で確認できます」


 名古屋が頷く。


「俺は村側の測量を担当します。寺側は三雲殿が」


「頼む」


 浅香が静かに近づいてきた。


「湊。一つ気になることがある」


「何だ?」


「寺の僧、最後に目が揺れた。“納得できる形などあるのか”と言った時だ」


「……ああ」


「あれは諦めじゃない。“誰かに言われた”目だ」


 湊の背筋に冷たいものが走った。


「誰かが、寺に何か吹き込んでいる?」


「わからん。ただ、寺だけで動いているわけじゃない気がする」


 三雲が低い声で言った。


「……藩府の中に、火をつけたい者がいるのかもしれませんな」


 その言葉が、冬の空気に重く沈んだ。


        * * *


 城下へ戻る道すがら、日はさらに傾いた。


 白い靄が薄く漂い始め、行灯の灯りがぽつぽつと点き始める。冬の夕刻は妙に静まり返る。人々の足音も、声も、どこか遠い。


 城下の角を曲がったところで、湊は足を止めた。

 前方から、規則正しい雪を踏む足音がゆっくりと近づいてきた。


 見覚えのある影が二つ、道の脇に立っていた。


 上泉伊勢守と岡左内である。


「湊殿、お疲れ様です」


 上泉が静かに頭を下げた。その隣で、岡左内が腕を組んだまま湊を見つめている。約束通りの合流だ。


「上泉さん、岡さん。合流できてよかった」


「寺の様子はいかがでした?」


「……複雑です。寺も村も、どちらも正しいと思っている。そして、どちらも追い詰められている」


 上泉は静かに頷いた。


「剣の理と同じですな。どちらも正しい構えをしていても、間合いが合わねば斬り合いになる」


「間合いを合わせる方法は?」


「一歩引くか、一歩踏み込むか。あるいは……第三の位置を作るか」


 湊はその言葉を胸に刻んだ。第三の位置。どちらでもない場所。それが、今回の鍵かもしれない。


 そこへ、後ろから足音がひとつ降ってきた。雪を踏む音だが、軽い。どこか遊び心がある歩みだ。


「おい、小僧。話は終わったか?」


 振り向けば、前田慶次が城下の灯りを背に立っていた。肩に雪を少し積もらせ、豪快に払う。


「慶次さん……どうしてこちらへ」


「どうしてもこうしてもねぇよ。湯屋の計画、話が気になってな。面白ぇことをやってる奴の足跡は追っとくものだ」


 笑っているくせに、その目は意外と鋭かった。


「それに――冬の間に”火種をひとつにまとめる”ってのは、戦場でも政でも同じだ。三雲どのの目のつけどころも悪くない」


 三雲は軽く笑みを返すだけで、深追いはしなかった。


「湯屋の件も、寺領の線引きを避けては通れませんからな。人が集まる場所を作るには、土地の整理が先です」


「なら俺が見てやる。風呂は戦と同じで、準備が九割だ」


「慶次さん、なんでも戦に例えますね」


「比べやすいだろ? それに――」


 慶次はふっと声を落とした。


「冬は、民の心の火が強くなる。寒ぃ時は人が寄る。寄れば話す。話せば力が動く」


 その言葉に、湊は首筋を撫でる冷たい感覚を覚えた。


 三雲が静かに口を開く。


「湊殿。湯屋の番頭は”普請頭も兼ねる”形にしてはどうです? 現場で最も人を見る役には、どちらも向いています」


「表向きは、湯屋の番頭。裏では、普請頭……」


「ええ。人は”生活のため”なら動きます。戦のためとは思いません」


 上泉が言葉を足す。


「湊殿。剣の理でいえば、隙を埋めるのは攻めではなく”姿勢”です。藩府に姿勢を見せれば、余計な者は動けぬ」


「姿勢……」


「湯屋も、寺領も、普請も――“冬の備えを整えている”と示すこと。それが何よりの防ぎです」


 湊は胸の奥で、何かが繋がる音を感じた。


 浅香が影のように近づいてきた。


「湊。ひとつ気をつけろ」


「何だ?」


「寺と村が矛を収めると、“藩府の中”が揺れる」


「藩府の中……」


「火が消えれば、誰かが物足りなくなる。冬は、黙って見ていると噂が形になる」


 浅香の言葉は短いが、重かった。


「だから、寺と村の線引きをしたあと……“もう一手”が必要になる」


「もう一手?」


「誰が火をつけているかを探ることだ。寺の背で囁くのは寺僧だけじゃない」


 湊は息をのんだ。


 慶次が笑う。


「おう、小僧。冬の若松は目が冴えるだろ? 寒さのせいで、頭も心も動く」


「……動きすぎて困ります」


「そのうち慣れる。お前さんは考えるほど強くなる顔してるよ」


 湊は城下の街並みを見渡した。行灯の灯りが増え、人々の歩みが家路へ向かう。雪は薄く積もり始め、冬が本格的に訪れようとしている。


 遠くで犬が吠え、どこかの家から煙が立ち昇る。夕餉の支度だろう。冬の匂いと、人の暮らしの匂いが混じり合っている。


(この冬で、火種をまとめてみせる)


 湊はそう決意すると、深く息を吐いた。冷たい息が白く散り……その奥にじんわりと、温かな色が灯る気がした。

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