表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

73/102

72話:冬川の均し

霜の音が、馬の蹄からじわりと伝わってくる。

 会津の冬は、まだ深みに入る前でも“凍り”の匂いを帯びていた。


 湊は馬上で息を整えながら、雪を含んだ冷気を胸へ流し込んだ。

 白い吐息が細く伸び、すぐに空へ散った。


 前を行くのは上泉。

 歩幅こそ一定だが、時折、冬風の流れを読むように顔を上げる。

 その後ろを名古屋山三郎が歩く。大柄な体だが、歩きは静かだ。

 八代は書付を抱え、転びそうになりながら必死に続く。

 浅香は、湊の死角に自然と入りこむ“影”の位置。

 そして前田慶次――

 彼だけは、冬道に似つかわしからぬ軽やかな足取りだった。


「いやぁ、冬の騒ぎってのは面白ぇな。

 誰が怒って、誰が黙り込んで、誰が損するのか……よう見えてくる」


「……慶次さん、遊びではありませんよ」


「遊びじゃねぇさ。いくさ前の匂いってやつだ」


 湊はわずかに眉を寄せた。

 慶次は“面白がっている”ように見えて、実は誰より鋭く場の温度を測っている。

 その癖を、湊は昨日、湯屋の場所で痛感した。


 やがて、川の音が近づいてきた。

 上三寄と下三寄――冬になるたびに争いの芽を見せる、二つの村。

 今日はその火種が、とうとう燃え上がったのだ。


 川沿いに出ると、すでに人が集まっていた。

 男も女も、肩を怒らせている。

 冬の空気は重い。その重さを、互いの息が切り裂いていた。


「湊さん!」


 上三寄の古株が駆け寄ってくる。


「下三寄が水門を勝手に狭めたんだ! 上流に水が来ねえ!」


「嘘を申すな! 田を広げたのはそちらだろうが!」


 双方が同時に怒鳴った。


 湊は馬を降り、雪を踏みしめながら川縁へ歩いた。

 冷えた風が袖を掠める。


「八代」


「はい!」


「まず、去年の帳面――流量の記録を」


 八代は慌てつつ帳面を差し出す。

 彼の指は震えていたが、それは寒さのせいだけではない。

 村と村、両方の怒気に押されていた。


「……水門の幅は?」


「昨年は五尺でございました。

 しかし、今は――」


 八代が指した先には、雪に覆われた木製の水門があった。

 横幅が不自然に狭い。

 雪を払うと、木材の削り跡が生々しく残っていた。


 湊はしゃがみ込み、削られた面を指で触った。

 木肌は乾ききっていない。

 削ったのは夜か、早朝だ。


(これは……どちらか一方だけの仕業ではないな)


 湊は立ち上がり、双方の代表者を見つめた。


「まだ決めつけません。

 上も下も、言い分は一度ずつ聞きます。

 順番を守ってください」


 上泉が静かに歩み寄る。


「言葉の順番を乱すと、争いは深まる。

 まずは湊殿の言を聞け」


 彼の声音は低いが、澄んでいた。

 その一言で、双方の喧騒がわずかに落ち着く。


「……湊さん、お願いします」


「こちらこそ。

 ただし、真実を語るのは互いのためです」


 名古屋山三郎が、両村の間に立つように位置を変えた。

 威圧はしない。それでも“間に一人いる”だけで空気が違った。


 浅香は、視線を川下へと向けている。

 村ではなく、山。

 “人がいた気配”を読むように。


 慶次は腕を組んで、湊を見ていた。


「湊坊。

 “声の大きさ”じゃなく“困ってる方の目”を見ろよ」


「分かってます」


 湊は深く息を吸い、先に上三寄を見た。


「上三寄は、いつから水量が減ったと?」


「三日前だ。

 夜明け前に川へ出たら、いつもの半分以下になってた」


「水門を見た者は?」


「……誰もいねぇ。

 だが下三寄がやったに決まってる!」


 下三寄の男たちが顔をしかめた。


「こっちは、米一袋分も増えてねぇぞ!

 田なんて広げてねぇ!」


 湊は次に下三寄へ向き直った。


「では下三寄は、何が“いつもと違った”?」


「田に水が回らねぇ!

 上三寄が上で何かしたんじゃねぇかと思うほどだ!」


(両方が“自分が被害者”……)


 湊は八代に目を向けた。


「八代。

 水門だけではなく、田の面積の帳面も」


「はい、こちらに……」


 八代は必死の手つきで帳面を広げる。

 風に紙が揺れ、彼の肩も揺れた。


「……変わっておりません。

 どちらも、去年と同じでございます」


「では、水門以外に“変わったもの”がある」


 湊は川面へ目を落とした。


 風が水を揺らす。

 だが、その揺れの“反射”が――去年の冬と明らかに違う。


(川の流れが……鈍っている)


 じわりと胸の奥に、戦国の“冬”が実感として刺さる。


 冬は水を奪う。

 田を凍らせる。

 人の判断を固くし、心を尖らせる。


 湊はゆっくりと立ち上がった。


「……両方の言い分、分かりました。

 ですが、結論を急ぎません。

 まずは――実際に見ます」


 湊が川を歩き始めると、名古屋と上泉が無言で後についた。

 浅香は前方の林へ。

 八代は書付を抱えて転びそうになりながら追った。

 慶次は鼻歌まじりに続く。


 気がつけば、両村の者たちも歩き始めていた。

 冬川の上を、静かに、重く。


 水利争い――

 この土地に古くから眠る火種が、

 冬の底からゆっくりと浮かび上がろうとしていた。

川沿いを歩くにつれ、冬の気配はさらに濃くなった。

 風が山から降りてきて、皮膚を細く切るように触れていく。

 雪はまだ積もり切っていないが、踏みしめる地面はすでに凍みている。

 その冷たさが、争う人々の心にも刺さり込んでいるのが分かった。


「湊さん、こちらです!」


 八代が転びかけながらも声を上げた。

 川が大きく蛇行する地点――水門とは別に、川幅が急に狭まっている場所。


 湊は近づき、しゃがんで川面を覗き込んだ。

 水はゆっくりと渦を巻き、細い氷がその隙間に挟まっている。


(ここで、水が滞っている……?)


 名古屋山三郎が雪を払い、地面の下を探った。


「こりゃ……石が落ちてますね。しかも新しい」


「人の手か?」


 上泉が問うと、名古屋は首を横に振った。


「崩れた岩ですね。山の上から落ちてきた跡があります。

 誰かが置いたというより、自然の崩れみてぇです」


 湊の頭で、いくつもの線が繋がっていった。


(水門の削り跡は“人”の仕業。

 でも、この流れの滞りは“自然”。

 つまり――両方の原因が重なった上で、争いが起きている)


「八代、去年の同じ日の記録は?」


「はい! こちらに……」


 八代は震える指で帳面を開く。

 風が紙を揺らしたが、彼は必死に押さえた。


「去年の冬は、渇水が一度ございましたが、ここまでの滞りはございません。

 水門の削りは……今年初めてです」


「つまり、今年の冬は“例年より水が少ない”ということか」


「はい……!」


 八代は胸を張った。

 その姿は、湊にとって何より心強かった。


 その時、浅香が静かに戻ってきた。

 風も雪も踏まないような歩みだ。


「……水門の近く。足跡が一つ、深い」


「深い?」


「重い体の者。

 それと……歩き慣れていない足だ」


 湊は眉を寄せた。


(歩き慣れていないのに、夜中に水門まで?

 ――誰かに“言われて動いた”可能性が高い)


 慶次が口笛を吹いた。


「なるほどなぁ。

 湊坊、争う村のやつらじゃねぇよ、その足跡は」


 慶次の声は軽いが、言葉は鋭い。


「両方の村が“自然の崩れ”のせいで水が減ったとは気づかず、

 水門の削りだけを原因と疑った……ってわけだ」


「その通りです」


 湊は深く息を吸ってから、ふたつの村の代表へ振り返った。


「上三寄、下三寄。

 まずは言葉を飲み込んでください。

 争いの前に、事実を確かめます」


 村人たちはどよめいたが、名古屋の一歩前の姿勢で、ざわめきは止まった。


 湊は地面の石を拾い、軽く投げて川へ落とした。

 波紋が広がる。


「あなたたちが争い始めた理由は、二つあります」


 一つ指を立てた。


「水門の削り。これは“人”の仕業です」


 ざわめき。


 もう一つ指を立てる。


「しかし――水が減った理由の半分は、“自然”です。

 山から崩れた岩で、川の流れが弱まりました。

 これは、どちらの村の責任でもありません」


 重い沈黙が降りた。


 上泉が静かに言った。


「争いは、理由が一つとは限らぬ。

 人の行いと、天の働きが混ざることもある。

 湊殿の言葉、胸に入れておけ」


 冬の空気は冷たく、しかし透明だった。


 湊は続けた。


「水門の削りについては、浅香が“足跡”を見ています。

 村の者でもない、歩き慣れない足です。

 ――この件は、いったん湯屋の調査と合わせて追います」


 ちらりと浅香を見る。

 浅香は静かに頷き、その瞳の奥で何かを計算していた。


 次に湊は、村の双方をゆっくり見渡した。


「ですが、まずは“今年の冬”を乗り切る方が先です」


 八代が前に出た。


「ここで暫定案を申し上げます!」


 湊は八代に頷き、言葉を引き継いだ。


「水門は、三尺広げます。

 流量を均し、双方の田へ“最低限の水”が届くようにします」


「三尺……?」


「広げすぎれば春に困る。

 狭めれば、また争いになる。

 冬だけの暫定措置です」


 村人たちは互いに顔を見合わせた。


「さらに、来年の春。

 八代、上泉、名古屋と共に“境の正式な検分”を行います」


 上泉はゆっくり頷いた。


「冬に境を決めるのは愚策。

 春に川を見てからが筋である」


「そういうことです」


 湊は手を広げ、冷たい風を胸に受けた。


「今日、この場で決めるのは――

 “争わずに冬を越す方法”だけです」


 その言葉が落ちた瞬間、二つの村に重い沈黙が走った。


 そして、誰よりも先に口を開いたのは――

 下三寄の年寄りだった。


「……争いを、やめよう。

 この冬、誰かが死んだら、元も子もねぇ」


 上三寄の若者が、それに続くように言った。


「……三尺でいい。

 湊の言うこと、聞く」


 村人たちの肩の力が、少しずつ抜けていく。


 その光景を見ながら、慶次が湊の肩を軽く叩いた。


「やるじゃねぇか、湊坊」


「……慶次さんのおかげです」


「違ぇよ。

 お前は“人が困ってる顔”を、ちゃんと見てやれる」


 湊は一瞬だけ息を止め、それから小さく笑った。


 名古屋山三郎が声を上げる。


「水門を広げる準備、俺がやります!

 材木も人も、村に声をかければすぐに集まります!」


「頼む、名古屋さん」


 上泉が湊に近づき、低く囁いた。


「湊殿。

 今日の裁き――いや、調停か。

 見事であった」


「……調停、ですか」


「裁くのではなく、沈めただけよ。

 だが、それが最も火を消す」


 浅香は川の流れをじっと見つめ、ぽつりと呟いた。


「……まだ、誰かが動いている。

 水門の削り。あれは“試し”だ」


「試し?」


「火は一度沈んだ。

 だが――また息を吹きかける者がいる」


 その言葉に、湊の背に冷たいものが走った。

 冬の川の音がやけに深く響く。


 争いは今日収まった。

 だが、越後でも会津でも、火種は消えていない。


 湊は、冬空を仰いだ。

 薄い雲の向こうで、太陽が弱々しく光っている。


(――冬は、まだ始まったばかりだ)


 やがて名古屋の号令が飛び、村人たちは作業に散っていく。

 上泉は川を測り、八代は書付を整理し、浅香は林を探り、慶次はまた腕を組みながら鼻歌を歌っていた。


 湊は静かに、冷えた川へ手を伸ばした。


 冬川の均し――

 それは、ただの水利調停ではなく、

 これからの会津そのものを形づくる“最初の一手”だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ