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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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71話:冬川の湯場、始動

川面を渡る風は、冬の匂いをはっきりと含んでいた。

 水の冷たさがそのまま刃になったような空気で、吐いた息はすぐに白くほどける。


 会津城下の外れ。

 夏ならば草が腰のあたりまで伸びる川沿いの一帯も、今は霜に押しつぶされ、ただの平らな更地に見えた。

 雪こそまだ降りきらないが、冬は確実にすぐそこまで迫っている。


 湊は足元の土を踏みしめた。

 凍りはじめた地面は固く、靴底に反発を返してくる。


「……ここが、湯屋の予定地か」


 隣で上泉がつぶやいた。

 剣の師としてだけでなく、静かに物を見る眼は常に鋭い。

 湊は頷いた。


「はい。城下からの距離、川の流れ、土地の広さ……すべて条件が揃っています。最初に見たとき、ここしかないと思いました」


「ふむ。人が自然と集まる“入り口”にしやすい土地だな」


 上泉は川の流れに目をやり、風の向きを読むように鼻で息を吸った。

 その隣から、ひょい、と肩越しに覗き込む影。


「昨日の話を聞いてな。実際どんなもんか、見に来たくてよ」


 前田慶次だった。

 湊は眉を上げた。


「また来ていたんですか」


「“また”とはずいぶんな言い草だなぁ。俺はこう見えて、楽しい匂いには敏いんだよ。湯屋なんて面白ぇものを作る土地なら、見物せずに帰れねぇだろ」


 そう言いながらも、慶次は周囲をよく見ていた。

 風がどこから抜け、どこに人が集まるか。

 土の硬さ、川の深さ、足音の反響。

 戦場を歩く兵の視線でもあり、人の流れを読む者の視線でもある。


 曽根が丸太に腰を下ろしながら呟いた。


「……まあ、何もねぇ場所だな」


「ええ。だからこそ、どうとでもできます。既存の建物や土地の揉め事に縛られませんから」


「ふん、なるほどな」


 曽根は納得半分、不安半分の顔で川に石を投げた。

 跳ねた水はすぐに砕けて霧になる。


 湊は更地の中央へ一歩踏み出す。

 霜を踏む音が、やけに大きく響いた。


(この静けさが好きだ。

 何もないからこそ、何でも置ける。

 越後で感じた“余計なものが多すぎて、何も始められない”空気とは違う)


 川の向こうには薄く霞む森。

 城下の屋根だけが遠くに小さく見える。


 上泉が湊の横に並び、静かに問うた。


「湊。お前は、この更地のどこに最初の柱を立てるつもりだ?」


「川から少し離れた場所です。あまり近いと増水のとき危険ですし、遠すぎると薪や荷の運搬が負担になります」


「ふむ……道理だ」


 それだけ言って、上泉は黙り込んだ。

 考えるときの癖だ。

 湊も黙り、流れる川の音を聞いた。


 冬の川は、音が低い。

 水量は変わっていないはずなのに、どこか沈んだ響きを持つ。

 それは土地そのものが寒さに身を縮め、音まで重くしているようだった。


「なぁ湊、お前さ」


 慶次が片手をあげて呼んだ。


「ん?」


「ここに湯屋を作るとして……“ただ湯に浸かる場所”で終わらせる気はねぇだろ?」


「……もちろんです」


 湊は正面から慶次の視線を受け止めた。

 慶次は目を細めて笑った。


「やっぱりな。“ただの話”をする目じゃねぇと思ってたんだよ」


 上泉が口元だけを動かす。


「慶次、湊には湊のやり方がある」


「わかってるさ。ただ……こいつの目は不思議だ。

 冬の川を見てるくせに、“春に人が集まる光景”ばかり想像してやがる」


 慶次は湊の肩を軽く叩いた。


「その目は、戦場でも使えるぜ?」


「戦場に出るつもりはありません」


「お前が出なくても、戦は勝手に押し寄せるもんだ」


 その言葉に、湊は一瞬だけ視線を落とした。


(……わかってる。

 伊達政宗の動き。

 越後の火種。

 会津の不安。

 すべてが、僕の背中を押してくる)


 だからこそ――湯屋は必要だ。


 寒さに震える村々に、火を灯す場所。

 人と人が出会い、話し、情報が流れ、争いが小さくなる場所。

 兵を抱える前に、人を温める場所。


(湯屋はただの風呂じゃない。

 “会津の空気を変える”場所だ)


「湊」


 上泉が呼んだ。

 冬風で白くなった髭を軽く押さえながら言う。


「川の音がゆっくりだ。これは、雪の前兆だぞ」


「……雪ですか」


「一度降れば、数日は工事どころじゃなくなる。

 今日、形だけでも“絵図”をまとめておくべきだろう」


「はい。そう思って来ました」


 湊は懐から板図を取り出した。

 紙ではない、薄い板に墨で描いた下書きだ。

 冬の湿気に耐えるために、わざわざ木を選んだ。


 慶次が肩越しにのぞき込み、ふっと笑う。


「ほう……湊。お前、こういうの、向いてるな」


「向いてる、と言われても……」


「いや、これは褒め言葉だ。

 柱の位置、荷の流れ、人の歩く道……全部、筋が通ってる。

 戦場なら“どこへ味方を置けば死なずに済むか”を即座に読める奴だ」


「湯屋と戦場を同じにしないでください」


「どっちも“人を動かす”って意味じゃ同じだろ?」


 曽根が笑いながら手をあげた。


「慶次さん、言ってることはもっともだが……湊が困ってるぞ」


「お前もそう思ってるくせに」


「まあな!」


 四人の声が、冬の更地に立ち昇った。


 冷たい空気に温かい声が混ざると、どうしてこんなにも希望に聞こえるのだろうか――

 湊はそう思った。


(ここに……湯屋が立つ。

 冬の会津が少しだけ、息をしやすくなる)


 考えただけで胸の奥が少し熱くなった。


「よし、湊。まずは歩こう」


 上泉が言った。


「はい。川沿いを一度見ておきます。雪になる前に」


「付き合うぜ。俺もこういうの、嫌いじゃねぇ」


 慶次が真っ先に歩き出す。

 その後ろを湊と上泉が続き、曽根が軽口を叩きながらついていく。


 四人の影が、冬の川沿いに伸びた。

 風が吹くたびに影が揺れ、まるで更地が――

“ここから始まる何か”を、静かに受け入れようとしているようだった。


(会津を温める最初の場所は……ここだ)


 湊は冷たい風の中、確かにそう感じていた。

川沿いを歩き始めると、風の吹き方がわずかに変わった。

 正面から刺すように吹いていた冷気が、今は斜めから頬を撫でるように流れる。


「風の向きが変わってるな」


 慶次が言った。

 冬の空気を吸い込みながら、遠くの山脈を眺める。


「雪の前触れか?」


「そういうことよ。会津の冬は気まぐれだ。降るとなったら一気だぞ」


 曽根が両腕をさすりながら呻いた。


「うげぇ……雪かよ。寒ぃったらねぇな」


「湯屋ができれば、曽根でも冬を笑えますよ」


「そりゃありがてぇが、まだ形もねぇんだろ?」


「だから歩いて考えるんです」


 湊は川の流れに沿って移動しながら、地面のわずかな起伏を観察する。

 冬の霜で固まってはいるが、季節が変われば水が集まり泥になる場所がはっきりわかる。


(ここは……避けたい。建物が沈む)


「湊、そこは?」


「水が溜まる場所です。湯屋の土台には向きません」


 上泉が頷く。


「見えているようで、見えぬものだな」


「冬だからこそ見えるんです」


 冬は、土地の弱点を露わにする。

 霜で硬くなる場所。

 乾きすぎてひび割れる場所。

 風の通り道。

 人の足が自然と避ける小さな窪み。


 春や夏なら気付かない“土地の癖”が、冬には全部姿を現す。


「おい湊、ここはどうだ?」


 曽根が指さしたのは、小さな段差になっている箇所だった。

 川から少し距離があり、風の通りも弱い。


「悪くありません。ここを中心に据えて、川側に下屋を伸ばします」


「下屋?」


「更衣や荷置きの小屋です。湯と熱は中央に集中させますから」


「なるほど、筋は通ってる」


 上泉が目を細めた。


「湯屋は、ただ人を温めるだけの場所ではない。

 荷が出入りし、人が集まる。

 お前の言うように、中心と周囲をどう使うかが肝だ」


 慶次も口角を上げた。


「湯屋ってのは、見た目より“仕組み”が大事だってわけだ」


「はい。湯の温度、薪の量、水の流れ、人の出入り……全部が繋がります」


「戦と同じじゃねぇか。槍だけじゃ勝てねぇ。兵糧も道具も、どこからどう動くかで勝敗が決まる」


「だから似てる、と言われるのは正直困りますけどね」


 慶次が豪快に笑う。


「まぁ良いじゃねぇか。生きるも死ぬも、人間の集まりってのは同じだ」


 歩きながら、湊は徐々に具体的な図が頭の中に組み上がっていくのを感じていた。


(冬に備える湯屋……

 会津の空気そのものを変える“拠点”。

 ただの娯楽ではない。

 生きる希望を渡す場所だ)


 その瞬間、ふっと胸の奥が熱くなった。

 未来を知る者としてではなく、この土地に立つ一人の青年として、

“やらねば”と自然に思えたからだ。


「湊」


 上泉が歩みを止めた。

 視線の先には、川の水が一段深くなっている場所がある。


「ここを見ておけ」


 湊は慎重に近寄る。

 朝の光が水面に反射し、底がどれほど深いか一瞬判断しづらい。


「水深が急に変わっていますね」


「増水のとき、ここから水が溢れやすい。

 湯屋はこの高さより上に構えねば、必ず流される」


「……ありがとうございます」


「礼はいらん。冬の川に家を建てるのは、初めての者には見えにくい」


 湊は深く頷いた。


 そこへ曽根が雪を踏みしめながら近寄った。


「おい湊、あっちに小さな丘が見えたぞ。なんか使えねぇか?」


 曽根の言葉に、慶次が振り返って言う。


「丘なら確かに使い道はある。見張り台にもなるし、煙の抜け道もわかる。

 湊、行ってみろよ。お前の“面白い考え”が出てくるかもしれねぇ」


 その言い方に湊は苦笑した。


「慶次さんは、本当に僕を煽るのがうまいですね」


「煽ってるんじゃねぇ、期待してるんだよ。

 お前の“筋”を見たいだけさ」


 三人と一緒に丘へと向かう。

 冬草が踏まれ、乾いた音を立てた。


 丘の上から眺める更地は、先ほどまでよりもずっと広く見えた。


 川が緩やかに曲がり、風の流れが一目でわかる。

 陽の当たる場所と、影になる場所。

 人が自然と集まる導線。


(……ここだ)


 湊はゆっくりと息を吸い込んだ。


 慶次が鼻で笑う。


「やっぱり、何か思いついた顔だな?」


「湯屋の“核”です」


「核?」


「湯屋の中心に置くべき場所が、今わかりました」


 上泉が静かに問う。


「どこだ?」


「この丘。

 ここに“熱”と“人の流れ”を生む芯を置きます。

 湯船そのものではなく、火と煙の管理、そして荷の仕分けをする場所を」


 慶次が目を丸くした。


「ほぉ……湯船をいきなり置くんじゃねぇのか?」


「はい。

 湯船だけ作っても続きません。

 中心の仕組みをきちんと作り、人が回る形を先に固めるべきです」


「戦場だな、それは」


 慶次の声は驚きではなく、納得が混じっていた。


「砦だって、まず“炊き場”や“道具を集める場所”を決める。

 そこがしっかりしてねぇと、すぐに崩れる」


「湯屋は砦じゃありませんよ」


「似たようなもんだ。

 人が集まり、動き、温まり、また出ていく……

 そういう拠点は、作り方が肝なんだよ」


 冷たい風が吹き、霜の匂いを運んでくる。

 冬の空は薄い雲に覆われ、陽は弱々しい。


 その中で湊は、静かに言った。


「……ここに、湯屋を作りましょう」


 上泉も、曽根も、慶次も、それぞれ頷いた。

 その頷き方は三者三様だったが、不思議と温かかった。


 そのとき――


「湊!」


 遠くから声。


 振り向くと、名古屋山三郎が全力で走ってくる。

 雪の前触れの中、息を白く散らしながら。


「どうした、名古屋?」


「……上三寄と下三寄、村の連中が動き始めてます!

 “水場の境目”で揉めてるそうで……

 このままじゃ、手がつけられません!」


 湊は一瞬だけ息を止めた。


(来たか……)


 冬はただの寒さではない。

 不安を増幅させ、些細な火種を争いに変える季節だ。


 上泉が静かに言う。


「湊。行くか?」


「はい。

 湯屋の前に……この冬を越すための争いを止めます」


 慶次が唇の端を吊り上げた。


「行くなら付き合うぜ。

 お前がどう動くか、見ておきたいからな」


「頼りにしてます」


「言うじゃねぇか。面白れぇ」


 曽根が肩に荷を担ぎながら叫ぶ。


「よし! 走るぞ湊! 冬の争いは、長引かせるとロクなことにならねぇ!」


 四人は雪の前触れの風の中、村の方へと駆け出した。


 背後に広がる更地にはまだ何もない。

 だが確かに――

ここから始まる“何か”の匂いが、冬の空に確かに漂っていた。

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