70話:冬水の争い─言葉で断ち、湯で鎮める
霜月の会津若松は、夜明け前から空気が張りつめていた。
黒川城下の道は薄く凍り、踏みしめれば細い氷が割れる音が静かに続く。
山から吹き下ろす風は鋭く、肌の上を針のように滑っていった。
湊は、城下から少し外れた林の中を歩いていた。
息を吐くたび白く広がる。
冬はまだ本番ではないというのに、朝の冷え込みは早くも骨にしみる。
(昨日、坂井から呼び出された時に聞いた“湯気の上がる土地”……気になる。
越後の件もある。人心が固くなる前に、打てる手は打っておきたい)
差配という立場で領内を歩き回るのは危険だが、湊は慣れていた。
城下の地形も、村々の距離もだいぶ掴めてきた。
調査の一環として「源泉の噂」を確かめに来ただけなのだが――
林の切れ目に出た瞬間、湊は足を止めた。
白い湯気が、ふわりと冬空に立ちのぼっていた。
地面の裂け目から、湯がじわりと湧き出している。
周囲の土を温め、霜を溶かし、ところどころ土色が露になっている。
人の手は一切入っていない。ただ湯が湧くだけの、自然そのものの光景。
(……本当に、温泉だ)
源泉は浅く、足首にも満たないほど。
だが湯気の量からして、出続けているのは間違いない。
湊は膝をついて手を伸ばした。
指先に触れた湯は、熱すぎず、ぬるすぎず……冬の朝でも心臓の鼓動を緩めるような温度だった。
(この温度……村人も武士も、必ず好む。
戦で荒れきった心でも、疲れきった身体でも、湯は人を救う。
ここに“湯屋”が作れれば……人心の硬さを溶かす装置になる)
法律や政治の難しい理屈ではない。
大学の一般教養でかじった「公共財の考え方」と、現代で何度も通った銭湯や温泉施設での経験――それだけでも十分だ。
湊が湯に触れたまま考えていると、背後で足音がした。
雪を踏む音。
だが軽く、乱れない。
武士の足音とも違う。どこか……遊び心すら感じる歩み。
「湊。こんな所で何をしてやがる?」
湊は振り返る前に、笑みが漏れた。
声で分かった。
前田慶次が、冬の陽を背負いながら立っていた。
派手な羽織。
だがその姿は奇抜ではなく、雪の反射に溶け込むような柔らかさを帯びていた。
豪傑でありながら、文人の影を持ち、ただの荒武者ではない。
「噂の場所を確かめに来たんです。慶次さんこそ、どうしてここに?」
「城下を歩いちゃいけねぇ道理はねぇだろ?
それに……」
慶次はふらりと近づき、源泉の湯気を眺めた。
「湯の匂いがしたんでな」
「……湯の、匂い?」
「戦場も、酒も、女も、茶も、全部に“匂い”ってのがあるんだよ。
湯気ってのは、妙に人を呼ぶ匂いがある。……悪くねぇ」
慶次は屈み込み、湯の温度を指で確かめた。
その顔に、戦の時とはまるで違う色が浮かぶ。
「こりゃ本物だ。ここら一帯で湯が湧く場所があるなんて聞いたことがねぇ。湊、お前……こんな場所をどうするつもりだ?」
湊は深呼吸し、湯の湧き口を見下ろした。
「“湯屋”にしたいんです」
慶次の片眉が、きゅっと上がった。
「湯屋……銭を取る風呂場か?」
「はい。
会津は今、人の心が固くなっています。冬の寒さもそうですが、越後から移ってきた人、藩府の方針変更、土地争い……皆、疑いの冬を抱えている。
だからこそ、温まる場所が必要なんです。
税ではなく、押し付けでもなく、自然と銭を払いたくなる場所を」
「……ほう」
慶次は立ち上がり、周囲を見渡した。
雪に覆われた林の切れ目。
その中で湯気だけが命を持って揺れている。
「湊、お前……また坊主みたいなことを言ってるな」
「坊主……?」
「人の心をほぐすだの、疑いを溶かすだの。
だが、悪くねぇ。むしろ、こういう発想は好きだ」
湊の胸の奥に、ほんのり温かいものが広がった。
「けどな。湯屋を作るにしても、お前には――」
慶次は湊の肩に軽く手を置いた。
その掌は温かいが、言葉は鋭かった。
「力がねぇ」
「……はい」
「差配って立場は便利だが、弱い。
兵もいねぇ、後ろ盾も薄い。お前の言葉を本気で聞くのは、今は上泉の旦那や曽根くらいだろ。
湯屋を形にするなら、人も、銭も、場所もいる。お前一人じゃ荷が重い」
「……それでも、やりたいんです」
慶次は短く笑った。
湯煙がその笑みの形を変えるように揺れた。
「だから俺が来たんだよ、湊」
「え?」
「気に入った人間と場所には、とことん付き合う主義でな。
湯屋ってのは面白ぇ話だ。俺が力を貸してやる」
「……慶次さん、本当に?」
「ああ。俺は嘘はつかねぇ。
それに――」
慶次は湯気を見ながら低く言った。
「ここは、生きる匂いがする。
戦じゃなく、人を生かす場所だ。
俺は、こういう場所が嫌いじゃねぇ」
その時だった。
林の奥から、荒い息をつく足音が近づいてくる。
湊と慶次が同時に振り向く。
「湊! ここにいたか!」
曽根が雪を蹴りながら走ってきた。
頬も鼻も真っ赤だ。
「どうした?」
「藩から使いが来た。“すぐ戻れ”とよ。
城代の坂井が呼んでる。村で、水利争いが起きかけてるんだと!」
冬の風が一段と強く吹き、湯気を揺らした。
温かさと冷たさが交じり合う、冬独特の匂いが漂う。
(水利争い……越後でも火種だった。今度は会津か)
湊は慌てず、ただ一つの答えを胸に刻んだ。
(……やはり、人を冷やすだけじゃ駄目だ。温める場所が要る)
慶次はにやりと笑い、湊の背中を軽く押した。
「湊、行け。
お前の言葉でどこまで火を止められるか……俺が見届けてやるよ」
湊は源泉を一度だけ振り返った。
白い湯気がまるで未来の煙のように立ちのぼっている。
(必ず実現させる。湯屋はこの土地に必要だ)
湊は曽根と慶次を連れて、林を駆け抜けた。
雪を踏みしめる三つの足音が、冬空に消えていった。
城下へ戻る途中、風は一段と荒くなった。
雪が舞い、街道の石畳に薄い氷が張りつく。
湊は足を取られぬよう慎重に進んだ。
「水利争いか……冬に入る前に起きるのは最悪だな」
曽根が肩をすくめながら言う。
息は白く、鼻の頭は赤い。
「冬は水が減るわけじゃないのに、争いが増えるのは何でだ?」
「寒さで人の心が固くなるからだ」
答えたのは上泉だった。
歩幅を乱さず、静かな足取り。
しかし、その声は雪を割るように鋭かった。
「冬の水は凍り、田畑は眠る。すると、人は“動かぬもの”に敏感になる。
わずかな差が、わずかな不公平が、普段よりも何倍も重く感じられる。
そういう時期に、水は争いの火種になりやすい」
「……俺も村で揉め事は見てきたが、冬は確かに変な時期だな」
曽根がうなずく。
「会津は山が多い。谷も水路も細い。誰かが少し流れを変えるだけで……」
「隣の村が怒る」
湊が言葉を継いだ。
「越後と同じだ。水は共有物なのに、冬の心は誰も譲らない。
だからこそ、争いになる前に止めないといけない」
慶次はずっと黙っていたが、ふいに口を開いた。
「湊。お前、城代の坂井が何でお前を呼んだか分かっているか?」
「……差配だから、現場の話を聞くためです」
「半分正しい。もう半分は……“お前の口で争いを止められるか見たい”んだ」
慶次の瞳は、冬空のように冷たく、そしてどこか楽しげだった。
「越後での件、会津の土地争いの火消し。一介の差配がやってのけりゃ、上は意地でも使いたくなる。
それが良いか悪いかは……お前の言葉次第だ」
湊は息をのみ、雪の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
唇が少し乾いている。
緊張で喉が張りつく。
(僕は偉くない。差配だ。
でも、人を守るなら言葉を使うしかない……)
城下が近づくにつれて、人のざわめきが増えていった。
遠くの村からの使者だろう、農具を背負った男たちが慌てた様子で行きかっている。
寒さのせいか、皆の顔には“恐れ”と“怒り”が同時に浮かんでいた。
「ここまで空気が重いのは珍しいな」
曽根が眉を寄せたその瞬間――
「湊さん!」
声が響いた。
若い武士が雪を蹴って駆け寄ってくる。
息を切らし、顔は青ざめている。
「坂井様が……! “すぐ来い”と!」
「詳しく」
「上三寄と下三寄の村が……川の水を巡って、今にも殴り合いに……!」
上泉がわずかに表情を動かした。
それだけで、曽根が息を呑む。
「この寒さで殴り合いなんて……頭に血が上りすぎてるな」
「ひとつ間違えば、死人が出る」
上泉の声は静かだが、言葉には刃があった。
「湊。時間はない。急げ」
「……はい」
湊は駆け出した。
雪で滑る地面を踏みしめ、寒風を切り裂くように走る。
背後から曽根と慶次、上泉が続く。
城代役宅に近づくにつれて、人の影が増えた。
村の代表らしき男たち、若い百姓たち、腕組みする武士。
皆、怒りか不安を顔に張りつけている。
坂井照景が玄関先で待っていた。
冷え切った表情だが、その奥には焦りが見える。
「湊、よく来た」
「状況を教えてください」
「上三寄の者が“下三寄が水路を勝手に曲げた”と言い、下三寄は“上三寄が年貢減免を狙って嘘をついている”と返しておる。
双方とも譲らず、村境の川でにらみ合いだ。
このままでは……血が出る」
「どちらも嘘をついていない可能性は?」
「……ある」
坂井の返答は短かった。
だが、その一言に湊は確信した。
(双方にとって“正しい状況証拠”が存在する……ということだ)
上泉が一歩前に出る。
「湊。お前の考えは?」
「争いが起きてから裁くのでは遅い。
いま必要なのは――双方が“引き下がれる理由”です。
どちらかを罰すれば恨みが残る。嘘つき扱いすれば、村は割れる。
だから、現場を見て、双方に言い分を聞き、川の状態を確認して……」
「争いの原因そのものを“凍らせる”気か?」
「はい」
慶次が口笛を吹いた。
「お前……面倒な道を選ぶなぁ」
「面倒じゃないと、争いは止まりません」
「そうだがよ。そういうのは嫌いじゃねぇ。続けろ」
坂井は腕を組み、湊の顔を静かに見つめた。
「湊。現場へ向かえ。
差配という立場では限界もあろうが……お前の“言葉”が必要だ」
「……承知しました」
湊は雪を踏みしめ、坂井の前を一歩退くと、頭を下げた。
(怖い。自分が何者でもないことは分かっている。
でも、動かないよりはましだ。
人が死ぬ前に“火”を消す。それだけだ)
◆
上三寄と下三寄の境は、会津盆地の南に延びる小さな川だった。
冬の水は冷たく、流れは細くなる。
川沿いの雪は踏み荒らされ、重い足跡が無数に刻まれていた。
そして――
川を挟んで、百姓たちが向かい合っていた。
手には鍬、杖、鋤。
互いに怒鳴り合い、今にも飛びかかりそうな気配。
「止まれ!」
湊は大声を上げた。
冷たい風が、その声を川の向こうまで運ぶ。
百姓たちの怒号が一瞬だけ止んだ。
氷のような視線が湊に集まる。
「差配の湊だ!
争う前に、俺に話を聞かせてくれ!」
怒鳴る声が返る。
「湊? 藩府の差配が何をしに来やがった!」
「俺たちの水だ!」
「いや、こっちの水を奪ったのは上三寄だ!」
「嘘つけ! 昔からこっちの水路だろ!」
怒りが再び膨れ上がる。
冬の空気は冷たいはずなのに、ここだけは熱気が渦を巻いている。
その時――
上泉が前に出た。
剣は抜かず、ただ背筋を伸ばす。
「争うな」
たった一言。
だが、風のように鋭く川の両岸に届いた。
百姓たちがびくりと震えた。
慶次が続く。
「お前ら、殺し合いをしたらどうなるか分かってるか?
冬の死体は腐らねぇ。春まで残る。
その光景、村の子どもや女房に見せる気か?」
声は静かだが、圧が違った。
川の上の空気が、わずかに沈む。
湊は深呼吸し、川のそばにしゃがんだ。
雪を払い、水路を目で追う。
(上三寄の言い分は……“水路が曲がった”。
下三寄の言い分は……“年貢減免を狙った嘘”。
どちらも正しい可能性がある)
冷たい水を手に取り、指先の色が変わるのも気にせず、水路を観察する。
上三寄の側に、崩れた土塊。
下三寄の側には、去年の大雨の跡らしい削れた斜面。
(……自然かもしれない。人為ではなく、冬を前にした偶然の変化だ)
「湊! そっちは危ねぇぞ!」
曽根の声が飛ぶ。
湊の足元の雪が少し崩れた。
「平気です!」
湊は土を掴み、匂いを嗅ぎ、指で湿り気を確かめた。
(人の手で掘った跡じゃない。
水が減って、川の力が弱まり、土が自然に崩れた……)
湊は立ち上がり、両岸に向かって声を張った。
「この崩れ……“自然の変化”だ!
人の手じゃない!
争う理由は、最初からなかったんだ!」
どよめきが起きる。
だが、まだ収まらない。
怒りは雪のように簡単には溶けない。
「ふざけんな!」
「どこが自然だ!」
「湊って言ったな! 証拠はあるのか!」
湊は覚悟を決めた。
冷たい冬風が頬を切る。
「証拠を、いま作る!」
言い切り、石を拾い、川へ投げた。
ぽちゃん、と小さな音。
その直後――
水が石に当たる向きが、年寄りたちの記憶と一致する方向だった。
「見ろ!
流れは昔のままだ。
ただ、土が崩れて見え方が変わっただけだ!」
沈黙が、川に落ちた。
最初に声を出したのは、上三寄の老人だった。
「……確かに……流れは昔のままだ……」
下三寄の男が反論しかけたが、その口はすぐ閉じた。
老人の言葉は村の歴史そのものだ。
湊は、冬の冷たい空気を吸い込み、最後の一言を投げた。
「両方とも嘘はついていない。
水は変わっていない。
ただ、“冬が心を固くした”だけだ!」
川の上で、風が吹いた。
怒りが少しだけ、揺らいだ。
上泉が一歩前に出た。
「争いをやめろ。
どちらも悪くない。
冬を責めろ」
慶次が笑った。
「湊の言葉、聞こえただろ?
嘘はついてねぇよ。俺は、嘘を見抜く目には自信がある」
曽根がため息をついた。
「お前ら、湯屋ができたら一緒に入れよ。
冬は湯に限るぞ」
場にわずかな笑いがこぼれた。
それだけで、争いの熱はゆっくりと退いていった。
◆
帰り道、湊は深く息を吐いた。
冬の冷たさが、胸を刺すようだった。
「……怖かった」
「当然だ」
上泉が言った。
「お前は武士ではない。差配だ。
だが、お前の言葉は剣より強い時がある」
慶次が湊の背中を叩いた。
「湯屋、やるぞ。
今日みたいな日には、湯が必要だ」
湊は、源泉の湯気を思い出した。
(……必ずやる。
湯は、人を救う)
夜の気配が早くも広がる会津の空の下で、湊の決意は静かに固まっていった。




