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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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69話:雪の国へ戻る影たち

慶長三年、霜月――会津の朝は、沈黙そのものだった。

 空気は薄く、張りつめた冷気が皮膚を刺すようだ。山裾には霧の名残が横たわり、屋根の端には細い霜柱が光を帯びている。夜のうちに降りた冷えが、地面の色を奪い、世界から音を削っていた。


 湊は廊下に立ち、白い息が形を保つほどの冷たさを感じながらゆっくり吸い込んだ。肺の奥がきしむが、その痛みがむしろ意識を研ぎ澄ませる。


(霜月……冬の入り口だ)


 冬は物事が動かぬ季節。

 しかしそれは同時に、物事が決まる季節でもある。


 畑には出られない。

 人は囲炉裏端に集い、帳面を開き、過去と向き合う。

 そして――誰が裁き、誰が決めるのかを測り始める。


 背後で衣擦れ。


「湊、朝餉できてるぞ」


 振り返れば曽根が立っていた。いつもの不器用な結びの髷、だが声はわずかに硬い。霜月に入ってから、曽根は言葉数が減った。ただの寒さだけではない。土地の噂が、じわりと彼の気配を変えていた。


「ありがとう。すぐ行く」


 囲炉裏の部屋へ入ると、湯気がゆっくり立ちのぼり、麦粥の匂いが淡く漂っていた。囲炉裏の火は小さい。薪も節約の季節だ。


「……冷え込みが早ぇよ、今年は」


「そう感じるか?」


「百姓どもが言ってる。霜柱が深い。冬越しの準備を急がないとやべぇ、ってな」


 湊は匙を取り、一口粥を口に運んだ。温かさが喉を通り腹に落ちると、全身にじわりと熱が広がる。


「土地の話は?」


「増えてるぞ」


「やっぱりな」


 曽根は渋い顔をした。


「ただの村境争いじゃねぇ。“上”を気にしてる」


「上?」


「誰が裁くんだ、って話だ。村じゃなく、藩府の上層が動くかもしれねぇって噂してる」


 湊は囲炉裏の火を見つめた。

 越後で火種を鎮めたという噂が、別の形で会津に戻ってきているのだろう。


(越後の影……ここにも伸びてきたか)


 粥を食べ終えると、湊は羽織を手に取る。


「寺へ行く」


「またか?」


「確かめたいことがある」


 曽根は何も言わず刀を取った。その沈黙は、反対ではなく理解の証だった。


 寺の境内は、霜と靄に包まれていた。石段は薄氷のように白く、足を置くたびざり、と乾いた音がする。枝先の氷が揺れ、朝日を反射して微かに輝いた。


 堂内に入ると、線香の匂いが静かに流れてきた。

 僧が一人、膝を揃えて待っていた。


「よく、お越しくださいました」


「霜月ですから。内陣も冷えるな」


 僧は深く頷くと、古びた帳面を差し出した。表紙は擦れており、何度も開かれた跡が残っている。


「これは去年のものではありません。さらに前の帳面でございます」


 湊は表紙に指を置き、僧を見た。


「……これは、蒲生殿の頃の帳面か」


 僧は静かに答えた。


「はい。寺に残る最も確かな境目です。上杉殿の御政に移って以後も、しばらくはこれを基とせよ、と」


(やはり……)


 会津は今、上杉景勝の領である。

 しかし、行政の基礎は蒲生氏郷の時代に整ったまま。寺が出すなら、この帳面しかない。


「これを持ち帰る気はない」


 僧は驚いたように目を瞬いた。


「……なぜでございましょう」


「今受け取れば、寺が“裁きに関わった”ことになる。まだその段階ではない」


 僧の肩がわずかに動く。


「冬は長い。慌てれば火がつく」


 僧はしばらく沈黙したのち、帳面を引いた。


「……承知しました。必要とあらば、いつでもお声を」


「また来る」


 堂を出ると、冷たい空気が一気に身を包んだ。

 曽根が小声で尋ねる。


「湊、なんで受け取らねぇ?」


「寺が当事者になると、村々が身構える」


「越後と同じか」


「同じだ。火種は小さいうちに潰さなきゃならない」


 曽根は頷いた。それ以上の言葉は必要なかった。


 城下に戻る途中、小川沿いで足を止めた。

 霜の残る土の上で、子どもが小さな泥団子を作っている。猫がその横で丸まり、尾を揺らしていた。冬の入り口らしい光景だ。


(この冬を越えさせなければ)


 湊は胸の奥で呟いた。

 越後のように火が上がれば、会津はさらに深く割れる可能性がある。


 そのまま政所の方へ向かうと、入口の柱に寄りかかるようにして上泉が立っていた。刀は腰にあるが、手は添えていない。目だけが冬の川のように冴えている。


「湊殿」


「上泉さん」


「……境の噂、こちらにも届きました」


「早いな」


「冬は、人の声を減らすぶん、言葉が深く刺さります」


 上泉は半歩だけ右に寄り、湊の横に“隙を補うように”立った。護衛の位置ではない。呼吸を合わせ、状況を読むための位置だった。


「湊殿。この冬の土地争いは、春の倍以上に禍根を残します」


「なぜだ?」


「寒さは、人の心を固くする。柔らかく考えれば済むはずの争いも、負けると“冬が越せぬ”と恐れてしまう」


 湊は息を呑んだ。

 越後でも同じだった。

 冬は恐怖を増幅し、人の判断を固く、重くする。


 上泉はさらに言った。


「もうひとつ。越後で湊殿が動いたという噂……あれが火の粉になっています」


「……戻ってきたか、あの話が」


「形を変えております。“会津でも湊殿が裁くのでは”と」


(……それは困る)


 湊は眉を寄せた。越後では“裁かなかった”。

 しかし噂は、真逆の形で広がる。


「だからこそ、湊殿」


 上泉の声は低く、しかし澄んでいた。


「今、この会津で必要なのは――剣でも威圧でもなく、“言葉の順番”です」


「……言葉の、順番」


「はい。誰が先に何を言い、どこまで踏み込むか。その順番を誤ると、冬は取り返しがつきません」


 湊は深く頷いた。

 “順番”――越後でも、最後にそれが勝敗を分けた。


「城下の様子を見る」


「お供します」


 上泉は半歩後ろに位置を取った。

 まるで、湊が見落とす隙を埋めるための影のように。


 冷気はさらに強まり、風が頬を切るようだ。

 しかしその冬の静けさは、何かを隠す沈黙ではない。


 決断を待っている沈黙だった。

浅い冬の日が傾きはじめ、会津の城下は藍色と薄茜が溶け合うような色を帯びていた。雪こそまだ本降りではないが、空気に混ざる冷たさは「長い季節の入口」に立っていることを確かに告げている。


 湊は城下を抜け、若松城へ続く坂をゆっくりと登っていた。足もとに積もる霜が、踏むたびにかすかに鳴く。曽根、上泉、三雲の三人が後ろにつく。誰も声を発しなかったが、それぞれの胸中に積もる緊張は、寒気と混じり合って肌の上にまとわりついた。


 藩府――湊が若松城下に整えさせた政務の場は、夕刻にもかかわらず灯りが消えていなかった。冬の日暮れは早い。それでも役人たちは、越後で生まれた一連の噂により、慌ただしさを増している。


 一歩、政庁の敷居を跨いだ瞬間、紙を繰る音、筆を走らせる音が耳に触れた。静謐だが、張りつめている。湊は肩をわずかに回し、浅く息を吐いた。


「……帰ったのだな」


 奥から声が響いた。城代職の一人、坂井照景である。壮年で、眉が太く、良くも悪くも“会津の武士らしい堅さ”をその身に帯びている。


 湊は一歩進み、軽く頭を下げた。


「戻りました。越後での騒ぎは、ひとまず抑えられました」


「そうか」


 坂井は机上の文書を指で叩きながら、ため息をひとつ。


「――だが、ここ会津でも動きがある。聞いておるだろう?」


「越後の噂が、会津まで来ているという話ですか」


「噂どころではない」


 坂井は声を潜めた。すぐ近くに控えていた若い書役が気を利かせて席を外す。


「村の騒ぎではすまぬ、ということだ。藩府の上役、奉行衆の耳にまで、おぬしの名が届いておる。

 “湊が戻れば、何か裁断が下る”――そう囁かれておる。」


 曽根がわずかに眉を動かしたが、言葉は飲み込んだ。


 湊は、坂井の視線を正面から受け止めた。外では冷たい風が吹き始め、格子窓を軽く揺らしている。風の音が、この先にある厄介な出来事を告げているかのようだった。


「奉行衆が、何か動く気配があるのですか」


「ある。いや――動かざるを得まい」


 坂井は机上の文書を一枚、湊の前に差し出した。


 古い帳面だ。紙の端が黄ばみ、幾度も手に渡った痕跡がある。


「これは……」


「蒲生家の頃の地目帳だ。蘆名の頃より格段に精度が増しておる。

 越後で“年貢の横流し”や“寺の圧迫”が噂になったと知った者が、この帳面を引っ張り出したのだ。

 “湊殿なら、ここから何か見つけるのではないか”とな。」


 坂井の声音には、期待とも不安ともつかぬ重さが混じっていた。


 湊は帳面を開いた。

 筆致は丁寧だ。蒲生氏郷の治政がどれほど優れていたかが、紙面からでも伝わる。

 村々の収穫、田畑の広さ、水利、山の使用権――細やかに書かれている。


 上泉が一歩前に出た。


「湊殿。これほど古い帳面が今さら出される……珍しいことですな」


「ええ。誰かが“探した”のでしょう。偶然ではない」


 湊はゆっくりと帳面のページをめくる。

 山の地目、寺社領、百姓持ちの畑――見覚えのある地名もある。


 ふと、三雲が低い声を出した。


「……越後での騒ぎが、ここまで届くとはな」


 湊は帳面から視線を離し、三雲に向けた。


「越後で私がしたことは、“火をつけないための言葉”にすぎません。

 それが会津の上層にまで影響するなど、本来あり得ぬはずですが……」


「湊よ」

曽根が静かに口を開いた。その声には、越後での騒ぎを共に越えた者だけが持つ、乾いた落ち着きがあった。


「世の中とは、そういうものでございます。

 火を消すために言った一言が、別の地では“火をつける予兆”として伝わることもある。」


 湊は小さく笑った。苦笑に近い。


「それは望んだものではありませんが、そう見えるのでしょうね」


 坂井が言葉を継いだ。


「湊、おぬしが越後で“寺社には触れぬ”“検地は急がぬ”と公言したことで……

 会津の寺も安心した。だが同時に、彼らに対し圧をかけようとする者が動いた。

 “湊が戻れば寺の扱いは変わる”と吹き込んでいる者がいる。」


 湊の眉が、ごくわずかに寄った。


「誰が、そのような真似を?」


「名は掴めぬ。ただ――越後での噂を利用しているのは確かだ」


 政庁の外で、風がさらに強まり、戸を揺らした。冬の風は湿って重い。山に囲まれた会津は、雪の前触れに特有の“静電”のような気配を漂わせている。


 湊は帳面を閉じ、静かに机に戻した。


「では、伺います。

 会津は今――何が火種となっているのです?」


 坂井は短く息を吸い、言葉を選びながら答えた。


「三つだ。


 一つ。寺領の扱い。越後の真言弾圧の噂が伝わり、会津の寺も揺れておる。

 二つ。郷村の水利争い。長雪の前に“どちらが水を使うか”で揉めておる。

 三つ。藩府内の権力争い。奉行衆の間で、越後の一件を“湊を試す機会”と見る者がいる。」


 曽根と三雲が同時に息をのむのが分かった。


 上泉だけが、静かに湊を見ていた。


 その瞳は、かすかに笑っているようにも見える。

 “こうなると分かっていた”

 “お前ならできるだろう”

 そんな含みがあった。


 湊は、ほんの短い間だけ目を閉じた。

 胸の奥で何かがきしむ。越後での言葉は、必要だった。それでも、こうして波紋が広がる。


 だが――避けて通れる道ではない。


 湊は静かに目を開き、坂井に向き直った。


「分かりました。まずは寺領と水利の帳面を洗い直します。

 奉行衆への対応は、急ぎすぎればかえって混乱を招きます。順序を考えましょう」


 坂井は深く頷いた。


「頼む。会津は今、雪解け前の泥のように揺らいでおる。

 おぬしの言葉でしか、締まらぬ場があるのだ」


 湊は表情を引き締め、三人を振り返った。


「――行きますよ。今日はこれから、寺方の記録を見に行きます」


 曽根は襟元を整え、


「承知いたしました」


 三雲は半歩後ろで、


「越後の延長では済まぬぞ。ここは会津だ」


 上泉は刀の位置を軽く直し、短く答えた。


「雪の前に、手を打つ必要がございますな」


 湊は政庁を後にした。

 外の空気は先ほどより冷え込み、風も強まっている。

 雲は低く、夜は早い。


 火種はまだ見えない。

 だが――風が吹けば、どこかで火が上がる。


 その前に動かなければならない。


 湊は歩を速めた。

 会津の冬は、始まったばかりだった。

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