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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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68話:引かれた線は戻らない

峠を越える頃には、空の色がはっきりと変わっていた。


 越後側に垂れ込めていた低い雲は背後に残り、会津へ向かう山道には、乾いた風が吹き抜けている。木々の葉擦れの音が高く、どこか澄んで聞こえるのは、土地が違えば音の質も変わるからだろう。


 湊は馬上から周囲を見渡し、無意識のうちに息を整えていた。


(戻ってきた……)


 そう感じた瞬間、胸の奥に、わずかな空白が生まれる。


 越後で張り詰めていたものが、すべて解けたわけではない。だが、確かに距離はできた。その距離が、かえって不安を呼び起こす。


 後方から、並ぶ蹄の音が近づく。


 曽根だった。


「空気が違うな」


「違うな」


 湊は短く応じる。


「越後は、息を潜めていた。

 会津は……息をしている」


「言い得て妙だ」


 曽根は、道の脇に視線をやる。山肌にはまだ雪解けの名残があり、水が細く流れている。その水音が、やけに現実的だった。


「なあ、清原」


「何だ」


「越後の連中、本当にあれで納得したと思うか?」


 湊は、すぐには答えなかった。


 馬の歩調を少し緩め、視線を前へ向ける。道は緩やかに下り、遠くに会津の平野が見え始めている。人の営みがある場所だ。畑があり、村があり、境界がある。


「納得はしていない」


 やがて、そう言った。


「だが、今は“刃を出す理由”を失っている」


「理由が戻れば?」


「戻る」


 曽根は小さく舌打ちする。


「じゃあ、結局、先延ばしか」


「違う」


 湊は首を振った。


「選択肢を、こちらで作っただけだ」


「選ばせた、ってことか」


「選ばせただけだ。

 選んだかどうかは、まだ分からない」


 曽根は、それ以上は言わなかった。


 この男は、理屈よりも現場を信じる。だからこそ、湊の言葉をそのまま受け取らず、肌感覚で確かめようとする。


 少し前を進んでいた上泉が、馬を止めた。


 それに合わせて、一行も足を止める。風が一瞬、強く吹き抜け、枝先の雪解け水が落ちて地面を濡らした。


「よい判断です」


 上泉は、振り返らずに言った。


「決めぬことで、場を保った」


 湊は、その背中を見つめる。


「俺は……余計なことをしたのではないかと、考えていました」


「余計かどうかは、後で分かる」


 上泉は、ゆっくりと振り返った。


「だが、今の越後に必要だったのは、決断ではない」


「猶予、ですか」


「そうだ」


 上泉は頷く。


「人は、追い詰められれば刃を取る。

 だが、猶予があれば、考える」


 湊は、胸の奥でその言葉を反芻する。


(猶予を与えたつもりは、なかった)


 だが、結果として、そうなっている。


「猶予を作れる者は、少ない」


 上泉は続けた。


「力ある者は、すぐに決めたがる。

 弱き者は、流される。

 だが――」


 一拍置く。


「猶予を作る者は、

 場そのものに影響を及ぼす」


 その言葉が、重く落ちた。


 曽根が苦笑する。


「清原、あんた……

 思ったより、厄介な位置に立ってるぞ」


「自覚はある」


 湊は正直に答えた。


 越後で、命令した覚えはない。

 だが、誰もが“動かなかった”。


 寺が動かず、役人が慎重になり、民が刃を隠した。


 それは、湊個人の権限ではない。

 だが、湊を起点に、確かに広がった。


(これが……影響、か)


 再び歩き出す。


 峠を下り切ると、街道が開け、人の往来が増えてきた。商人の一団が荷を担ぎ、旅の僧が足早に通り過ぎる。会津へ向かう道は、生きている。


 道端の茶屋から、話し声が聞こえた。


「……越後じゃ、今年は検地は見送るらしい」


「本当か?」


「さあな。

 だが、寺が“会津に話が通っている”と言って、動かんらしい」


 湊は、思わず手綱を握る。


(もう、噂になっている……)


 しかも、誰の名も出ていない。


 上泉が、わずかに視線を寄こす。


「聞こえましたな」


「ええ」


「名が出ぬ噂ほど、厄介です」


「消すべきでしょうか」


「消す必要はない」


 上泉は淡々と言う。


「噂は、流れを映す水」

「止めれば、濁る」


 曽根が眉をひそめる。


「じゃあ、どうする」


「形を整える」


 上泉の答えは簡潔だった。


「寺が動かぬ理由があるなら、

 その理由の輪郭を、はっきりさせればよい」


 湊は、その意味を理解する。


 会津側で引いた線が、越後に伝わっている。

 誰かが命じたわけではない。


 だが、越後の側が、その線を越えぬと判断している。


(三雲……)


 越後に人を残した覚えはない。

 だが、“会津の線”は、確かに向こうへ届いている。


 それが、良いことなのかどうか――

 まだ、分からない。


 馬は、再び会津の平野へと進んでいく。


 穏やかな風景の中に、確かな緊張が潜んでいるのを、湊は感じ取っていた。


 越後で起きたことは、終わっていない。


 ただ、形を変え、

 静かに広がり始めている。


 湊は、前を見据え、深く息を吸った。


 もう、何もしていないふりはできない。


 だが、

 だからといって、決めてはならない。


 その矛盾を抱えたまま、

 清原湊は、会津へ戻っていった。

会津の城下が見え始めたのは、日がすでに西へ傾き始めた頃だった。


 山道を抜け、平野へ出ると、視界が一気に開ける。低い家並みの向こうに田畑が広がり、春を迎えたばかりの水田が、夕陽を映して鈍く光っていた。越後とは違う。湿り気は少なく、風は乾いている。人の営みが、確かな手応えを持って息づいている。


 湊は、その風景を見つめながら、胸の奥に溜まっていた息を、ゆっくりと吐いた。


(戻ってきた……)


 だが、完全に戻れたわけではない。


 越後で起きたことは、まだ胸の内で形を持たないまま揺れている。言葉にすれば壊れそうで、黙っていれば膨らみ続ける。そんな感覚だった。


 城下へ入る手前で、一行は自然と歩調を落とした。


 曽根が、周囲を見回しながら言う。


「やっぱり、ここは落ち着くな」


「落ち着いているように見えるだけだ」


 湊は答えた。


「人が多い分、揺れも分かりにくい」


「違いねぇ」


 曽根は鼻で笑う。


「だが、越後みたいに一気に火が付く感じじゃない」


「火は、付かぬ方がいい」


「そりゃそうだが……」


 曽根は言葉を切り、少しだけ声を落とした。


「清原。

 あんた、越後でやったこと……

 会津でも、効いてくるぞ」


 湊は黙って頷いた。


 すでに、兆しは見えている。


 城下の外れに差しかかった頃、役人の一人が慌てた様子で駆け寄ってきた。顔には疲労と緊張が浮かんでいる。


「清原様……お戻りでしたか」


「何かあったか」


「大事ではありません。

 ただ……」


 言い淀む。


「越後の件で、問い合わせがいくつか」


 湊は、心の中で静かに息を吸った。


「どこからだ」


「近隣の地頭や、寺社からです。

 “会津は、越後にどこまで関わるのか”と」


 その言葉に、上泉がわずかに眉を動かした。


「答えたか」


「いえ……」


 役人は、困ったように首を振る。


「こちらでは判断しかねるとだけ」


「それでよい」


 上泉は、即座に言った。


「余計な答えは、余計な波を生む」


 役人は深く頭を下げ、下がっていった。


 湊は、その背中を見送りながら、胸の奥に重さを感じていた。


(もう……会津だけの話ではない)


 越後で置いた線が、こちらへ戻ってきている。誰かが引いたと明言されぬ線ほど、人を惑わせる。


 城へ入ると、夕暮れの気配が一層濃くなった。


 廊下を進む足音が、静かに響く。木の香り、畳の感触、遠くから聞こえる城下のざわめき。それらが、現実へと引き戻す。


 控えの間に入ると、先客がいた。


 三雲だった。


 変わらぬ装い。背筋を伸ばし、静かに座している。その姿は、どこまでも会津の武士だ。越後の土を踏んだ気配など、一切ない。


「戻られましたか」


「戻った」


 湊は、正面に座る。


 一瞬、沈黙が落ちた。


 三雲は、湊の顔をじっと見つめ、やがて口を開いた。


「越後の寺から、書状が届いています」


 湊の視線が、鋭くなる。


「内容は?」


「“今年は動かぬ”と。

 それだけです」


 短い言葉だった。


 だが、その背後にある意味は、重い。


「返事は?」


「出していません」


 三雲は、静かに言う。


「出す必要がないと判断しました」


 湊は、ゆっくりと頷いた。


「正しい」


 三雲は続ける。


「越後の寺は、

 “会津に話が通っている以上、勝手に動けば裏切りになる”

 と理解しています」


「理解、か」


「はい。

 命令ではありません。

 彼ら自身の判断です」


 その言葉に、湊は胸の奥が締め付けられるのを感じた。


(判断させてしまった……)


 それは、誇るべきことなのか。

 それとも、重荷なのか。


「三雲」


「は」


「越後へ行くつもりは?」


「ありません」


 即答だった。


「行けば、線が“人”になります。

 それは、今は不要です」


 上泉が、静かに頷く。


「よく分かっている」


 三雲は、わずかに頭を下げた。


「寺は、避難所であってはなりません」

「だが、刃を置く場所にはなり得ます」


 湊は、その言葉を噛みしめる。


「……危うい役目だ」


「承知しています」


 三雲の声は、揺れなかった。


「ですが、誰かが引き受けねば、

 線はすぐに消えます」


 湊は、しばらく黙っていた。


 越後で起きたことが、こうして会津の一室にまで波紋を広げている。その中心に、自分がいる。


(俺は……

 どこまで背負うつもりだ)


 上泉が、場を和らげるように言った。


「背負う必要はない」

「立っていればよい」


「立つ、ですか」


「そうだ」


 上泉は、湊を見据える。


「倒れねば、人は勝手に寄りかかる」


 その言葉に、湊は小さく笑った。


「随分と、無責任な教えですね」


「無責任でなければ、続かぬ」


 三雲が、静かに補足する。


「責任を取ろうとする者ほど、

 早く折れます」


 湊は、深く息を吸った。


 夕暮れが、障子越しに部屋を染める。赤く、柔らかな光。その中で、三人の影が長く伸びていた。


 越後は、まだ静かだ。

 だが、その静けさは、決して安らぎではない。


 会津に戻った今、

 湊ははっきりと理解していた。


 自分が引いた線は、

 もう、自分だけのものではない。


 それでも――

 引いた以上、立ち続けるしかない。


 湊は、ゆっくりと立ち上がった。


「今は、これでいい」


 三雲と上泉が、無言で頷く。


 夜が、会津の城下に降り始めていた。


 静かに。

 だが確実に、次の波を孕みながら。

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