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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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67話:残された火種

越後を離れる朝は、ひどく静かだった。


 雲は相変わらず低く垂れ込めているが、昨夜までの重さとはどこか違う。湿り気を帯びた風は冷たく、陣屋の屋根瓦を撫でるように吹き抜けていく。人の営みが目を覚ます前の刻――この土地が、最も本音をさらす時間だ。


 湊は、馬を繋いだまま、陣屋の門前に立っていた。


 砂利を踏む音が、やけに大きく響く。

 音があるということは、まだ静けさが保たれている証だ。


(嵐ではない)


 だが、完全な晴れでもない。


 曽根が、背後で手綱を整えながら言った。


「越後は……ひとまず、落ち着いたな」


「“落ち着いた”というより」


 湊は、空を見上げたまま答える。


「息を詰め直した、だ」


 曽根は鼻を鳴らした。


「言い得て妙だな。

 深く吸って、次にどう吐くかを考えてる」


 その言葉に、湊は小さく頷いた。


 人も国も同じだ。

 一度、均衡を崩しかけたものは、元には戻らない。ただ、次に崩れる方向を選び直すだけだ。


 門の内側から、足音が近づいてきた。


 溝口秀勝だった。

 装いは昨日と変わらぬが、顔つきが少しだけ柔らいでいる。眠れてはいないだろう。それでも、覚悟が定まった者の顔だ。


「お見送りに来ました」


「お気遣いなく」


 湊は一礼する。


「越後は、あなたの国です」


 秀勝は、短く笑った。


「それが、難しいところでな」


 視線を、陣屋の奥へ向ける。


「まだ、堀殿の国でもある。

 そして……上杉の影も、完全には消えておらぬ」


 湊は、その言葉を否定しなかった。


「だからこそ、今は“動かぬ”」


「ええ」


 秀勝は、はっきりと頷く。


「役人たちにも、言い聞かせました。

 調査は、私の許可なしには進めぬ、と」


「反発は?」


「あります」


 秀勝は、正直に答えた。


「だが、表立っては動けません。

 会津様がここで言葉を置いていかれた以上、なおさら」


 その呼び方に、湊は苦笑した。


「……その呼び名、しばらく残りそうですね」


「残した方がよい」


 秀勝は、即答した。


「誰かの名を背負っている方が、

 国は“待つ”理由を持てる」


 それは、政治の現場に立つ者の実感だった。


 上泉が、少し離れた場所から歩み寄ってくる。

 足取りは変わらず静かだが、秀勝はその姿を見て、自然と背筋を正した。


「上泉殿」


「溝口殿」


 短い挨拶。


「越後は、剣を抜かずに済みましたな」


 上泉の言葉に、秀勝は深く息を吐いた。


「ええ。

 だが、それが一番、神経を使います」


「剣を抜く方が、楽な時もある」


 上泉は、淡々と言った。


「だが、楽な道は、必ず次に血を呼ぶ」


 秀勝は、その言葉を噛みしめるように頷いた。


「しばらくは、耐えます」


「耐えることは、退くことではない」


 上泉は続ける。


「構えを保つ、ということだ」


 そのやり取りを、浅香は少し離れた場所から見ていた。

 相変わらず名は名乗らず、前にも出ない。ただ、誰よりも越後を見ている。


 ふと、秀勝がその存在に気づき、声をかけた。


「……あの」


 一瞬、言葉を選ぶ。


「名は、聞かぬ方がよろしいですかな」


 浅香は、わずかに首を振った。


「今は」


 それだけで、十分だった。


 秀勝は、それ以上踏み込まない。

 踏み込まぬ判断ができる男だからこそ、ここまで国を保ってきた。


「越後に、何かあれば」


 秀勝は、湊に向き直る。


「会津へ、知らせます」


 湊は、静かに答えた。


「知らせが来ぬ方が、よい」


「ええ」


 二人は、短く笑い合った。


 馬に跨り、陣屋を後にする。

 門を出る直前、湊は一度だけ振り返った。


 越後の空は、相変わらず重い。

 だが、昨日まで感じていた“張りつめた膜”は、わずかに薄れている。


(置いてきた)


 言葉も、約束も、そして――歪みも。


 街道へ出ると、畑に向かう百姓たちの姿が見えた。

 誰も頭を下げない。誰も睨まない。ただ、ちらりとこちらを見て、また鍬を振る。


 それでいい。


 曽根が、馬上から言った。


「越後は……忘れねぇだろうな」


「忘れぬさ」


 湊は答える。


「忘れぬからこそ、次に選ぶ」


 上泉が、ぽつりと呟いた。


「選べる時間を、残せた」


 浅香は、何も言わない。

 だが、その背中が、そうだと言っている。


 馬が歩みを進める。

 越後の地が、ゆっくりと遠ざかっていく。


 雲の切れ間から、ほんのわずか、陽が差した。


 ――だが、それは祝福ではない。


 次に何を選ぶかは、

 越後自身が決めねばならぬ。


 湊たちは、そうして越後を後にした。

街道を離れ、山あいの道へ入ると、空気は一段と冷えた。


 朝靄がまだ残り、馬の蹄が湿った土を踏みしめるたび、鈍い音を立てる。木立の間から差し込む光は細く、道の先を完全には照らさない。越後から会津へ戻るこの道は、地図の上では一本だが、実際には無数の分かれ道と陰を抱えている。


 湊は、馬上で周囲を見渡しながら進んでいた。


(越後を離れた、という実感はないな)


 あの地に置いてきたものが、あまりにも多い。

 言葉、判断、抑えた感情――そして、誰にも見えぬ不満。


 曽根が、前方を見ながら言った。


「なあ……本当に、これでよかったのか?」


 その問いは、疑念ではなかった。

 確認だ。


「“今年は取らない”って言葉、

 あれ、後で効いてくるぞ」


「効かせるために言った」


 湊は即答した。


「効かねば、意味がない」


 曽根は、小さく唸る。


「優しさじゃねぇな」


「違う」


 湊は、馬を少しだけ緩めながら続けた。


「選択肢を残しただけだ。

 次に刃を取るか、言葉を選ぶか――それは、向こうが決める」


 その言葉を、上泉は黙って聞いていた。


 しばらくして、ぽつりと口を開く。


「湊殿」


「はい」


「越後の者たちは、“会津様が守った”と思うでしょう」


「……そうでしょうね」


「だが、それは半分でよい」


 上泉は、馬を進めながら言った。


「守ったと思わせるのは、今だけ」

「次に試される時、彼らは“自分たちで選ばねばならぬ”」


 湊は、少しだけ視線を落とした。


「選べなかったら?」


「その時は」


 上泉は、静かに言った。


「また、剣を抜かぬ剣が必要になる」


 曽根が苦笑する。


「難儀な話だな。

 斬らずに済ませるほど、気が削れる」


「それが、武士の心構えだ」


 上泉の声には、剣を振るう者とは違う重みがあった。

 長く生き、斬らずに残してきた者だけが持つ、重さ。


 その時――


 後方から、控えめな蹄の音が近づいてきた。


 曽根が振り返るよりも早く、浅香が馬を寄せる。


「……越後から、人が動いている」


 低く、短い言葉。


 湊は、即座に問い返した。


「追っている?」


「いや」


 浅香は首を振る。


「追う、というより――

 確かめている」


 その表現に、上泉が目を細めた。


「誰だ」


「役人ではない」


 浅香は、木立の向こうを一瞬だけ見る。


「百姓でもない。

 僧でもない」


 曽根が舌打ちした。


「……面倒なやつだな」


「越後には、そういう者が多い」


 上泉は、静かに言った。


「国が替わり、仕組みが変わる時、

 必ず“居場所を失う者”が出る」


「その中で」


 湊が続ける。


「誰かが、声を拾う」


 浅香は、それ以上は言わない。

 だが、その沈黙が、すでに答えだった。


 道はやがて、峠へ向かって緩やかに登り始める。

 振り返れば、越後の山並みが、低い雲の向こうに沈みつつあった。


 湊は、胸の奥に小さな棘を感じる。


(越後は、終わっていない)


 あの地で起きたことは、始まりにすぎない。

 今はまだ、火は上がっていない。だが、灰は確実に積もっている。


 上泉が、ふと立ち止まった。


「ここで、一度休む」


 誰も異を唱えない。


 馬を降り、湧き水で喉を潤す。冷たい水が、体の芯まで染み渡る。

 この静けさが、かえって不穏だった。


 上泉は、湊の傍に立ち、低く言った。


「越後の件――

 堀殿には、書状で伝えるだけにしておけ」


「はい」


「言葉は少なく」


「はい」


 上泉は、そこで一拍置く。


「そして――

 会津では、構えを解くな」


 湊は、顔を上げた。


「会津でも、動きがありますか」


「必ず」


 上泉は断じる。


「越後で剣を抜かずに済んだなら、

 次は、別の場所で揺さぶられる」


 曽根が肩をすくめた。


「どこもかしこも、落ち着かねぇな」


「落ち着いた国など、存在せぬ」


 上泉は、淡々と言った。


「ただ、“揺れ方”が違うだけだ」


 浅香が、再び馬に跨る。


「……会津に戻る前に」


 珍しく、言葉を継いだ。


「一度、噂を拾っておいた方がいい」


「どこの?」


「どこでもいい」


 浅香は、そう言ってから付け加える。


「噂は、場所を選ばぬ」


 その言葉に、湊は小さく笑った。


「あなたは、本当に名を持たない男だ」


 浅香は、答えない。

 だが、その背中が、どこか楽しげに見えた。


 再び馬を進める。


 会津への道は、まだ長い。

 だが、越後に残したものが、決して消えぬことだけは、全員が理解していた。


 雲の向こうで、雷鳴が小さく響いた。


 雨は、まだ降らない。


 だが――

 どこかで、空は確実に、溜め込んでいる。

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