66話:均衡は、内より崩れる
越後の朝は、夜の名残を引きずっていた。
雲はまだ低く、山の稜線をぼかし、湿った空気が静かに流れている。村々は昨日の出来事を抱えたまま、何事もなかったかのように目を覚まし、鍬を手に畑へ向かっていた。
湊は、陣屋の縁側に立ち、庭先を見下ろしていた。
砂利は整えられ、足跡は消されている。だが、人の心に残った痕は、そう簡単には均されない。
(昨夜は、止まった)
だが、それは“終わった”とは違う。
約束は交わされた。
言葉は届いた。
それでも、均衡は常に内側から崩れる。
廊下を進む足音が、規則正しく近づいてくる。
溝口秀勝だった。装いは簡素だが、顔には昨日よりも深い影が落ちている。
「村の様子は?」
「静かです」
秀勝は答えた。
「……静かすぎる」
湊は、その言葉に頷いた。
「噂が止まる時は、二つあります」
「鎮まった時と」
「溜めている時、ですね」
秀勝は、短く息を吐いた。
「役人の中に、不満が出ております」
湊は、視線を動かさずに聞いた。
「“なぜ、あそこで明言した”と」
秀勝の声は低い。
「今年は取らぬ、と。寺にも手を付けぬ、と。
それを、現場の裁量で決めてよいのか、と」
当然の反応だった。
役人にとって、曖昧さは武器だ。だが、明言はその武器を奪う。
「誰が、そう言っていますか」
湊が問う。
秀勝は、一瞬、言葉を選んだ。
「……若い者です。
堀家から付けられた者もいれば、溝口家の古い家臣もいる」
内側だ。
外からの煽動ではない。
「彼らは、こう言うのです」
秀勝は、苦笑した。
「“優しさは、後で首を絞める”と」
湊は、ゆっくりと振り返った。
「間違ってはいません」
「……でしょうな」
「だが」
湊は続けた。
「今は、その“後”に辿り着く前に、国が壊れる」
秀勝は、黙ってそれを受け止めた。
その時、障子の外で控えていた曽根が、低く声をかけてきた。
「殿。
陣屋の裏で、役人同士が揉めております」
湊の眉が、わずかに動いた。
「表か」
「いや……裏です」
裏。
それは、表に出せぬ言葉が集まる場所。
「行きましょう」
三人は、陣屋の裏手へと回った。
そこには、木立に囲まれた細い通路があり、役人たちが数人、声を抑えながら集まっている。
「昨日のあれは、越権だ」
「民に約束などして、後でどうするつもりだ」
「来年、破ればどうなる?」
声は、怒りよりも焦りを帯びている。
その中の一人が、低く言った。
「……破らねばいい」
周囲が、はっとした。
「今年のうちに、下準備だけでも進める。
帳面を改め、山の様子を見、寺の数を把握する」
「それは――」
「“検地ではない”」
男は言い切った。
「調査だ。下見だ。
民には触れぬと言ったが、我らが見るなとは言っていない」
沈黙が落ちる。
理屈としては、通る。
だが、その理屈は、約束の隙間を狙っている。
湊は、一歩踏み出した。
枝が、足元で小さく鳴る。
役人たちが、一斉に振り向いた。
「……会津様」
空気が、一瞬で張りつめた。
「話は、聞かせてもらいました」
湊は、声を荒げない。
「調査と検地は、紙一重です」
男の一人が、口を開く。
「ですが、国を治めるには――」
「承知しています」
湊は遮った。
「だから、順を守る」
視線を、一人ひとりに向ける。
「昨日の約束は、“民に対して”だけではない。
国の中に向けたものでもあります」
誰も、反論できない。
だが、納得もしていない。
(ここだ)
湊は感じた。
均衡は、外ではなく、内側で揺れている。
その時、少し離れた場所で、気配が動いた。
浅香だった。
彼は、役人たちのさらに外側に立ち、誰の顔も見ていない。
ただ、その場全体を包むように、静かに立っている。
役人の一人が、ぽつりと呟いた。
「……あの浪人は、何者だ」
浅香は、答えない。
だが、その沈黙が、余計な言葉を封じていた。
「今日は、ここまでです」
湊は言った。
「各々、持ち場へ戻りなさい。
調査は――私が許可したものだけを行う」
役人たちは、深く頭を下げ、散っていく。
その背中には、従順と不満が、同時に宿っていた。
秀勝が、低く言った。
「……内側の方が、厄介ですな」
「はい」
湊は、空を見上げた。
雲は、まだ晴れない。
「だからこそ、刃を抜かせない」
浅香が、ふと口を開いた。
「内は、音が立たぬ」
短い言葉。
だが、重い。
「気づいた時には、血が出る」
湊は、頷いた。
「だから、今は“音”を出す」
言葉という音を。
越後の朝は、まだ静かだった。
だが、その静けさの中で、均衡は、確かに軋み始めていた。
裏庭での話が終わった後も、陣屋の空気は張りつめたままだった。
人が去っても、言葉は残る。言葉が残れば、判断が揺れる。
湊は、陣屋の奥へと歩を進めた。廊下の板は新しく、踏みしめるたびにかすかに鳴る。その音が、かえって今の溝口領の未熟さを物語っているようだった。
(まだ、形になっていない)
国も、人の心も。
座敷に入ると、すでに数名の役人が控えていた。顔ぶれは先ほどとは違う。年嵩の者、帳面を抱えた者、そして――目の奥に計算を宿した者。
「会津様」
一人が頭を下げる。
湊は、その呼び方に小さく息を吐いた。
否定はしない。だが、肯定もしない。
「話があると聞いた」
役人たちは互いに視線を交わし、やがて一人が進み出た。
「調査の件でございます」
その言葉に、秀勝の眉がわずかに動く。
「調査と申しましたが……」
男は慎重に言葉を選ぶ。
「民に触れぬ形で、山林と寺の数を把握しておきたい。
いざという時に、混乱を避けるためにも」
それは、昨日裏で聞いた話と同じだ。
理屈は正しい。だが、正しい理屈ほど、人を追い詰める。
湊は、すぐには答えなかった。
代わりに、上泉へ視線を送る。
上泉は、畳に正座したまま、微動だにしない。
だが、その沈黙が、場を縛っていた。
「それは“調査”か?」
上泉が、静かに問うた。
役人が、一瞬言葉に詰まる。
「……下見、でございます」
「下見とは、誰のためのものだ」
「国のために」
上泉は、首を傾げた。
「国とは、誰だ」
その問いは、剣よりも鋭かった。
役人は、答えられない。
秀勝が、低く言った。
「民が不安を抱いたまま行う下見は、下見ではない」
「それは、“始まり”だ」
役人の顔色が変わる。
「だが、何もせねば――」
「何もしないのではない」
湊が、静かに言った。
「“知らせる”のだ」
全員の視線が集まる。
「調査をするなら、する前に言う。
何を見るのか、何を見ないのか。
それを決めてからだ」
役人の一人が、苛立ちを隠さず言った。
「それでは、手が遅れます」
「遅れてよい」
湊は、即答した。
「遅れて困るのは、国ではない。
“急ぎたい者”だ」
沈黙が落ちる。
その言葉は、誰かを名指ししてはいない。
だが、確実に刺さった。
上泉が、そこで初めて立ち上がった。
畳を踏む音は、驚くほど静かだった。
しかし、その瞬間、場の空気が一段深く沈む。
「剣の稽古ではな」
上泉は、役人たちを見回した。
「形を急げば、必ず崩れる」
「ゆっくり構えれば、遅れたように見えても、最後に立つ」
誰も、反論できない。
「湊殿は、決めておられぬ」
上泉は、はっきりと言った。
「決めているのは、堀殿と溝口殿だ」
「湊殿は、刃が交わる前に、言葉を置いているだけ」
それは、湊を守る言葉でもあった。
「それ以上を求めるなら――」
上泉は、視線を鋭くする。
「それは、政ではない」
役人たちは、深く頭を下げた。
従ったのか、退いたのかは分からない。だが、今は引くしかない。
役人が去った後、座敷には四人だけが残った。
「……上泉殿」
秀勝が、静かに頭を下げる。
「助かりました」
「礼は不要だ」
上泉は、元の位置に戻る。
「剣を抜かずに済んだ。それでよい」
浅香は、座敷の隅に立ったまま、何も言わない。
だが、湊は分かっていた。
この場で一番、役人たちを見ていたのは彼だ。
「名を呼ばれそうになりましたな」
秀勝が、冗談めかして言う。
浅香は、わずかに口元を動かした。
「呼ばれぬ方が、役に立つ」
短い言葉。
だが、それで十分だった。
夜が近づき、陣屋に灯が入る。
越後の空は、相変わらず重い。
だが、均衡は――かろうじて、保たれている。
(これが、限界だ)
湊は思った。
言葉で保てる均衡には、限りがある。
だからこそ、今は“剣を抜かぬ者”が必要だ。
そして、剣を抜かぬ覚悟を持つ者が。
越後の夜は、静かに更けていった。
だが、その静けさは、嵐の前のものではない。
――まだ、選べる時間だった。




