65話:言葉が刃になる、その前に
村は、思ったよりも静かだった。
夕刻が近づき、空は鈍い橙色に染まり始めている。雲は低く垂れ込め、遠くの山並みの稜線をぼかしていた。湊は馬を降り、足元の土を踏みしめる。湿り気を含んだ地面は柔らかく、踏み込むたびに小さく音を立てた。
人は集まっている。
だが、まだ騒ぎではない。
広場の周囲に、男や女、老人、子どもが点々と立っている。農具を手にした者もいるが、刃物ではない。鍬、鎌、木の棒――いずれも、日々の暮らしの延長にある道具だ。誰一人、顔を歪めてはいない。ただ、硬い表情で、湊たちを見ている。
湊は、その視線の質を感じ取った。
(怒りではない)
不安だ。
そして、確かめたいという欲求。
次に何が起きるのか。
自分たちは、どう扱われるのか。
それを、誰かの口から聞きたいだけだ。
曽根が、半歩前に出かけて、すぐに止まった。
「……多くないな」
「集まり始めたばかりだ」
湊は低く答えた。
「だが、ここで声を荒げれば、倍になる」
曽根は口を閉じ、後ろへ下がる。
上泉は、すでに一歩引いた位置に立っていた。視線は柔らかく、だが全体を逃さない。剣を持つ手は、鞘から遠い。
浅香は――いつの間にか、人垣の端に立っていた。
誰かの背後。
誰かの斜め後ろ。
そこが、一番「崩れない」位置だと知っているかのように。
湊は、ゆっくりと前へ出た。
大声は出さない。
叫ばない。
ただ、全員に届く高さで、言葉を投げる。
「集まった理由を、聞かせてほしい」
一瞬、空気が止まる。
人々は互いの顔を見合わせ、誰が口を開くべきかを探す。沈黙が長引けば、焦りが生まれる。湊は、それを待たなかった。
「責めるためではない」
続けて言う。
「ここで何かを決めるためでもない。ただ――知るためだ」
老人が、一歩前へ出た。
腰は曲がり、手は震えているが、目だけははっきりしている。
「……検地、でございましょうか」
声は小さい。だが、はっきりしていた。
湊は頷いた。
「そうだな。だが――」
そこで一度、言葉を切る。
周囲の空気が、わずかに硬くなる。
湊は、それを見逃さない。
「まだ、始まっていない」
その一言で、ざわめきが起きた。
誰かが息を呑み、誰かが小声で何かを言う。期待と疑念が、同時に膨らむ。
「役人は来ていない。縄も張られていない。帳面も、突きつけられていない」
事実だけを並べる。
「それでも、不安になるのは分かる。分からないからだ」
若い男が、声を上げた。
「じゃあ、いつ来るんだ!」
湊は、その声を遮らない。
「いつ、何を取られるんだ! 米か! 山か! 漆か!」
怒鳴り声ではない。
追い詰められた者の問いだ。
湊は、まっすぐに答えた。
「今年は、取らない」
広場が、静まり返る。
「検地は行う。だが、今年は下見と帳面の整理だけだ」
昨日、溝口秀勝と交わした言葉を、ここで使う。
「米も、山も、寺も――今年は触れない」
人々の表情が、揺れる。
「来年は?」
別の声。
湊は、視線を逸らさずに答えた。
「来年の話は、来年、必ずここで話す」
逃げない。
先送りもしない。
「決まる前に、知らせる。決まらぬことは、決まらぬと言う」
老人が、深く息を吐いた。
「……本当か」
「疑うのも、当然だ」
湊は、静かに言った。
「だが、ここで嘘をつけば、次は刃になる」
その言葉に、空気が変わった。
曽根が、内心で舌打ちするのが分かる。
だが、これは必要な一線だった。
浅香が、ほんのわずかに位置を変えた。
人垣の中で、誰かの肩が強張る。
だが、誰も動かない。
湊は、最後にこう言った。
「今日は、帰ってくれ」
命令ではない。
願いでもない。
「集まる理由がなくなったなら、それでいい」
沈黙。
やがて、一人、また一人と、人々が背を向け始めた。足取りはまだ重いが、刃は生まれていない。
広場が、ゆっくりと空いていく。
曽根が、息を吐いた。
「……綱渡りだな」
「まだ、渡りきっていない」
湊は答えた。
人が去った後の地面には、踏み固められた跡だけが残っている。
それは、怒りの痕ではない。迷いの痕だ。
上泉が、ぽつりと言った。
「剣を抜かずに済んだな」
「だからこそ、気は抜けません」
湊は、空を見上げた。
雲はまだ低い。
だが、割れ目から、わずかな光が差し込んでいた。
(言葉は、まだ間に合った)
それが、越後での最初の答えだった。
人々が去った後の広場には、踏み固められた土の匂いだけが残っていた。
夕闇が滲むように広がり、家々の軒先に灯が入り始める。村は日常へ戻ろうとしている。だが、戻りきれない何かが、まだ地面の下で脈打っていた。
湊は、足元に残る足跡を見下ろした。
それは怒りの痕ではない。
迷いの痕だ。
「……これで終わり、ではないな」
曽根が、低く言った。
「始まったばかりだ」
湊は頷いた。
言葉は投げた。だが、言葉は必ず誰かの手で運ばれ、歪められる。夜が来れば、噂は酒とともに膨らみ、明日の朝には別の顔をして歩き出す。
上泉は、村の奥へ続く細道に視線を向けていた。
「戻り際が肝だ」
「ええ」
湊は答えた。
「今夜、誰が動くか」
その時だった。
浅香が、ほんのわずかに体を傾けた。
誰にも気づかれぬほどの変化。だが、湊はそれを見逃さない。
(来る)
村外れ。
闇に溶けるように、三つの影が集まっていた。
男たちの声は低く、しかし切迫している。
「……聞いたか。取らない、だと」
「口先だ。どうせ来年は来る」
「今のうちに、数を集めるべきだ」
浅香は、影のさらに影に身を置いた。
距離は近い。だが、息遣いは交わらない。人の輪郭が、言葉だけで浮かび上がる位置。
男の一人が、声を荒げた。
「今日、集まったのは失敗だ。もっと強く出るべきだった」
「待て」
別の男が制した。
「今、刃を出せば、こちらが悪になる」
その言葉に、浅香は目を細めた。
彼らは愚かではない。むしろ、状況を読んでいる。
「だが、このままでは散る」
「散る前に、煽れ。
“寺が調べられる”
“山が取られる”
それで十分だ」
浅香は、静かに一歩踏み出した。
足音はない。闇が、彼を呑み込む。
その時――。
「それは、嘘だ」
低い声が、闇に落ちた。
三人が、一斉に振り向く。
そこに立っていたのは、名も告げぬ浪人。
だが、立ち姿が、場を制した。
「……何だ、お前」
「今日の話を、聞いていた」
浅香は、言い切った。
「“今年は触れない”
“決まる前に知らせる”
そう言った」
「信じるのか?」
嘲る声。
「信じるかどうかは、関係ない」
浅香は、男たちの間合いに入らない。
だが、逃げ場を塞ぐ位置に立つ。
「嘘を混ぜれば、今夜は静かでも、明日は血が出る」
男の一人が、鎌の柄を握り直した。
「脅しか」
「警告だ」
浅香の声は、淡々としている。
「刃を出させたい者が、別にいる」
沈黙。
男たちの目が、揺れた。
「直江か」
誰かが、吐き捨てるように言った。
浅香は答えない。
だが、否定もしない。
「……あんたは、誰だ」
「通りすがりだ」
浅香は、そう言った。
「だが、今日ここで血が出れば、越後は終わる」
男たちは、互いに視線を交わす。
怒りではない。計算だ。
「今は……退く」
最初に声を上げた男が、言った。
「だが、見ているぞ」
「それでいい」
浅香は、一歩下がった。
男たちは、闇へと溶けた。
その頃、湊たちは村の外れで待っていた。
浅香が戻る気配を、上泉が先に察した。
「動いたな」
「ええ」
湊は、浅香の足取りを見て言った。
浅香は、何も報告しない。
だが、曽根が舌を鳴らした。
「……臭いが消えた」
「今夜は、な」
湊は答えた。
村を離れる道すがら、湊は振り返った。
灯が、点々と揺れている。人々は眠りにつくだろう。だが、完全な安らぎではない。
「約束は、刃より重い」
湊が、独り言のように言った。
上泉が、静かに応じる。
「破れば、剣を抜かねばならぬ」
浅香は、月明かりの下で立ち止まった。
その横顔は、相変わらず名を持たない。
(名は、まだいらぬ)
彼は、そう思った。
今は、均衡を保つこと。
言葉が刃になる、その一歩手前で止めること。
越後の夜風が、静かに吹き抜ける。
雲の切れ間から、月が顔を出した。
火は、まだ上がっていない。
だが――
誰かが、いつか息を吹きかける。
その時、言葉はどこまで耐えられるか。
四人は、闇の中を歩き続けた。
越後の夜は、深く、静かだった。




