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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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64話:火種はまだ、形を持たず

越後の空は、会津とは違う重さを持っていた。

 雲が低いわけではない。だが、湿り気を帯びた風が絶えず肌を撫で、土地そのものが長く息を潜めてきたような気配を残している。


 湊は馬を進めながら、無意識に周囲へ視線を走らせていた。


 溝口領――新発田藩六万余石。

 数字だけを見れば、決して小さな所領ではない。だが、ここはつい一年前まで上杉の地であり、その前はまた別の支配の色に染まっていた。支配者の名が変わるたびに、百姓も町人も、そして寺社も、己の立ち位置を測り直してきた土地だ。


 街道沿いの田畑は、一見するとよく整っている。畦は崩れておらず、水も行き渡っている。だが、よく見れば苗の間隔はまちまちで、手入れの具合も村ごとに違う。役人の指示がまだ末端まで届いていない証だった。


(まだ、支配が定まっていない)


 湊は、そう感じた。


 検地が入るという話は、すでに越後中に広がっている。

 だが、それはまだ「来る」という噂にすぎない。測量の縄が張られたわけでも、帳面が突きつけられたわけでもない。それでも、人は不安を先取りする。


 集落に入ると、空気が微妙に変わった。

 人はいる。だが、誰もが視線を伏せ、必要以上に口を開かない。馬上の一行に深く頭を下げる者もいれば、道端からそっと姿を消す者もいる。


「……怯えている、というより」


 曽根が、小声で言った。


「様子を窺ってる、って感じだな」


 湊は頷いた。

 恐怖ではない。警戒だ。次に何が来るのかを測ろうとする、静かな構え。


 上泉は黙って周囲を見回していたが、やがて一言だけ漏らした。


「剣の匂いは、まだない」


「だが、人の息が詰まっている」


 湊が応じると、上泉は小さく目を細めた。


「刃より先に、言葉が走っている、か」


 その通りだった。

 越後はいま、争いの直前にあるのではない。疑念と噂が、互いに影を伸ばし合っている段階だ。


 街道を外れた先に、小さな寺が見えた。

 古い瓦屋根に、歪んだ門柱。決して立派ではないが、境内には人の出入りが多いらしく、地面には新しい足跡が重なっている。


 湊は手綱を引いた。


「ここで話を聞こう」


 曽根が眉を寄せる。


「寺、か。……噂の溜まり場だな」


「だからだ」


 寺は、ただの信仰の場ではない。

 支配が不安定な土地では、寺は人の声が集まり、感情が言葉になる場所だ。


 僧は、湊の名を告げられると、驚いたように目を見開いた。

 そして、慌てて深く頭を下げる。


「会津様より……このような折に、恐れ入ります」


 その声には、安堵と同時に、どこか探るような色が混じっていた。


 堂内に通され、湊は粗末な座に腰を下ろす。

 上泉と曽根が左右に控え、浅香は柱の影に立った。相変わらず目立たぬ位置だが、堂内の空気がわずかに引き締まったのを、湊は感じ取った。


「この地の様子を、ありのまま聞かせてほしい」


 湊は、前置きなく言った。


 僧は一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せ、それから静かに口を開いた。


「……検地、でございます」


 まだ始まっていない言葉が、堂内に重く落ちる。


「役人が来る、縄が張られる、帳面が改まる……そうした噂だけが、先に走っております」


 曽根が小さく息を吐いた。


「まだ、何もしてねぇんだな」


「はい。しかし……」


 僧は声を落とす。


「“何を取られるのか分からぬ”ことが、何より人の心を削ります」


 湊は黙って聞いていた。

 否定も肯定もせず、ただ続きを促す。


「米だけでは済まぬのでは、漆や木も調べられるのでは、寺も帳面に載せられるのでは……そうした話が、夜ごと広がっております」


 それは事実ではない。

 だが、噂としては十分だった。


「さらに……」


 僧は、躊躇いがちに続けた。


「真言の寺が、調べられるという話もございます」


 堂内の空気が、ぴんと張りつめた。


「まだ、何かが起きたわけではありませぬ。ただ……“次は我らではないか”と、人が思い始めております」


 湊は、その言葉の重みを噛みしめた。

 信仰とは、制度ではない。人が不安を抱えたとき、最後に縋る場所だ。そこに手が伸びるという噂だけで、心はざわつく。


「誰が、そうした話を広めている?」


 湊が問う。


 僧は、しばし沈黙した。


「……名は、出ませぬ」


 だが、その沈黙が、すべてを語っていた。


(直江、か)


 名は出なくとも、影は濃い。

 上杉の旧臣、神官、僧侶――それぞれの不安が、一本の糸で結ばれつつある。


 湊は、ゆっくりと息を吐いた。


「分かった。今日は、それでよい」


 僧は、深々と頭を下げた。


 寺を出ると、外の空気が妙に軽く感じられた。

 だが、それは解決したからではない。問題の輪郭が、ようやく見えただけだ。


「厄介だな」


 曽根が言う。


「まだ何も起きてねぇのに、もう皆、身構えてやがる」


「だから、今しかない」


 湊は静かに答えた。


 背後で、浅香が一歩、影を踏み替えた。

 その動きは、相変わらず静かで、無駄がない。


(火が上がる前に、言葉で止められるか)


 越後の空は、相変わらず重い。

 だが、その下で、火種はまだ、形を成してはいなかった。

寺を後にした一行は、街道を外れ、溝口家の陣屋へ向かった。

 空は相変わらず低く、雲が流れるたびに陽が差しては消える。その繰り返しが、越後の人心を映しているかのようだった。


 陣屋は新しく、どこか落ち着きがない。

 木の香りがまだ強く、柱も梁も角が立っている。長く使われてきた城や屋敷にある「人の癖」が、まだ染みついていない。


(急ごしらえだな)


 湊は、足を踏み入れた瞬間にそう感じた。

 ここは、腰を落ち着けて政を行う場所ではない。状況に追われ、判断を重ねるための仮の拠点だ。


 溝口秀勝は、奥の座敷で待っていた。

 年の頃は五十を越えているが、背筋は伸び、眼差しは鋭い。だが、どこかに疲れが滲んでいる。


「会津よりお越しとのこと、感謝いたす」


 形式通りの挨拶の後、秀勝は率直に言った。


「越後は……思っていたより、厄介ですな」


 湊は頷いた。


「まだ、何も起きてはいません。ただ――」


「噂が先に走っている、でしょう」


 秀勝は苦く笑った。


「検地の話は、まだ“準備”に過ぎぬ。

 役人も、測量も、帳面も……揃えている最中です」


 それは事実だった。

 溝口家にとっても、検地は必要だ。新たに与えられた地を把握しなければ、年貢も軍役も定まらない。


「だが」


 秀勝は、声を落とした。


「人は、“始まる前”が一番怖い」


 湊は、その言葉に強く頷いた。


「不安は、事実より速く広がります」


「ええ。しかも、越後は――」


 秀勝は一瞬、言葉を切った。


「上杉の地だった」


 その一言に、空気が張りつめた。

 上杉という名は、もはや主ではない。だが、記憶としては、今も越後の隅々に残っている。


「直江兼続の影が、消えておりませぬ」


 秀勝は、はっきりと名を出した。


「旧臣、神官、僧……誰が糸を引いているのかは分からぬ。

 だが、“上杉のやり方の方が良かった”という声が、確実に増えている」


 それは、支配の正当性を揺るがす言葉だ。

 湊は、ゆっくりと問い返した。


「秀勝殿は、どうされたい」


 秀勝は、しばし沈黙した。

 そして、正直に答えた。


「急ぎたい」


 それは、失言にもなりかねない言葉だった。

 だが、湊は遮らなかった。


「若い国主――堀秀治殿は、まだ二十四。

 豊臣殿下も亡くなられ、世は揺れております」


 秀勝の視線が、遠くを見る。


「ここで越後が乱れれば、我らは“治められぬ”と見なされる。

 だからこそ、検地も、統治も、早く形にせねばならぬ」


(正論だ)


 湊は思った。

 だが、正論は、常に人を救うとは限らない。


「急げば、噂が事実になります」


 湊は、静かに言った。


「今、越後にあるのは“検地”ではなく、“検地の影”です。

 その影を実体にしてしまえば、不満は正当化される」


 秀勝は、眉を寄せた。


「では、どうすればよい」


 湊は、即答しなかった。

 代わりに、浅香の方へ、ほんの一瞬だけ視線を送った。


 浅香は、何も語らない。

 だが、その立ち位置が、場の均衡を保っている。


「動かぬことです」


 湊は、はっきりと言った。


「少なくとも、今は」


「……何もしない、と?」


「違います」


 湊は首を振った。


「“知らせる”のです。

 何をするのか、いつするのか、そして――何をしないのかを」


 秀勝は、息を呑んだ。


「検地は行う。だが、今年は下見と帳面の整理に留める。

 寺社には手を付けぬ。漆や山の産物も、今年は触れぬ」


 湊の言葉は、具体的だった。


「そう明言するだけで、“噂”は弱まります」


 沈黙が落ちた。


 秀勝は、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


「……若い殿には、伝えねばなりませぬな」


「はい」


 湊は答えた。


「“急がぬことも、統治”だと」


 その時。


 外が、わずかに騒がしくなった。


 曽根が、立ち上がる。


「何だ?」


 障子の向こうで、足音が乱れた。


 浅香が、静かに一歩前へ出た。


 次の瞬間、障子が開き、役人の一人が駆け込んでくる。


「た、ただいま……村方で、人が集まり始めております!」


「一揆か」


 秀勝が問う。


「い、いえ……まだ。

 ただ、“話を聞きたい”と……」


 湊は、即座に判断した。


「今です」


 全員の視線が集まる。


「こちらから出ます。

 集まる前に、言葉を投げねばならない」


 秀勝は、短く頷いた。


「頼む」


 陣屋を出ると、夕暮れの気配が広がっていた。

 人は、まだ刃を持っていない。ただ、声を探している。


 浅香が、湊の斜め後ろに立つ。


 その距離は、守るためでも、威圧するためでもない。

 “崩れぬため”の位置だ。


(まだ、間に合う)


 湊は、越後の空を見上げた。


 火は、まだ上がっていない。

 だが、誰かが息を吹きかければ、すぐに燃え上がる。


 ――その前に。


 言葉で、止める。


 それが、今この地で求められる“武士の心構え”だった。

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