63話: 越後へ向かう影
薄明の空が、会津の稜線を淡く照らしていた。
まだ町は眠りの中にあるが、三人の影だけが早足で城下を抜けていく。
湊、上泉泰綱、そして曽根。
この三人が向かうのは、越後国・溝口領。
“集まり”があるという情報が真実なら、火種が燃え上がる前に鎮めねばならない。
湊は腰の刀の位置を確かめ、深く息を吸った。
夜気がまだ残る空気を肺いっぱいに吸い込むと、気が引き締まった。
「……曽根。馬は?」
「村外れに用意してある。急げば昼過ぎには国境につく」
歩調を緩めず、曽根が答えた。
その時、上泉がふと足を止めた。
湊と曽根も、反射的に立ち止まる。
「どうしました?」
「……誰か、こちらを追っている」
わずかに風が揺れただけの静寂の中に、上泉だけが“刃の匂い”を感じ取っていた。
湊は振り返り、薄暗い通りを見つめる。
遠目に、一つの影がある。
歩みは静かだが、無駄のない、奇妙な重心移動――。
「……寺に出入りしていた浪人、ですか?」
「おそらくな。しかし――理由が読めぬ」
上泉の声は低い。
だが刀に手は添えない。見極めようとしているのだ。
◆
やがて、影は三人から一定の距離を保った場所で足を止めた。
湊は一歩前に出る。
(名乗る気配……ないな)
男の背は高くない。
だが、夜明け前の薄闇の中でも、その顔立ちは不自然なほど整っていた。
乱れた前髪の奥、刃のように澄んだ目が、静かにこちらを映している。
(……顔だけ見れば、戦場に立つ男には見えぬな)
肩の力が奇妙に抜けていて、どこにも隙がない。
それは“いい加減な者の気楽さ”ではなく、無数の戦場で身体が自然に覚えた構えだった。
湊は言った。
「……ついてきた理由を聞いても?」
男は返事をしない。
代わりに、風が一度だけ彼の前髪を揺らした。
その直後。
湊は気づいた。
(――足だ)
立ち姿では分かりにくい。
だが、足の前後の置き方、重心の逃がし方、つま先の角度。
どれも“ただの寺雇いの浪人”ではあり得ない。
曽根が小さく呟いた。
「……殿、こいつ、足軽や侍大将の動きじゃねぇ。武家の中でも、よほど上の……」
言葉を探すように詰まる。
「むしろ、戦場で百以上の首を見てきた者の足です」
最後に出た湊の言葉に、上泉がわずかに目を細めた。
浪人はやはり、返事をしない。
ただ、こちらの言葉を静かに“測っている”。
「名乗る気は、ないようですね」
湊が言うと、男の口元が僅かに動いた。
声にはならない。
しかし、湊はおぼろげに理解した。
(――まだ名乗れぬ、か)
寺に雇われただけの浪人ではない。
だが、敵でも味方でもない“第三の存在”。
その立場を、簡単には明かせないのだ。
◆
「どうされますか?」
上泉が問う。
「連れて行きます。ここで振り払う方が、危険ですから」
湊の言葉に、男は小さく顎を引いた。
それは頷きに限りなく近かった。
曽根が眉を寄せる。
「殿、いいのか? どこの馬の骨か分からねぇ奴だぞ?」
「逆です」
湊は低く言う。
「名を隠す理由があるなら、こちらの出方も見た方がいい」
「……ふん。お前、そういうところがあるよな」
曽根は呆れたようで、どこか安心した顔をした。
上泉は湊の隣に立ち、浪人へ目を向ける。
「名を名乗らぬは勝手。しかし、湊殿の後ろを歩いてくれ」
浪人は静かに頷いた。
(支配しようとせず、だが一線は引く。これが“道場の師”の在り方か……)
湊は胸の内で苦笑した。
この二人の対比は、あまりにも美しい。
・上泉――まっすぐな背と剣の道
・謎の浪人――夜に溶ける、刃のような美
どちらも“守り方”がまるで違う。
その二人と共に歩くことになるのは、奇妙だが、心地よい緊張感があった。
◆
村外れの馬小屋につく頃には、空がすっかり朱に染まっていた。
曽根が用意していた三頭の馬。
だが、湊は一度振り返る。
「四頭……必要かもしれません」
浪人がついてくる姿勢を崩していない。
その意志を“拒まない”と判断したからだ。
曽根が舌打ちしつつ、馬番の親父に声をかける。
「悪い、一頭追加だ!」
馬番が慌てて厩舎の奥へ走っていく。
その時。
上泉が浪人に問いかけた。
「……馬に乗れるか?」
浪人は、ゆっくりと頷いた。
湊は思わず目を細める。
(馬にも乗れる……か。やはり、寺の下働きが持つ技量ではない)
だが、名乗らない理由は依然として分からない。
浅香――
そう名乗る日は、まだ先になりそうだった。
◆
馬が四頭そろい、湊たちは馬上へと上がる。
国境へ向かう道は、まだ薄い靄が残り、森の息が白く立っていた。
馬のいななきの中、湊は前を見据える。
火種は溝口領。
越後衆、溝口家の残留勢、そして“不満”という見えない敵。
その中へ、三人と一人で乗り込む。
胸の奥がひりつくほどの緊張。
だが、不思議と不安はなかった。
(越後と会津をつなぐ橋になる……)
上泉の言葉が、背中を支える。
そして、後ろから無言でついてくる浪人の存在も、奇妙な重みを与えていた。
馬が地を蹴り、東へ走り出す。
会津の朝日が、四人の影を長く伸ばした。
森道を進むにつれ、朝靄は次第に薄れ、代わりに冷えた空気が頬を打つようになった。馬の吐く白い息が、一定の間隔で前方へ流れていく。冬の名残を思わせる冷気が、まだ地に染みついている。湊は手綱を握る指に、わずかに力を込めた。
越後国。
溝口領。
その名を思い浮かべるだけで、胸の奥に小さな棘が刺さる。上杉の直轄に近い土地でありながら、旧来の家臣、土豪、浪人衆が複雑に入り混じる地。年貢の配分、役人の増員、急な支配体制の変更――その一つ一つが、静かに不満を積み重ねていく。
戦になれば分かりやすい。敵も味方も、刃の向きで定まる。
だが、騒乱は違う。
誰もが正しさを主張し、誰もが被害者を名乗る。
(火は、上がる前に消す)
それが、今の自分に課された役目だと、湊は理解していた。
馬上で背筋を正し、耳を澄ます。蹄の音は四つ。そのうち一つが、僅かに遅れ、しかし決して乱れない。振り返らずとも分かる。名も告げぬ浪人だ。
一定の距離。
近すぎず、遠すぎず。
上泉の横を保ち、決して前には出ない。
その立ち位置が、湊の神経を静かに刺激していた。
「……妙だな」
曽根が、前を見据えたまま低く言った。
「何がだ」
「後ろの浪人だ」
曽根は視線だけで示す。
「普通、得体の知れねぇ奴なら、警戒して余計な動きをする。だが、あいつは違う。動きが……慣れすぎている」
湊は答えず、耳を傾けた。
「護衛の位置だ」
上泉が、静かに言った。
その一言で、すべてが腑に落ちた。
(やはりな)
あの浪人は、誰か特定の主を守っているわけではない。場そのもの、均衡そのものを守る者の距離感だ。事が荒れる前に、荒れぬ方向へと力を添える。敵にも味方にもなり得る、曖昧な立場。
道はやがて峠へと差しかかる。左右を切り立った斜面に挟まれ、視界が狭まり、音が不自然に反響する。湊は手綱を引いた。
「速度を落とす」
「了解だ」
曽根が短く応じた、その瞬間だった。
前方の霧が、不自然に揺れた。
「止まれ」
上泉の声と同時に、四頭の馬がほぼ同時に足を止める。
次の瞬間、霧の中から三つの影が現れた。
槍を持つ者が二人。
刀を帯びた者が一人。
身なりは粗末だが、足運びに無駄がない。獣のような荒さではなく、人の動きとして整っている。
「……この道は通せねぇな」
中央の男が、一歩前に出た。
「最近、物騒でよ。余所者は、通さねぇ決まりだ」
湊は、馬上から静かに名を告げた。
「会津より来た、湊という者だ」
「会津?」
男は鼻で笑った。
「関係ねぇな。今は、溝口様のお膝元だ」
空気が張りつめる。
曽根が、柄に手をかけた。
その瞬間。
背後で、気配が一つ、僅かに動いた。
浪人だ。
だが、前には出ない。
半歩、斜め後方へ。
槍の間合いから、自然に外れる位置。
(――来る)
湊がそう判断した瞬間、左の槍が突き出された。
だが、刃が届くより早く、上泉の刀が音もなく抜ける。
一閃。
槍先が弾かれ、地に落ちた。
続けて右から来た槍に対し、浪人が動いた。
速さではない。
無駄が、ない。
滑るように前へ出て、柄を打ち、手首を落とす。
槍が、地に転がった。
最後に残った男が、息を呑む。
「ここで斬り合うつもりはない」
湊の声が、低く響いた。
「退け」
男たちは、霧の中へと消えていった。
静寂が戻る。
曽根が、思わず声を漏らした。
「……おい」
浪人を見る。
「今の、何だ?」
浪人は答えない。ただ、元の位置へと戻る。
上泉が刀を納めながら言った。
「見事な体捌きだ」
浪人は、目を伏せた。
「……助太刀、感謝する」
湊が告げると、浪人はわずかに首を振った。それは否定とも肯定とも取れる、曖昧な動きだった。
(やはり、ただの浪人ではない)
だが、湊はそれ以上問わなかった。
峠を越えると、霧が晴れ、越後の大地が広がった。湿った風が、肌を撫でる。溝口領は、もう近い。
湊は前を見据える。
(ここからだ)
背後には、剣の道を歩む師と、影に生きる美しき剣客。
四人は、再び馬を進めた。
越後の風が、静かに吹き抜けていった。




