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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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63話: 越後へ向かう影

薄明の空が、会津の稜線を淡く照らしていた。

 まだ町は眠りの中にあるが、三人の影だけが早足で城下を抜けていく。


 湊、上泉泰綱、そして曽根。

 この三人が向かうのは、越後国・溝口領。


 “集まり”があるという情報が真実なら、火種が燃え上がる前に鎮めねばならない。


 湊は腰の刀の位置を確かめ、深く息を吸った。

 夜気がまだ残る空気を肺いっぱいに吸い込むと、気が引き締まった。


「……曽根。馬は?」


「村外れに用意してある。急げば昼過ぎには国境につく」


 歩調を緩めず、曽根が答えた。


 その時、上泉がふと足を止めた。


 湊と曽根も、反射的に立ち止まる。


「どうしました?」


「……誰か、こちらを追っている」


 わずかに風が揺れただけの静寂の中に、上泉だけが“刃の匂い”を感じ取っていた。


 湊は振り返り、薄暗い通りを見つめる。


 遠目に、一つの影がある。

 歩みは静かだが、無駄のない、奇妙な重心移動――。


「……寺に出入りしていた浪人、ですか?」


「おそらくな。しかし――理由が読めぬ」


 上泉の声は低い。

 だが刀に手は添えない。見極めようとしているのだ。



 やがて、影は三人から一定の距離を保った場所で足を止めた。


 湊は一歩前に出る。


(名乗る気配……ないな)


 男の背は高くない。

 だが、夜明け前の薄闇の中でも、その顔立ちは不自然なほど整っていた。

 乱れた前髪の奥、刃のように澄んだ目が、静かにこちらを映している。


(……顔だけ見れば、戦場に立つ男には見えぬな)


 肩の力が奇妙に抜けていて、どこにも隙がない。

 それは“いい加減な者の気楽さ”ではなく、無数の戦場で身体が自然に覚えた構えだった。


 湊は言った。


「……ついてきた理由を聞いても?」


 男は返事をしない。

 代わりに、風が一度だけ彼の前髪を揺らした。


 その直後。


 湊は気づいた。


(――足だ)


 立ち姿では分かりにくい。

 だが、足の前後の置き方、重心の逃がし方、つま先の角度。


 どれも“ただの寺雇いの浪人”ではあり得ない。


 曽根が小さく呟いた。


「……殿、こいつ、足軽や侍大将の動きじゃねぇ。武家の中でも、よほど上の……」


 言葉を探すように詰まる。


「むしろ、戦場で百以上の首を見てきた者の足です」


 最後に出た湊の言葉に、上泉がわずかに目を細めた。


 浪人はやはり、返事をしない。

 ただ、こちらの言葉を静かに“測っている”。


「名乗る気は、ないようですね」


 湊が言うと、男の口元が僅かに動いた。


 声にはならない。


 しかし、湊はおぼろげに理解した。


(――まだ名乗れぬ、か)


 寺に雇われただけの浪人ではない。

 だが、敵でも味方でもない“第三の存在”。


 その立場を、簡単には明かせないのだ。



「どうされますか?」


 上泉が問う。


「連れて行きます。ここで振り払う方が、危険ですから」


 湊の言葉に、男は小さく顎を引いた。

 それは頷きに限りなく近かった。


 曽根が眉を寄せる。


「殿、いいのか? どこの馬の骨か分からねぇ奴だぞ?」


「逆です」


 湊は低く言う。


「名を隠す理由があるなら、こちらの出方も見た方がいい」


「……ふん。お前、そういうところがあるよな」


 曽根は呆れたようで、どこか安心した顔をした。


 上泉は湊の隣に立ち、浪人へ目を向ける。


「名を名乗らぬは勝手。しかし、湊殿の後ろを歩いてくれ」


 浪人は静かに頷いた。


(支配しようとせず、だが一線は引く。これが“道場の師”の在り方か……)


 湊は胸の内で苦笑した。


 この二人の対比は、あまりにも美しい。


 ・上泉――まっすぐな背と剣の道

 ・謎の浪人――夜に溶ける、刃のような美


 どちらも“守り方”がまるで違う。


 その二人と共に歩くことになるのは、奇妙だが、心地よい緊張感があった。



 村外れの馬小屋につく頃には、空がすっかり朱に染まっていた。


 曽根が用意していた三頭の馬。

 だが、湊は一度振り返る。


「四頭……必要かもしれません」


 浪人がついてくる姿勢を崩していない。

 その意志を“拒まない”と判断したからだ。


 曽根が舌打ちしつつ、馬番の親父に声をかける。


「悪い、一頭追加だ!」


 馬番が慌てて厩舎の奥へ走っていく。


 その時。


 上泉が浪人に問いかけた。


「……馬に乗れるか?」


 浪人は、ゆっくりと頷いた。


 湊は思わず目を細める。


(馬にも乗れる……か。やはり、寺の下働きが持つ技量ではない)


 だが、名乗らない理由は依然として分からない。


 浅香――

 そう名乗る日は、まだ先になりそうだった。



 馬が四頭そろい、湊たちは馬上へと上がる。


 国境へ向かう道は、まだ薄い靄が残り、森の息が白く立っていた。


 馬のいななきの中、湊は前を見据える。


 火種は溝口領。

 越後衆、溝口家の残留勢、そして“不満”という見えない敵。


 その中へ、三人と一人で乗り込む。


 胸の奥がひりつくほどの緊張。

 だが、不思議と不安はなかった。


(越後と会津をつなぐ橋になる……)


 上泉の言葉が、背中を支える。

 そして、後ろから無言でついてくる浪人の存在も、奇妙な重みを与えていた。


 馬が地を蹴り、東へ走り出す。


 会津の朝日が、四人の影を長く伸ばした。

森道を進むにつれ、朝靄は次第に薄れ、代わりに冷えた空気が頬を打つようになった。馬の吐く白い息が、一定の間隔で前方へ流れていく。冬の名残を思わせる冷気が、まだ地に染みついている。湊は手綱を握る指に、わずかに力を込めた。


 越後国。

 溝口領。


 その名を思い浮かべるだけで、胸の奥に小さな棘が刺さる。上杉の直轄に近い土地でありながら、旧来の家臣、土豪、浪人衆が複雑に入り混じる地。年貢の配分、役人の増員、急な支配体制の変更――その一つ一つが、静かに不満を積み重ねていく。


 戦になれば分かりやすい。敵も味方も、刃の向きで定まる。

 だが、騒乱は違う。

 誰もが正しさを主張し、誰もが被害者を名乗る。


(火は、上がる前に消す)

 それが、今の自分に課された役目だと、湊は理解していた。


 馬上で背筋を正し、耳を澄ます。蹄の音は四つ。そのうち一つが、僅かに遅れ、しかし決して乱れない。振り返らずとも分かる。名も告げぬ浪人だ。


 一定の距離。

 近すぎず、遠すぎず。

 上泉の横を保ち、決して前には出ない。


 その立ち位置が、湊の神経を静かに刺激していた。


「……妙だな」


 曽根が、前を見据えたまま低く言った。


「何がだ」


「後ろの浪人だ」


 曽根は視線だけで示す。


「普通、得体の知れねぇ奴なら、警戒して余計な動きをする。だが、あいつは違う。動きが……慣れすぎている」


 湊は答えず、耳を傾けた。


「護衛の位置だ」


 上泉が、静かに言った。


 その一言で、すべてが腑に落ちた。


(やはりな)


 あの浪人は、誰か特定の主を守っているわけではない。場そのもの、均衡そのものを守る者の距離感だ。事が荒れる前に、荒れぬ方向へと力を添える。敵にも味方にもなり得る、曖昧な立場。


 道はやがて峠へと差しかかる。左右を切り立った斜面に挟まれ、視界が狭まり、音が不自然に反響する。湊は手綱を引いた。


「速度を落とす」


「了解だ」


 曽根が短く応じた、その瞬間だった。


 前方の霧が、不自然に揺れた。


「止まれ」


 上泉の声と同時に、四頭の馬がほぼ同時に足を止める。


 次の瞬間、霧の中から三つの影が現れた。


 槍を持つ者が二人。

 刀を帯びた者が一人。


 身なりは粗末だが、足運びに無駄がない。獣のような荒さではなく、人の動きとして整っている。


「……この道は通せねぇな」


 中央の男が、一歩前に出た。


「最近、物騒でよ。余所者は、通さねぇ決まりだ」


 湊は、馬上から静かに名を告げた。


「会津より来た、湊という者だ」


「会津?」


 男は鼻で笑った。


「関係ねぇな。今は、溝口様のお膝元だ」


 空気が張りつめる。


 曽根が、柄に手をかけた。


 その瞬間。


 背後で、気配が一つ、僅かに動いた。


 浪人だ。


 だが、前には出ない。

 半歩、斜め後方へ。


 槍の間合いから、自然に外れる位置。


(――来る)


 湊がそう判断した瞬間、左の槍が突き出された。


 だが、刃が届くより早く、上泉の刀が音もなく抜ける。


 一閃。


 槍先が弾かれ、地に落ちた。


 続けて右から来た槍に対し、浪人が動いた。


 速さではない。

 無駄が、ない。


 滑るように前へ出て、柄を打ち、手首を落とす。

 槍が、地に転がった。


 最後に残った男が、息を呑む。


「ここで斬り合うつもりはない」


 湊の声が、低く響いた。


「退け」


 男たちは、霧の中へと消えていった。


 静寂が戻る。


 曽根が、思わず声を漏らした。


「……おい」


 浪人を見る。


「今の、何だ?」


 浪人は答えない。ただ、元の位置へと戻る。


 上泉が刀を納めながら言った。


「見事な体捌きだ」


 浪人は、目を伏せた。


「……助太刀、感謝する」


 湊が告げると、浪人はわずかに首を振った。それは否定とも肯定とも取れる、曖昧な動きだった。


(やはり、ただの浪人ではない)


 だが、湊はそれ以上問わなかった。


 峠を越えると、霧が晴れ、越後の大地が広がった。湿った風が、肌を撫でる。溝口領は、もう近い。


 湊は前を見据える。


(ここからだ)


 背後には、剣の道を歩む師と、影に生きる美しき剣客。


 四人は、再び馬を進めた。


 越後の風が、静かに吹き抜けていった。

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