62話: 二つの火種、夜に動く
翌朝。
雪雲は薄く、空の端にわずかな光が差していた。
会津の冬にしては珍しく、風が弱い。
だが、湊の胸に漂う空気は、それとは逆に重いものだった。
(……越後が揺らいでいる。噂だけで終わるとは思えない)
政庁へ向かうと、門の前に八代が立っていた。
微かに眉を寄せ、湊を見つけるなり声を潜める。
「湊殿。……少し厄介な報せがあります」
「越後の件ですね?」
「はい。早いですね、察しが」
八代は小さく息を吐いた。
「朝の飛脚が持ってきました。
——“堀家に送られるはずの年貢が届いていない”と」
(……やはり来たか)
噂は形になり始めた。
湊はその紙を受け取り、中を走り読みした。
墨跡はまだ新しく、飛脚が急いだ様子がそのまま残っている。
「……堀家側が、上杉家の対応を“無礼”と捉え始めている様子です。
『上杉は年貢を握り潰す気か』と」
「完全に外交問題ですね」
「はい。このままでは、堀家が幕府に訴える可能性もあります。
……兼続様が越後に未練を抱いていたのは確かですが、ここまでとは」
八代の言葉は淡々としていた。
だが、内心の焦りは隠せていない。
(兼続は越後を失った痛みを引きずっている。
だからこそ、堀家に渡したくないのは分かる……だけど──)
「感情で動けば、国は必ず揺らぐ」
湊は静かに呟いた。
ちょうどそのとき、政庁の奥から足音が聞こえた。
長身の影が現れ、湊たちの前に立つ。
「——越後の話か」
低く静かな声。
影の主は、曽根昌世だった。
彼は昨夜の疲れを微塵も見せていない。
腰の刀は雪を吸ったのか、鞘が少し黒く光っていた。
「曽根殿。越後からの報が届きました」
湊が紙を渡すと、曽根は一読して眉をひそめた。
「……まずいな。堀家は徳川家とも縁が深い。
幕府への訴えが通れば、景勝様の立場はさらに悪くなる」
「はい。だからこそ、僕は——」
湊が言いかけたその瞬間。
「清原、来たか」
政庁の戸が開き、直江兼続が姿を現した。
袖口には徹夜の痕跡があり、目の下にわずかな陰がある。
(……兼続様も、噂を掴んでいるな)
「越後の件、どうお考えですか?」
質問ではない。
兼続に“覚悟を問う”ような響き。
湊はその場に緊張が走るのを感じた。
兼続は深くため息をついた。
「確かに……堀家へ渡るはずの年貢の一部は、会津に回した。
だが、それだけではない」
「と、申しますと?」
「越後の農村は、今……荒れている。
堀家の支配が急すぎ、役人が増税に走った。
それを見過ごせなかったのだ。
そのまま渡せば、越後の民はさらに疲弊する。
わしが守らねば、誰が守る?」
その目は真剣だった。
嘘をついている者の目ではない。
(……兼続は、義に生きる人だ。
だからこそ、時に“正しすぎる選択”をする)
湊は静かに告げた。
「しかし兼続様。
年貢を無断で移せば、堀家は怒る。
それ以上に、幕府が問題視します」
「わかっている。
だが堀家に渡すべき年貢をすべて渡せば、越後の農民が冬を越せぬ」
「その気持ちは理解できます。
だからこそ、僕に提案があります」
兼続と曽根、八代が湊を見つめる。
湊はゆっくりと息を吸った。
「——まず、年貢の“半分”を返却することです」
兼続の眉が僅かに動く。
「……半分、か」
「はい。
越後の農民を守るための一定量は確保する。
そのうえで、堀家との摩擦を最小限に抑える。
これなら両方を守れます」
「……だが堀家は納得するか?」
「納得させるための“理由”を作るのです。
越後の農村が荒れている現状を、事実として調べさせる。
それを幕府に提出すれば、“やむを得ぬ判断”と評価されます」
兼続の瞳に微かな光が戻る。
「……なるほど。
罪ではなく、救済として調停するか」
「はい。
会津は“人を救うために動いた”と示せます。
そして堀家には、時間を稼がせてもらう」
八代が息を呑む。
「……それなら、堀家も強く出られませんね。
越後の乱れが事実なら、幕府も咎めにくい」
曽根も頷いた。
「清原。おぬしの案は理にかなっている。
だが、堀家が本当に越後を荒らしているのか……調べが必要だ」
「その調査を——僕に任せてください」
兼続が目を見開いた。
「湊、そなたが行くのか?」
「はい。
僕は越後衆でもなく、会津衆でもない。
だからこそ、越後の農村が何を求めているか、
偏りなく聞けるはずです。」
その言葉に、兼続はじっと湊を見つめた。
やがて、小さく笑う。
「……本当に、不思議な男だ。
お前は剣も振らず、政も知らぬ。
だが“人を動かす力”がある」
湊は軽く頭を下げた。
「制度を作るというのは、
人の心を整えることだと、僕は思っています」
「ならば行け、湊。
——越後の火種を、見てこい」
その声は、雪を踏む音のように重く、静かだった。
✦
政庁を出ると、曽根が隣に立っていた。
雪の光がその顔に淡く反射している。
「……清原。越後に行くなら、護衛が必要だ」
「ありがとうございます。ただ、僕はまだ——」
「お前ひとりでは行かせん」
曽根の声に迷いはなかった。
「堀家の目、浪人の目……全てが混ざる厄介な場所だ」
「曽根殿……」
「決まりだ。
三雲、名古屋、八代にも伝えておけ。
それと——」
曽根は少しだけ微笑んだ。
「上泉も同行するだろう。
“剣しか持たぬ男”は、こういう場にこそ必要だからな」
(……上泉さんが来てくれるのか)
湊の胸に、わずかな安堵が生まれた。
✦
そのとき、政庁の廊下の奥で一瞬、影が動いた。
背筋が伸びた細身の影。
足音は軽く、しかし迷いがない。
(……上泉さんだ)
すれ違いざま、彼は静かに言った。
「越後へ行くのでしょう、清原殿。
あなたが行くなら、私も剣を持って行きます」
その声音には、迷いがなかった。
(剣の時代を終わらせるために……剣が必要なのか)
湊は胸の奥で呟いた。
越後へ向かう道は、雪よりも冷たく、険しい。
だが、退く理由はどこにもなかった。
湊が部屋へ戻る頃には、夕刻の鐘が遠くで鳴っていた。薄暗い廊下の向こうで、曽根が腕を組んで待っていた。
「……で、どうだった?」
「予想以上に厄介だよ」
湊は小さく息をついた。
「越後では“堀家に年貢が届いていない”という噂が広まりつつある。堀家にしてみれば面子に関わる問題だし……訴えを幕府へ持ち込まれる可能性が高い」
曽根の眉が険しくなる。
「徳川が喜びそうな話だな。景勝様に圧をかけられる」
「うん。だから――“半分を返す”という方向で兼続様に提案した」
曽根は口をぽかんと開けた。
「半分返す……? そんなこと出来るのか?」
「むしろ、やるしかない。越後に火種を残したまま神指城を完成させても、背中を刺されるだけだから」
湊は懐から書状の控えを出した。八代から預かった、兼続に届ける前段階の整理案だ。
「越後へ返す理由は“財政再建のための調整”として説明する。越後の年貢を一時的に会津の普請に回した、という形。無断で横流しした『個人の逸脱』ではなく、状況に応じた『制度上の措置』だったと整理する」
曽根は深く息を吐いた。
「……八代殿らしいな。柔らかく見えて、芯は鉄みたいな男だ」
「兼続様なら、飲んでくれると思う。今の会津の台所事情、分かっている人だから」
言い終わらぬうちに、曽根が視線を横へそらした。
「どうかした?」
「いや……妙な気配がな。廊下じゃねぇ。屋敷の外だ。
あいつだ、“寺に出入りしてた浪人”。お前を見てる気配がした」
湊の胸がざわりと揺れた。
「見間違いでは?」
「だったらいいが……あの歩き方は忘れねぇよ」
曽根の勘は軽くなかった。湊は外へ出ることを決めた。
「確かめてくる」
◆
屋敷から少し離れた裏門付近。外灯の揺れる光の輪から、わずかに離れた土塀の影。
そこに、“誰か”がいた。
背中を丸めず、わずかに前脚を抜いたような立ち方。
寺で見た浪人の姿と一致する――“気配”が。
その瞬間、背後から柔らかな声。
「湊殿、下がってください」
上泉泰綱だった。護衛として控えているのは自然だ。夜の政庁は、既に緊張の場になっていた。
影はゆっくりこちらを見た。
顔立ちは暗くて見えない。だが、美しい、と言うべきか。凛とした輪郭が一瞬灯りに浮かんだ。
そのまま、軽やかな足捌きで闇へ戻っていく。
――名乗りもせず、気配も残さず。
湊は追わなかった。追えば“斬り合いになる”と直感したからだ。
「上泉さん……あの者を?」
「名は分かりません。しかし、ただ者ではない。『寺に雇われている浪人』という器ではありません」
「……別筋、か」
「ええ。“戦場の足”をしています。武勇で身を立ててきた者の歩法です」
湊はわずかに震えた。
――蒲生の旧臣、あるいは各地を渡り歩いた剣豪。
だが名乗られない以上、湊が知る由はない。
上泉だけが、静かに小さく言った。
「いずれ名を明かすでしょう。今は、敵とも味方とも判断がつきません」
◆
夜。湊は八代と相談しながら文案の清書を終えた。
「……明日、兼続様に出します」
八代はうなずく。
「湊殿。これは上杉の未来を左右する提案です。慎重に、しかし恐れず進んでください」
「はい」
八代はさらに声を落とす。
「堀家が徳川に訴えれば、会津征討の口実になります。越後の反乱と連動すれば……“二方向包囲”です」
湊は筆を置いた。
「……だからこそ、両方を塞ぐ必要がある」
「ええ。越後の返還。寺勢力の牽制。そして兼続様の盾。
すべてを進められるのは、湊殿しかいません」
胸が熱くなった瞬間、襖の外から声がした。
「湊殿! 急ぎの知らせ!」
曽根だ。
湊が立ち上がると、曽根の顔は緊迫していた。
「溝口領の一部で……“集まり”が始まってるらしい。まだ反乱と決まったわけじゃないが、火がつきそうだ」
湊は静かに息を整えた。
――ついに来た。
「二手に分かれます。俺は溝口領へ。八代さんは兼続様へ“返還案”を」
八代は深く頷いた。
「必ず通します」
「曽根さん。同行者は……」
「誰にする?」
湊は迷わなかった。
「上泉さんだ。越後衆にも武芸者にも“名が通る”。あの人がいれば、無駄な流血は避けられる」
曽根は少し笑った。
「お前、いい顔するようになったな」
湊は刀の柄に軽く触れた。
「上杉の国を守るなら……やるべきことをやるだけだよ」
◆
外に出た瞬間、風が強く吹いた。
遠くで犬が吠える。
夜空を流れる雲の切れ目から、月が湊を照らす。
闇の向こう――ほんの一瞬、“あの浪人の気配”がした気がした。
だが振り返った時には、もう何もいなかった。
――“別筋”は動いている。
今の行動を見ている“誰か”がいる。
しかし湊の足は止まらない。
溝口領へ向かう道は、闇の中に続いている。
火種か、対話か、それとも血か。
けれど湊の心は澄んでいた。
――越後と会津を繋ぐ橋になる。
ただその意志だけが、まっすぐ胸の奥で燃えていた。




